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第一話:雷鳴と共に、時を超えて

(第一話)


「はい、オッケーでーす! 凛ちゃん、今日もサイコーに可愛く撮れたよ!」

スタジオに響くカメラマンの弾んだ声に、橘凛はプロのモデルとしての仮面をそっと外し、ふわりと息を吐いた。一瞬前までレンズに向けていた完璧な笑顔が、年相応のあどけなさを残す素の表情へと変わる。フォロワー数100万人超え、現役女子高生にしてカリスマインフルエンサー。それが、今の橘凛の肩書だ。分刻みのスケジュール、常にトレンドの最先端を追い求め、SNSではキラキラとした日常を発信する。しかし、その裏では、普通の高校生らしい悩みや疲れも抱えている。

「お疲れ様でしたーっ!」

周囲のスタッフたちに、いつもの明るい笑顔で挨拶し、足早に控え室へ。今日の撮影は、春物の新作コスメのタイアップ。淡いパステルカラーの衣装から、お気に入りのストリート系ブランドの私服に着替えると、ようやく自分の時間に戻れた気がした。窓の外は、ついさっきまでの快晴が嘘のように、不穏な鉛色の雲が低く垂れ込めている。まるで、空全体が巨大な硯石になったようだ。

「うわ、マジか…これ、絶対降るやつじゃん。最悪…」

折り畳み傘は、いつも最新のガジェットでパンパンのリュックに入っている。だが、この禍々しいまでの空の色は、ただの通り雨では済まないことを雄弁に物語っていた。駅までの短い距離とはいえ、油断はできない。急ぎ足でスタジオを出ると、生暖かい風が頬を撫で、遠くでゴロゴロと地鳴りのような雷鳴が響き始めた。

都会の喧騒も、雨音にかき消されそうだ。スマートフォンを取り出し、タクシー配車アプリを開こうとした、まさにその瞬間だった。

ピカッ!

視界が真っ白に染まり、一瞬、何も見えなくなった。間髪入れずに、バリバリバリッ!! ゴォォォォン!!!という、腹の底から突き上げるような衝撃音。すぐ近くの街路樹に雷が落ちたのか、焦げ臭い匂いが鼻をつく。凛の華奢な身体は、まるで操り人形の糸が切れたかのように吹き飛ばされ、コンクリートの冷たい感触と、全身を襲う激痛を最後に、意識は深い闇へと沈んでいった。まるで、誰かに強制的に電源を落とされたように。

―――

(…ん…ここ…どこ…?)

微かな薬の匂い。それも、いつもの病院で嗅ぐアルコールの消毒臭とは違う、もっと植物的で、どこか懐かしいような香り。そして、しん、と静まり返った中で聞こえるのは、ちちち、という小鳥のさえずりと、遠くで聞こえる誰かの咳払いだけ。

重い瞼をゆっくりと押し上げると、目に飛び込んできたのは、見慣れない木目の天井だった。節くれだった柱、障子戸、そして畳の匂い。身体を起こそうとすると、さらりとした肌触りの、少し硬めの木綿のような布が肩から滑り落ちた。自分の服装は、お気に入りのロゴ入りTシャツでも、ダメージジーンズでもない。真っ白で、糊のきいた、まるで時代劇の入院患者が着ているような簡素な着物…いや、寝間着?

(何これ…? 撮影…? んなワケないよね、私、雷に…)それにしても、この部屋…まるで歴史の教科書に出てくるような和室だし…。

ズキズキと痛む頭を押さえながら、混乱する思考を必死でまとめようとする。周囲を見回すと、そこは四畳半ほどの、質素だが隅々まで掃き清められた和室だった。障子窓からは、障子紙を透かした柔らかな陽の光が、畳の上に淡い模様を描いている。部屋の隅には、小さな桐の箪笥と、薬瓶がいくつか行儀よく並べられた棚。そして、先ほどから感じている、ツンと鼻をつく独特の消毒液のような、でもどこか薬草にも似た香りが漂っている。

(病院…なの? でも、こんな日本家屋みたいな病室、あるわけ…?)

