私を完成させて
雨粒が窓を叩くたび、アトリエの奥で揺れるキャンバスが、まるで呼吸しているように見えた。絵の具の匂いが残る薄暗い部屋の中心に、その一枚だけ異様な存在感を放つ未完の絵がある。
——いや、未完ではない。ひとりの女性がこちらを振り返ろうとしている姿が描かれている絵だが、描いた本人である私の父曰く、この絵は完成しているらしい。左目に色が塗られていなくとも、髪が塗りつぶされておらずとも、私はもう筆を入れることはない、と父は言う。
その絵の背景はどこかの風景を描いているようにも見えるし、そうでないようにも見える。海の中にいるような気もすれば、空の彼方に焦がれているような気もする。塗が足りないから、主題がわからない。他人の目から見れば明らかに未完成だ。父も客観的から見てこの絵が未完成であることは認めている。しかし、父はこの絵どころかこのアトリエにある絵全てを完成させることはなかった。
——そして五年前、父は大病を患って一本の絵筆すら握れなくなり亡くなった。
今日は父が死んでちょうど五年目の命日。久々に父のアトリエに入った理由は、ただ何となく、父が書いた絵を眺めたかったからだった。葬式以来立ち入っていなかった場所には、少し埃っぽい臭いがする。
父が遺した作品たち、制作途中の絵、散乱する画材や本。それらを見る度に思い出が蘇る。小さな頃、父に憧れを抱き仲が良好だったころの記憶、高校生になり反抗期に突入した私に対する対応、そして成人して一人暮らしを始めてから実家に帰らないことが増えていった私への最後の言葉……。一つひとつの記憶が鮮明によみがえる。
思い出にふけっていると、私は振り返る女性の絵をみて一つ気づいた事があった。思わず後ずさる。
——こちらを、見ている。
どれほど目をそらしても、再び視界に入ると、その片方の瞳の焦点は必ず“私”に結びついていた。
その瞬間、背後の棚がひとりでに震え、立てかけてあった絵が床にぶつかって鈍い音を立てた。
「……君がやっているのか?」
呟いた声に答えるように、絵の中の女性の肩が、わずかに上がった気がした。まさか、と思う。しかしその“まさか”は、次の瞬間、現実になった。
絵から——ぽたり、と一滴の水が床に落ちた。
水面のような、清澄な滴だった。それはまるで、絵の向こうに“別の世界”があるかのように。その滴が床に触れるや否や、キャンバスはまるで古い硝子の窓のように変質した。油絵具の重厚なマチエールは消え、代わりに、表面全体にさざ波が立った。女性の絵は、輪郭を保ちつつも、その周囲が、絵を飛び出してアトリエが急速に書き換わっていく。アトリエの薄暗い壁ではなく、朝の光に満ちた、広い書斎のような空間が見え始めた。古風な木製デスク、積み上げられた分厚い本、そして窓の外には、主人公の知る風景とは全く異なる、石造りの建物の尖塔が覗いている。
絵の中の女性は、もはや「振り返ろうとしている」姿勢ではない。彼女は完全にこちらを向き、その瞳に焦点を結んだまま、静かに口を開いた。
「ねぇ、あなた」
声は、微かな、しかし震えるほどの透明感を持ってアトリエに響いた。それは絵の具の匂いをかき消し、雨音さえも遠ざける。
「助けて」
女性がそう言うと、彼女の頬を伝う一筋の涙のような光が、キャンバスの表面に触れた。その場所から、絵画は急速に崩壊を始めた。青、赤、黄...。色彩が霧散し、まるで水面に描かれた幻影のように、彼女の姿が揺らぎだす。このままでは、彼女の存在そのものが消えてしまう。異様な絵であるが私は父が書いた絵の中で一番この絵が好きだ。私が物心つく前に死んだ母だとされているが、写真を見たことがないのでわからない。しかしどうしようもなく愛おしく感じるのだ。今、消えようとしているこの絵は私が何とかして守らなければならない。まるで、身体の奥底に眠っていた記憶が、絵と重なるように呼び覚まされる。
父のアトリエに飾ってある中で唯一無二の異彩を放つ一枚の絵が今、絵という枠組みを越えて私を誘うかのように手招きをしている。
心臓は激しく脈打った。これは単なる芸術的な怪奇現象ではない。これは、介入を求める、もう一つの現実からの切実な呼び声だ。
「どうすればいい!」私は反射的に叫ぶ。
次の瞬間、女性は微かに笑んだ。その微かな微笑みには、救われた安堵よりも、何かを悟った決意が込められていた。
「触れて」
その言葉が消える前に、私は恐怖を振り払い、液体のようになったキャンバスの中へ、ためらいなく手を差し入れた。 冷たい、水のような感触。しかし、それは溶けた絵の具ではなく、光を放つ清澄な液体の膜を通り抜けた感触だった。私の視界は、一瞬で純粋な白に包まれた。
