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4日目

加藤永太郎をはじめとする自殺防止医院の患者たちは、今日もまた、変わらぬ地獄のなかで、静かに息をしていた。


この場所には、”人道”という言葉は存在しない。

許されているのは、ただ黙って耐えることだけ。

人間として扱われることを願うなど、とうに諦めた。

そして彼らは、そのどうしようもなく歪んだ現実を、今日もまた思い知らされることになるのだった。


乾ききった空気の中で、永太郎はふと耳をそばだてた。

遠くから、かすかな話し声が、風に乗って流れてくる。

やがて足音――重く、規則正しい複数の足取りが、じわじわと近づいてきた。

左隣の区域の前で、それはぴたりと止まる。


直後、天井の奥から、低い機械音が響いた。

それはいつも聞き慣れている、冷徹なアナウンスとはどこか違う響きを持っていた。


――『石田達哉さんを病死者センターに移送します』


永太郎は耳を疑った。「病死者センター」、聞いたことのない単語だった。

間もなく、仕切りの向こう側から、澄んだ女性の声が響く。


「はじめまして、石田さん。私は”ツラク”と申します。

あなたがこれから過ごすことになる日本病死者センター第121支部附属病院に所属する職員です」


「・・・あぅ・・・あ・・・あぅ・・・」


男は必死に言葉を発しようとした。しかし、かすれた呻きのような音しか出てこない。

昨日、職員たちによって無惨にも舌を引き抜かれた彼に、言語は許されていなかった。


「調査の結果、あなたの”死因”は、現世にて入院していた精神科での”医療ミス”によるものであると判明しました。

あなたの症状に適切な対応がなされなかったことが、最終的な死の引き金となったのです」


一拍の間を置き、病死者センター職員は静かに言葉を続けた。


「つきましては、あなたは自殺者に該当しないと認定され、日本第87自殺防止医院からの退院が決定しました。

なお、これまでに施された”不要な治療”について、心よりお詫び申し上げます」


「・・・あぅ・・・?」


男はうまく意味を掴めないまま、首をかしげる。


「これから移送される病死者センターも、地獄であることに変わりはありません。

あなたには、獄卒による罰が課され、強制労働を強いられることになるでしょう。

しかしながら、自殺防止医院と比較すれば、生活環境は幾分か良好です。

衣服が支給され、1日3食の食事が与えられます。毛布のぬくもりがあり、排泄もトイレで行うことができます。

職員により『説教』と称して非難の言葉を浴びせられることも、もうありません」


「・・・あぃ?」


「はい、本当です。その失われたその舌も、時間をかければ、ゆっくりと再生していきます。

生きている人間にはあり得ないことですが――あなたは霊魂なのですから。

やがて、再び言葉を取り戻す日が訪れるでしょう」


「あぉ・・・」


男は、担架に乗せられ、ゆっくりとその場から運ばれていった。

天井に向けた男の眼差しは虚ろなままだったが、

病死者センター職員の優しい声色に、わずかながら安堵の色をにじませていた。


男が向かう先が、たとえ別の地獄であったとしても、

その歩みは、確かにひとつの”救い”と呼べる何かに、微かに触れていた。


永太郎は、その一連のやり取りを聞きながら、ただ呆然としていた。


――こんなこともあるのか・・・


そう思わずにはいられなかった。


衣服、三度の食事、毛布のぬくもり・・・

それらはほんの少し前まで、当たり前のように手にしていたものだった。

今となっては、まるで夢のように遠く、懐かしく響いてくる。


その記憶と、いま目の前に広がる現実との落差に、永太郎の瞳からはじわじわと光が失われていく。

まるで内側から蝕まれるように、心の明かりがひとつずつ消えていった。


そのとき、またしても足音が病棟の静寂を切り裂いた。

近づいてくる気配。

その音は、やがて永太郎のすぐ目の前で止まった。


現れたのは、これまで見たことのない人物だった。

若く、みめうるわしい女性職員。

その姿を見た瞬間、永太郎の唇はかすかにわななく。

再び始まるのだ――「説教」と呼ばれる、あの人格否定の儀式が。


だが、


「吸水マットを取り換えさせていただきますね」


その一言が、予想を裏切った。


永太郎がこの医院に収容されて以来、ただの一度も替えられたことのなかった、