パニックになりそうな心を必死に抑え込んでいると、からり、と控えめな音を立てて障子が開いた。

「あ、お目覚めになられましたか。よかった…」

入ってきたのは、白い割烹着に濃紺の袴を合わせた、髪を後ろで質素に一つにまとめた初老の女性だった。その穏やかな笑顔と、少しシワの刻まれた目元には、心からの安堵の色が浮かんでいる。しかし、その服装も、優雅な言葉遣いも、凛が知っている「看護師さん」とはまるでかけ離れていた。

「あの…ここは…? 私、どうして…」

ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。女性はにこりと微笑み、慣れた手つきで凛の額にそっと手を当てた。ひんやりとした手の感触が心地よい。

「熱はもう下がったようですね。本当に安心いたしました。ここは久遠寺様のところの診療所でございますよ。お嬢様、昨夜、雷雨の中、道端でお倒れになっているところを、若旦那様がお見つけになり、こちらへお運びになったのです」

「くおんじさま…? わかだんなさま…?」

知らない単語の洪水に、凛の眉間に深く皺が寄る。まるで、古い映画の中に迷い込んでしまったようだ。そして、何よりも引っかかるのは、「道端で倒れていた」という言葉。やはり、雷に打たれたのだろうか。でも、だとしたらなぜこんな、まるで時代が遡ったような場所に?

「私の…荷物は…? スマホとか、バッグとか、ありませんでしたか…?」

震える声で、今一番確かめたいことを尋ねる。スマートフォン。それさえあれば、現在地もわかるし、助けも呼べる。しかし、女性はきょとんとした顔で小首を傾げた。その表情は、本当に心当たりがないという風だ。

「すまほ…? ばっぐ、でございますか…? さよう、お嬢様がお持ちだったのは、桜の絵柄の可愛らしいがま口と、それから…何やら黒くて四角い、硝子の板のようなものでございましたが…あれは一体…?」

不思議な板状のもの。それは間違いなく自分のスマートフォンだ。しかし、その言い方、まるで未知の物体を見るかのような口ぶりに、凛の胸に形容しがたい不安が広がった。彼女はスマートフォンを知らない…? そんなことって、今の日本でありえる…?

その時、背後の廊下から、静かだが芯のある足音が近づいてくるのが聞こえた。そして、再び障子がからりと開く。

「容態はどうか、タエ」

凛の心臓が、先ほどとは全く違う種類の衝撃で、ドクンと大きく跳ねた。声だけで、その場の空気が張り詰めるのを感じる。そこに立っていたのは、先ほどの女性――タエと呼ばれたらしい――とは対照的な、すらりとした長身の青年だった。

藍色の細い縞模様の着物を、まるで自分の皮膚の一部であるかのように自然に着こなし、背筋はどこまでもまっすぐに伸びている。結い上げられていない、艶やかな黒髪がさらりと肩にかかり、切れ長の涼やかな瞳は、奥に深い知性を宿しているように見えた。それは、現代のどんなイケメン俳優やモデルとも違う、凛とした気品と、近寄りがたいほどの威圧感を同時に放っていた。

(うわ…何、この人…空気が違う。オーラが…っていうか、顔面偏差値、天元突破してない…?)

混乱の極みにありながらも、数々の美形モデルたちと仕事をしてきた凛の審美眼が、彼の尋常ならざる美貌と存在感を瞬時に捉えていた。

「あ、暁人あきひと様。おかげさまで、熱もすっかり下がられたご様子です。ただ、まだ少々、お心持ちが落ち着かないようで…」

タエと呼ばれた女性が、深々と頭を下げ、一歩下がる。暁人と呼ばれた青年は、無言のまま、その黒曜石のような瞳でじっと凛を見据えた。それは品定めするような、あるいは得体の知れないものを見るような、複雑な色が混じった視線だった。射抜かれるような感覚に、凛は思わず息を呑む。