耳鳴りがした後、次に感じたのは、乾いた空気と、自分の手に触れる、柔らかな肌の温もりだった。目を開けると、そこは朝の光に満ちた書斎だった。光は窓から豪奢なステンドグラスを通り、床に複雑な色の斑点を落としている。空気が違う。アトリエの絵の具と湿気の匂いではなく、古い紙とインク、そして微かなラベンダーの香りが満ちていた。あの絵の背景は、この場所だったのだ。そして、すぐ隣に——彼女がいた。
キャンバスの中で見せた頬の影や微笑みは、近くで見ると一層鮮明だった。彼女は私の手をしっかりと握りしめている。その指先が微かに震えていたが、瞳は力強く私を見つめ返していた。
「無事に……来てくれたのね」
彼女の声は、もうアトリエに響いた時のような距離を感じさせない。リアルで、暖かい。
「ここは……どこなんだ? 」掠れた声で尋ねた。
女性は周囲を見回し、悲しげに首を横に振った。
「私の部屋よ。でも、この空間はキャンバスに反映されず、消えかけているの」
この空間はどうも、父が絵をかいていたアトリエに似ている。部屋の中央に置かれた巨大な木製デスクの上には、開かれたままの一冊の厚い画集がある。表紙には何も書かれていないが、そのページには、父の絵と驚くほど似た構図の素描が描かれていた。違いは、それらすべてがモノクロで、細部まで緻密に描写されていることだ。現実世界の父の絵は、ここまで緻密に描かれていなかったはずだ。
「どう?とってもきれいに書けてるでしょう?」
「あぁ、綺麗だ。とても、よく.....」
「そうでしょ?彼の脳内では、ここまで想定されてるものだったのよ」
女性は、穏やかに笑った。その笑顔は、キャンバスの中の寂しさとは別人のように生き生きとしていた。私はその笑顔に、言いようのない懐かしさを覚えた。まるでずっと昔から、この人物を知っていたかのような錯覚が、頭の奥に芽生える。
彼女は、私が来た「窓」——今はただの空白のキャンバスが立てかけられたままになっている壁を振り返った。
「私は『描かれた者』。この世界が、ある画家によって完成されるのを待っていた。完成すれば、私もこの世界と共に解放されるはずだった」
女性は目を閉じた。
「でも、彼は、私を『未完』として放棄した。彼にとって私は、最初から完成品として作られるつもりはなかったのよ。だからこそ、世界はいびつで形を持てず、私はこの部屋から出られない」
父の言葉が、突然頭をよぎった。
——「完成していないのではない。その方が良いから、描かない」
父は、常に自分の作品を「構想」と呼んでいた。それがどういう意味だったのか、今になって理解できた。あの絵も他の絵も、父にとっては『完璧な構想』の時点で価値があり、実際に色彩を与える必要などなかったのだ。女性は主人公の手を離し、画集のページを優しくなぞった。
「彼が描こうとしたのは、『永遠の静寂』。私が動くことのない、ただ見つめているだけの、『永遠の肖像』だった。だが、私はただの静物ではない。生きたいと願ってしまった。それを感じた瞬間、この世界が生まれてしまった。動いてはいけなかったのに。世界は歪んだ。ここには時間が流れ、風が吹き、私に思考と感情がある」
私は息を飲んだ。彼女の表情は、どこか諦めに似た陰を帯びていた。
「この世界は、彼が筆を置いた瞬間に止まったまま。私がキャンバスにあなたを描き出すことで、ここに来た。あなたは、彼ではない、別の創造主。だけど、あなたにしかできないことがある」
女性は、私の顔を真っ直ぐに見つめた。
「私を完成させて。」
その瞬間、書斎のドアが、ゆっくりと、軋む音を立てて開いた。開いた先には、深い影。そして、その影の中から、冷たい石膏のような匂いと、キャンバスを削るような微かな音が、近づいてくるのを感じた。
「誰だ?」
「いけない!彼が戻ってきた.....彼は、この世界の『創造主』あなたの存在を決して許しはしないわ.....」
彼女の顔に、明確な恐怖が走った。
「急いで。完成させなければ、あなたも私も、彼の『永遠』に囚われてしまう……!」
私は、この異常な世界で、「父の未完成の絵」を完成させるという、究極の難題に直面した。ドアの隙間から吹き込んだ冷気が、書斎の空気を一瞬で凍らせた。影の奥で、何かがゆっくりと擦れる音がする。まるで鉛筆の芯が紙を引っかくような、乾いた音。
——描いている。