糞尿に染みきったマットが、女性の手によって静かに新しいものと交換されていく。


少し拍子抜けして、ふっと力が抜けた――その束の間の隙に、永太郎は、自分の状況について考えはじめた。

糞尿と汗、垢にまみれた身体。拘束具に縛られ、身動きひとつ取れない。


――惨め。


これほど今の自分を言い表す言葉が、ほかにあるだろうか。

ほとんどの患者が、この場所に対して怒りや憎しみを募らせているなかで、

永太郎だけは、生まれつきの気質ゆえか、矛先を外に向けることなく、自罰的な方向へと思考が傾いていく。


「・・・僕のせいで、お手数をおかけしてしまってすみません」


口をついて出たのは、謝罪の言葉だった。


それに対して、彼女はふわりと微笑んだ。


「謝る必要はありませんよ。これは治療ですから。一緒に乗り越えていきましょう」


その瞬間、どんよりと沈んでいた永太郎の心に、ほのかな光が差し込んだ。

心が、少しだけ浮かび上がる。


《日本第87自殺防止医院 院長》

《エサキ》


彼女の胸元の名札にはそう記されていた。


この自殺防止医院で、職員たちを統べる立場にある人物が自分に見せた柔らかな態度を見て、

永太郎の脳裏には、あるひとつの思考がじんわりと浮かび上がってきた。


この「治療」は、自分のためを思って行われている。

ここにいる自分は、単なる管理対象ではなく、「人間」として見られていたのだ――。


「・・・ありがとうございます、エサキさん」


気がつけば、自然に口が動いていた。


──”ありがとう”は忘れちゃいけない言葉だ。


かつて、永太郎の祖父――志村孝三が、何度となく口にしていた教えである。


「ありがとう」という言葉は、もともと「有り難し」を語源とする。

それは、「滅多にないこと」「貴重なもの」という意味だ。


見過ごしてしまいがちな、誰かの小さな善意。

さりげない労りや、目立たぬ努力。

それらは決して、当たり前に存在するものではない――とても尊いもの。

そうしたことに気づくには、感謝の言葉を忘れないことが何より大切だと、祖父はよく語っていた。


その言葉を胸に刻んでいた永太郎は、日常の些細なことにも「ありがとう」と言う習慣を大切にしていた。


当たり前にあったはずのものを失ってしまった今、

この習慣が持つ意味は、かつてよりも遥かに重く、痛烈に心に染みてくる。


「ありがとうございます」


永太郎はこの出来事以降、

患者を虐げるために「説教」を行う職員に対してさえ、感謝の言葉を口にするようになっていた。

彼の心には、「ありがとう」という言葉を思い出させてくれたエサキの存在が、小さな希望として静かに根づいていた。

あのときの彼女の微笑みは、暗闇の中で唯一、彼の心を照らす灯となっていたのだ。


だが、永太郎はまだ知らない。


その微笑みが、

その優しさが、

すべて計算された”支配”の一環であるということを。


エサキにとって、自殺者に対する慈悲など、最初からひとかけらも存在しない。

彼女は嘘を吐いていた。

彼女の笑みは、患者に対する凄惨な仕打ちという”鞭”に対応する”飴”。

口にすれば、心にじんわりと染み込み、思考を鈍らせる――まるで麻薬のように。


それは、患者を巧みに従わせるための、冷酷な”マインドコントロール”にすぎなかったのだ。



「風呂――わけても浴槽に浸かることが健康に良いとされるのは、いくつもの作用があるからだ。

主に挙げられるのは、『温熱作用』『静水圧作用』『浮力作用』『清浄作用』の四つ。

一つずつ説明していこう。まずは『温熱作用』からだ。

これは、体を温めることで得られる複数の効果を指す。

具体的には、まず、血管の拡張による血行促進。

これによって、脳に酸素や栄養がより多く運ばれるようになり、集中力や判断力の向上につながる。

さらに、疲労物質や老廃物の排出も進み、心身のリフレッシュ効果が期待できるわけだな。

他には、筋肉の緩和だ。

体が温まることで筋肉の緊張がほぐれ、肩こりや腰痛、筋肉痛などの症状がやわらぐ。

最後に、自律神経の調整。

自律神経は、交感神経と副交感神経の二つで構成されているが、

42℃以上の湯につかる『高温浴』は交感神経を活発にし、

37℃から39℃程度のぬるめの湯につかる『微温浴』は副交感神経を活発にする。

朝に適しているのは断然、高温浴のほうだな。

交感神経が優位になると心拍数が上がり、体は興奮状態になって、自然と活動しやすくなるからだ。

目がシャキッとする理由は、まさにこれらにあるわけだな」