「気分はどうだ」

低く、落ち着いた、しかしどこか冷ややかさも含む声が、静寂を破った。その声には、有無を言わせぬような響きがあり、凛は反射的に背筋を伸ばしていた。

「あ、はい…だいぶ…あの、助けていただいて、本当にありがとうございます…」

かろうじて言葉を紡ぐと、暁人はわずかに眉を寄せた。その小さな動きだけで、彼が何かを訝しんでいるのが伝わってくる。

「礼には及ばない。それより、君は何者だ? 見たところ、この辺りの者ではなさそうだが。一体、どこから来た?」

単刀直入な、しかし核心を突く問い。凛は言葉に詰まる。どう説明すればいい? 「実は私、令和の日本から来ました! 雷に打たれたら100年以上タイムスリップしちゃったみたいなんです、マジウケるんですけどー!」なんて言えるはずがない。そんなことを口にすれば、頭がおかしいと思われるのが関の山だ。

「えっと…私は、橘凛、と申します。その…遠方から来た旅の者でして…少し道に迷って、それで…昨夜の雨で、その…」

しどろもどろになりながら、先ほどタエにしたのと同じ、我ながら稚拙すぎる言い訳を繰り返す。暁人は、その美しい顔をわずかに傾け、疑念を隠そうともしない表情で凛を見つめている。その沈黙が、凛の心をさらに追い詰めた。

(ダメだ、全然信じてない顔してる…!どうしよう、このままじゃ変な人だって思われちゃう…!)

「…そうか。橘殿、と。ひとまず、身体が本調子に戻るまでは、この診療所で安静にしているといい。何か必要なものがあれば、タエに申し付けるように」

そう言って、暁人は背を向け、部屋を出て行こうとした。その背中に、凛は本能的な危機感を覚えた。このまま彼を行かせてしまったら、自分は本当にこの訳の分からない状況に取り残されてしまう。

「あ、あのっ! ちょっと待ってください!」

思わず叫ぶように声を上げると、暁人がぴたりと足を止め、ゆっくりと振り返った。その冷ややかとも取れる視線に一瞬言葉を失いそうになるが、凛は震える唇で、どうしても確かめなければならないことを口にした。

「ここって…本当に、本当に、東京、なんですか…? それと…あの、ぶしつけなことをお伺いしますが…今って、何年、何月…なんでしょうか…?」

最後の言葉は、ほとんど懇願するような響きになってしまった。自分の声が震えているのがわかる。暁人は、いよいよ不可解だと言わんばかりに眉間の皺を深くし、しばし黙考するような素振りを見せた後、静かに、しかし一言一句はっきりと告げた。

「ここは帝都東京、麹町にある、私の家の敷地内だ。そして、現在の年号は…大正。大正十年、皐月も半ばを過ぎた頃だ」

「たいしょう…じゅうねん…?」

その言葉は、まるで鈍器で頭を殴られたかのような衝撃を凛に与えた。大正。歴史の教科書で見た、あの時代。鹿鳴館、モダンガール、竹久夢二…。華やかで浪漫あふれるイメージの裏側にある、自分が全く知らない、100年以上も昔の世界。

(嘘だ…そんなの、ありえない…! 何かの壮大なドッキリ? でも、この空気、この匂い、この人たちの話し方…全部、リアルすぎる…!)

全身から急速に血の気が引いていくのを感じた。目の前がぐにゃりと歪み、立っていることすら困難になる。スマートフォンがない。インターネットも、SNSも、当たり前のように享受してきた文明の利器が、ここには何一つ存在しない。家族も、友達も、自分の知っている大切な全てが、手の届かない遠い過去の世界にある。

(マジ…か?本当に100年以上タイム…スリップした…!?)

「…っ!」

声にならない悲鳴が喉の奥で詰まり、視界が急速に暗転していく。凛はその場に崩れ落ちそうになった。その瞬間、ふわりと、しかし力強い腕が彼女の身体を支えた。驚いて霞む目で顔を上げると、いつの間にかすぐそばに戻ってきていた暁人が、眉間に深い憂慮の色を浮かべ、心配そうに凛の顔を覗き込んでいた。

「…大丈夫か。やはり、まだ無理は禁物のようだ。タエ、奥の部屋へお連れして差し上げろ。ゆっくり休ませるんだ」

その声は、先ほどよりも明らかに温かみを帯びているように感じられた。しかし、凛の耳にはもう、その優しささえも届いていなかった。大正十年――その残酷な現実だけが、意識が途切れる寸前の彼女の頭の中で、何度も何度も木霊していた。


(第二話に続く)


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