私は直感した。あの影の中にいる“彼”は、今まさに何かを描き足している。それはきっと、私か、あるいは——彼女の“運命そのもの”だ。
「急いで!」
彼女が私の手を再び掴んだ。温かい。だが、その温もりは不安定で、触れたそばから霧散してしまいそうなほど脆かった。
「でも....君は父の作品だ。それを完成させるなんて……」
「確かに私はあの人から来てるけど.....あなたがここに来たことで今の私を形成しているのよ。あなたはただの鑑賞者じゃない。あの人と同じ想像できる人よ。お願い、あなたが“完成”だと思う形を、私に与えて。それが、この世界と私の運命を変える」
ドアの向こうの影が動いた。書斎に一歩、影が踏み入れる。足音はない。だが、そこに“質量”が生まれた瞬間、書斎の床板がきしむ音をあげた。私は思わずその場に立ちすくむ。影の中心に、人影。その輪郭は曖昧で、鉛筆の下書きのように不完全だ。しかし、その“目”だけははっきりと描かれていた。まるで石像の瞳のように、無機質で、冷たく、永遠を欲する者の眼差し。父の目もそうだった。父がキャンバスに向かうとき、決まってその目をしていた。情熱ではなく、完璧という概念への執着。幼い頃には何もわかっていなかったが、今思えばあれは一種の狂気に近かったのだ。“彼”は手に一本の長い筆を持っている。
筆先は黒くぬられ、滴り落ちたインクが床に点々と黒い痕を作っていた。
「完成は……許さない」
声は響かず、直接、私の脳に刺さった。
「完成は終わり。終わりは死。私は終わらない世界を描いた。永遠を描いた。おまえは——その永遠を壊しに来たのか?」
影の筆が、宙に浮いた。その瞬間、書斎の空気が歪む。私の足元に、黒い線が走った。
まるで私の姿をトレースしようとするかのように、その線はゆっくりと輪郭を形作り始める。
「やめて!」
彼女が叫んだ。
「“描かれた存在”にされてしまうわ!そうなれば、あなたは永遠に『この世界の一部』になってしまう!」
冷たい汗が背筋を伝う。彼女が私の体を引き、ドアとは反対側へと押しやった。黒い筆線は空を切り、床に落ちて煙のように溶けていく。影は動じない。
再び筆を構える。彼女が囁いた。
「あなたが……アトリエで私をどう見ていたか。どう“描きたい”と思ったか。それを私に触れさせて——」
私は、胸の奥を掘り起こすように意識を集中させた。アトリエにいたとき、あの未完の絵を見て、何を感じたか。なぜこちらの世界にくることを受け入れたのか。彼女の存在のどこが、自分を捉えて離さなかったのか。恐怖ではない。魅惑でもない。もっと単純で、もっと危ういもの。
——生きている。
そう、この絵の異様さはそこから来ていた。あの絵が“生きている”と感じた瞬間。自分が今ここで感じている彼女の温度、息遣い、震えでさえ、すべてがあのアトリエにいた時から感じていたものだ。私はそっと、彼女の頬に手を添えた。
「私は……君を静物なんかだとは思わなかった。動きたければ動いていい。泣きたければ泣いて、笑いたければ笑っていい。私は……“君が君である絵”を描きたい」
その言葉が落ちた瞬間——書斎の光が、爆発した。
ステンドグラスが震え、床に落ちる色の粒が宙で渦を巻く。彼女の身体が淡く光り、その光が私の胸へと吸い込まれるように広がった。影が叫んだ。
「やめろ……!それは“永遠”ではない……!崩壊を招く気か……!」
私の手のひらに、光が収束していく。それは筆ではない。だが、確かに“描く力”を持った何か。
——創造するという意図そのもの。
「完成させるよ」
私が囁いた瞬間。影が筆をこちらに向け突き出した。黒い閃光が貫こうと走る。
その刹那、彼女が私の前に立った。
「なに——!?」
光が弾ける。黒と白が激突し、書斎の壁がぐにゃりと溶けてゆく。世界が、完成しようとしていた。黒い閃光が彼女に触れる、その間際。私の手に収束した「描く力」、「創造するという意図そのもの」が、彼女の背中を通して全身に流れ込んだ。彼女の身体を包んでいた淡い光は、一瞬で七色の、鮮烈な現実の色彩へと変化した。それまでの彼女は、光の当たらない薄暗い部屋の中にいるような、どこかマットで不完全な色調だった。しかし今、彼女の髪には太陽の暖かさ、唇には生命の赤、そして瞳には、何にも囚われない自由な青が宿った。
彼女は、「完成」したのだ。
「永遠」を打ち破る、「瞬間」の完成。
黒い閃光は、彼女の皮膚に触れる直前で、まるで古いインクが水に溶けるように、勢いを失い霧散した。影は後ずさった。彼の筆から、乾いた石膏が剥がれ落ちるような、忌まわしい音が響く。
