プロローグ 奪われ続けた人生
私の名はリリアナ=クロフォード。
クロフォード伯爵家の長女として生まれ、幼い頃から「家のために」生きるよう教育されてきた。
父はいつも私に言った。
「お前は長女なのだから、家のために完璧であれ」
だから私は努力した。
礼儀作法も、舞踏も、刺繍も、楽器も。
望まれるがままに習得し、誉められるより先に「まだ足りない」と叱責される日々。
けれど、その努力をねぎらってくれる人はほとんどいなかった。
私がどれほど淑女らしく振る舞っても、妹のメリアナが泣けば、皆がそちらへ駆け寄った。
私が舞踏会で上手に踊っても、「可憐なお姫様みたい」と言われるのはメリアナの方だった。
両親も使用人も親族も――皆が妹を甘やかした。
私は、いつも「お姉様だから」で片づけられた。
譲らなければならなかった。
奪われるばかりの人生。
けれど、それでも耐えられたのは、心の支えがあったからだ。
幼い頃から共に過ごしてきた婚約者――ライネル=ハワード。
王都でも有数の名門、公爵家の嫡男。
幼少期に縁組が決まり、私たちは互いに未来を約束された。
彼の隣に立つためならば。
いつか本当に愛される日が来るのならば。
そう信じて、私は淑女であり続けた。
妹に羨望されても、両親に冷遇されても、ただひたすらに「伯爵家の娘として恥じぬ妻」になろうと努力を重ねた。
けれど――その努力は、十年の想いは、あまりにも唐突に打ち砕かれた。
ある日の午後。
王宮の広間に呼び出された私は、婚約者ライネルと、そして妹のメリアナの姿を目にした。
「リリアナ。君との婚約は解消させてもらう」
冷ややかな声で言い放つライネルの隣で、メリアナが勝ち誇った笑みを浮かべていた。
「……理由を、伺ってもよろしいでしょうか」
かろうじて声を保ちながら尋ねる。
足は震えていたが、惨めな姿だけは晒すまいと必死だった。
「君は冷たすぎる。僕が求めているのは、もっと可憐で素直な女性なんだ。そう――メリアナのように」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に鋭い刃が突き立てられるのを感じた。
十年。
ただひたすら、彼のために淑女として生きてきた十年。
それが「冷たい」の一言で片づけられるのか。
「姉様には感謝していますのよ?」
メリアナが私の前に進み出て、わざとらしい笑みを浮かべる。
「姉様が努力している間に、私がライネル様の心をいただいてしまったんですもの。愛は努力では得られない、そういうことですわ」
周囲の視線が一斉に私へと注がれる。
あざ笑う者、憐れむ者、面白がる者。
喉の奥が熱くなり、言葉が出そうになる。
――でも、泣いてはいけない。
この場で取り乱せば、彼らの思う壺。
私は深く息を吸い込み、微笑んだ。
「……では、婚約は解消ということでよろしいのですね」
「ああ。君には別の道を歩んでもらう」
ライネルはあっさりと答える。
その表情に、一片の未練すらなかった。
――別の道。
それならば。
私は、この奪われ続けた人生をここで終わらせる。
奪う者たちの思惑通りに傷ついて立ち尽くすのではなく、自ら新しい道を選ぶ。
私は顔を上げ、視線を移した。
そこにいたのは、漆黒の礼服に身を包み、静かに成り行きを見守っていた一人の男。
――魔塔を統べる孤高の魔術師。
「冷徹魔術師」と恐れられ、王都の誰もが畏怖する存在。
魔塔主、ルーク=ヴァレンシュタイン。
彼の冷たい青の瞳が、私を見返していた。
気がつけば、口が動いていた。
「……ルーク様。どうか私を、妻にしてくださいませ」
広間の空気が凍りついた。
ライネルもメリアナも、周囲の貴族たちも、誰一人として言葉を発せない。
だが、当の本人は――薄く笑みを浮かべ、静かに口を開いた。
「面白い。君は僕を恐れないのか?」
「恐れております。けれど……あなたに嫁げるのなら、本望です」
それは、私の精一杯の賭けだった。
このまま泣き崩れるだけの人生を送るくらいなら、孤高の魔術師の隣に立つ未来を選ぶ。
沈黙の後、ルークは小さく笑った。
「いいだろう。今日から君は、俺の妻だ」
その声には冷たさなど欠片もなく、むしろ甘美な響きを帯びていた。
――私はその時まだ知らなかった。
この冷徹と呼ばれた魔塔主が、誰よりも優しく甘い夫となることを。