第92話
当然ではあるが、その殻は特に挨拶をしながら近づくでもなく、誰か本体が姿を現して陽気に握手を求めてくることもなく、有機物質ではありながらも無機物的に、無音ではないにしろ無言で近づいて来た。
「ああ」レイヴンは無意識の内に呻くような声を挙げた。「来たか」
それに続く言葉を発する者はいなかった。
キャンディとオリュクスの競争についての議論も、もはや水泡に帰していた。
皆、降下してくる小さな殻を見つめ、ただその時を迎え入れるしかできなかったのだ。
「うん、レイヴン」口火を切ったのはやはり一番冷静なモサヒーだった。「問題はないと思いますが、うん、万一何か気がかりがあれば、うん、すぐにぼくに知らせて下さい」
「──ああ」レイヴンは改めて、信頼できる同僚に心からの感謝の気持ちを抱いた。「本当に、すべてにおいて君には世話になったよ。どうか元気で」ちらりとその触手の先にいる双葉を見遣り「幸せでいてくれよな」
「うん、はい」モサヒーは頷いたが、恐らくそれはコードセムーとの関係においての話では決してないことを、充分理解しているはずだ。「抜かりなく、うん、やり遂げます」
「君になら安心して任せられる」レイヴンはそう言って触手を惜別の形に組み、皆に向けて振った。「皆さんも、どうかお元気で。──またいつか、お会いしましょう」
そう、もしかしたらレイヴンに限っては、またこの惑星にやって来る可能性はあるのだ。
またいつか、もしかすると行方不明の動物がここ地球において発見されることがあるかも知れないのだから。
可能性として、ゼロではない。
籠の中の動物たちが何かを言い出す前にレイヴンは素早く殻の中に滑り込んだ。
「さようなら」キャンディが言い、
「会ったばかりだけど、気をつけて行けよな」ボブキャットが言い、
「まあ残念だけど、夫に免じて見逃してあげるわ」セムーが恩着せがましく言い、
「うん、レイヴン」モサヒーが最後に呼んだ。「また、うん、すぐに」
それらの声にレイヴンが返答する時間は与えられなかった。
殻は、降下して来た時の数倍のスピードで地球大気圏の脱出を開始した。
この星からの離脱というフェイズにおいて最大のエネルギーを使うことが、そのアルゴリズムには当然のこととして刻み込まれているのだ。
殻は、惜しげもなく地球を後にした。
◇◆◇
「こちらはコードセムー。全ギルド員に報せます」
唐突に、一度聞いた覚えのある声でまたもや報告が入った。
セムーか。
コードルルーは脳裡に皮肉が浮かぶのを自制することもしなかった。
今度はなんだ?
待望の子が生まれましたとでもいうのか?
それとも、残念ながら夫と離別しましたとでも?
我々は、いちいちこの報告を聞く義務が、必要が、見返りが何かしらあるのか?
「レイヴンは今、地球から脱出しました」
「──」
前回と同様、すぐに反応する者はいなかった。
「その代わりに、私の夫、モサヒーが今からギルドへ来てくれます。レイヴンに代わって、彼があの翼つきの動物を世話してくれます」
「待て」これも前回同様、最初に言葉を投げ返したのはルルーだった。「誰がいつ、それを決めたんだ? コードセムー、まさかお前が独断で」
「私ではなく、夫が決めたわ」セムーは落ち着いた声で答えた。「私としては、夫の判断に疑いを持つ理由がないわ。レイヴンでなくても、彼の親友である夫モサヒーなら、あるいはレイヴンよりも遥かに優れた仕事をしてくれるでしょうから」
「何を言って」
「コードセムーより、レイヴンの言動ログが伝達された」
ルルーの怒声を遮り、ギルド本部からの報告が入った。
「何──」
訊き返す前に、ルルーの感知帯に突如水平線と、ばかでかいウマに似た動物──水面上に四つ足で立っている──、その背の上にこれまた四つ足で立っている通常サイズのボブキャット、そして何かの触手にぐるぐる巻きにされたコードセムーと思われるギルド員と、その触手の主である生命体──レイヴンに似たホコリ似の奴──という面々の姿が現れた。
そしてそこには、確かにギルド内で捕獲対象とされていたレイヴン、まさにそのホコリ野郎が、呑気に漂っていた。