「不可能だ……。私は……おまえの動きを止めたはずだ!時の流れも、感情の波さえも!」
影の声は、今や私の脳内ではなく、書斎全体に、ガラスを擦るような不快な音として響き渡った。
「君は、私に反抗したのか……!?描かれた者の分際で、描かれざる意図を作者である私の許可なく宿したのか!」
彼女は影へ振り返らない。ただ、前を向いたまま、静かに口を開いた。
「あなたは、私を完成させるつもりがなかった....だから私はあなたの手から離れて、あなたではない人の手で完成できたの」
「そんなことは——有り得ない!私の手でなければ、それは『描かれた』ことにならない!」
彼女の言葉が発されるたび、書斎の空間を縛っていた不自然な静寂が、少しずつ破られていく。壁に飾られた風景画の色が濃くなり、デスクの上の画集の紙が、風もないのにめくれた。
「いいえ、私とあなたは対等な関係にあるの。作品は一方的に作者から生まれてくるものじゃない。私もあなたに影響を与えられる。だからこそ、私は選ぶことができるのよ。誰の“構想”の内で生きるのかを」
その瞬間、彼女の背後で、私の手に残った「創造の光」が、まるで筆先のように宙を舞った。光は、彼女の背中の空間、すなわち彼女が「いるべき」背景を、一気に描き出した。それはアトリエでも、書斎でもない。風が吹き、雲が流れ、光が満ちる、開放的な草原だった。
世界が、急速に完成へと向かう。
「永遠」の支配者である影の存在が、急速に不安定になる。彼の輪郭を形作っていた黒いインクが、彼女の描いた「生きた背景」の光に照らされ、ひび割れた。
「やめろ……。私の……永遠を」
影は筆を振り上げ、自らの不完全な輪郭を必死に書き足そうとした。だが、彼の筆先は、もはや「描く力」を持っていない。私の「自由への意図」が、創造主の「支配の意図」を上回ったのだ。
「終わりは、死じゃない」
私は影の前に立ち、穏やかに言った。
「あなたが望んでいた『完成』とは、本当は何だったんだ?永遠を閉じ込めるのが目的じゃなかったはずだ」
「違う……私が欲しかったのは、絶対的な美……永遠に変わらぬ絵だった……!」
「だったら、なんで彼女を放っておいたんだ。未完成だっていうなら、永遠にこの絵を書かなきゃいけなかったんだ。それに、あなたは本当は『創造主』じゃないだろ。俺の父さんに過ぎないだろ。現実の苦しみから逃れようと、絵筆を握ったに過ぎないだろ。あんたはずっと怖かったんだ。絵の中でさえ永遠を得ることができなくて」
影は沈黙した。そして、その輪郭が急激に薄れはじめた。まるで、描かれた存在ではなく、単なる墨汁の染みに戻っていくように。
「父さん....終わりは次の始まりだ。俺もいつか父さんのように終わりを迎えるだろう。それでいいんだ。次の始まりがまた起きるんだから……」
その声と共に、彼女の全身から発せられた完成の光が、書斎全体を飲み込んだ。影は悲鳴を上げ、その無機質な瞳が、描かれたことのない恐怖に満たされた。彼は、自らが描いた「静寂の肖像」によって、今、塗り潰されようとしていた。ドォンという鈍い音と共に、世界は崩壊した。ステンドグラス、デスク、床板、そして影。すべてが、絵の具の粒となって宙に舞い上がり、次の瞬間に訪れた絶対的な静寂の中で、ゆっくりと消えていった。
次に私が目を覚ますと、そこは父のアトリエだった。雨は止み、窓の外から差し込む午後の光が、部屋全体をきらめかせている。床に散乱していたのは、倒れた棚と、その下敷きになった一枚のキャンバス。
私は飛び起きて、そのキャンバスに向かった。
そこには、もはや「未完の絵」はなかった。
代わりにあったのは——
柔らかな光の中で、優しく微笑んでいる、一人の女性の肖像画。 彼女はもう、こちらを振り返ろうとはしていない。彼女の瞳は、穏やかな視線で「向こう側の世界」を見つめている。彼女の髪は風に揺れ、絵の奥へと今にも歩みだしそうだ。
そして、その絵の下隅。
まるでサインのように、小さな文字が刻まれていた。それは私のでも。父のサインでもない。
『自由』
私は、無意識にキャンバスに触れた。乾いた油絵具の感触。しかし、触れた指先から、確かに生きているという、不思議な温かさが伝わってきた。
彼女は、永遠の静寂から解放され、私の「意図」によって、完全に「完成された存在」となった。
これで彼女は本当に自由になったのだろうか?
私は、窓の外の空を見上げた。青空のような彼女の瞳を思い浮かべながら。