「すみません、ホッカルさん・・・

正直言うと、私、”自律神経”とか”交感神経”とか、あんまりよくわかってなくて・・・

今の話、後半の部分があまりピンときませんでした・・・」


「よし、なるほど。じゃあこれから”自律神経”について説明していこうじゃないか」


朝の転生待機室、湯気の中、浦野先生は浴室のスピーカーから響くホッカルの声に耳を傾けていた。

昨日、ホッカルの教養へのこだわりに感銘を受けた彼女は、今朝、自ら進んで知識を深めたいと申し出た。


創作において、自分の”美意識”に従って描きたい場面をただ並べるだけでは、物語として不十分だ。

それらを一本の流れとして結びつけ、読者に納得させるには、展開に整合性が必要となる。

作者には、物語の中の事象に対して、”常識的な説明”を提示する責任がある。

そのためには、背景知識や論理的思考といった基礎の勉学が不可欠である。

本来なら、自分もその準備をなおざりにするべきではなかった。だが、現実にはそれから目を逸らし続けてきた。


──それを、いまこそ改めなければならない。


ホッカルは彼女の申し出を快く受け入れ、こうして講義を届けてくれているのだ。


「まず一つ質問だ。

俺たちは今、呼吸しているが・・・浦野先生、あんたは『呼吸しよう』って頭で考えてるか?」


「いえ、そんなの意識したことないです」


「だろう?もし呼吸が意識的な動作だったとしたら、俺たちは一日中、それだけに集中していなきゃいけない。

寝ることもできないし、他のことなんて何一つできなくなる」


「でも、そんなことにはなってませんよね」


「ああ。俺たちの代わりに、24時間365日、休まず考え続けてくれているやつが体の中にいる。

それが”自律神経”だ。

呼吸だけじゃない。心拍、体温、血圧の調整――

ほかにも、生きるために欠かせない生命活動を、無意識のうちにコントロールしてくれているんだ」


「なるほど・・・自律神経って名前しか知りませんでしたけど、そんなにも大切な役割を担っていたんですね」


「そうだ。そして、自律神経は、”交感神経”と”副交感神経”の二つで構成されている。

この二つはどちらも常に働いているが、どちらが優位、つまり積極的に動くかは状況によって変わる。

交感神経は、活動中やストレスを感じているときに働きが強まり、

心拍数を上げたり、血管を収縮させたりして、体を活発させる方向に導く。

一方、副交感神経は休息時やリラックス時に働きが強まり、

心拍数を下げたり、消化を促進したりして、身体を休ませる方向に導く。

人間の体は、日中は交感神経が、夜は副交感神経が活発になるようにできている。

このバランスが崩れると、体調を崩したり、気分が落ち込んだりしてしまう。

だからこそ、自律神経の働きを整えるような習慣を意識して持つことが大事なんだ。

・・・朝風呂は、その習慣のひとつとして効果的ってわけだな」


ホッカルは滑らかに、そして丁寧に語り続ける。

その穏やかな語り口に、浦野先生は「やっぱりこの人、すごい」と思わずにはいられなかった。

医学博士としての専門性を持ちながらも、難しい話を噛み砕いて語るその姿に、

彼女は改めて、ホッカルへの敬意を深めていた。


ホッカルは話を続ける。


「交感神経が優位になると、いくつかの神経伝達物質が分泌される。

神経伝達物質というのは、神経細胞から別の神経細胞や筋肉へと情報を伝える役目を持つ化学物質のことだ。

分泌されるのは”アドレナリン”、”ノルアドレナリン”、”ドーパミン”。

これらは有名だから、浦野先生も名前ぐらいは聞いたことあるかもしれないな」


「はい。アドレナリンって、たしかケガしたときに痛みを感じにくくするってやつですよね?」


「そうだな。

アドレナリンには心拍数と血圧を上昇させ、身体を興奮状態に導いてパフォーマンスを高める作用がある。

浦野先生が言ったような痛覚の抑制も、その一環だ。

ノルアドレナリンはアドレナリンと似ているが、大きな違いとして脳に働きかけることで精神面に影響を与える作用がある。

より集中力や判断力を高めるのが主な役割だ。

そしてドーパミン。

これは”快感”や”意欲”を生み出し、やる気を引き出してくれる物質だ。

こうした化学物質の働きによって、身体は目覚めるというわけだな」


「なるほど・・・あらためて、ちゃんとした効果を初めて知りました」


「だがな。これらが過剰に分泌されると、それはそれで問題になる。

身体が活動的すぎると、かえって心身のバランスが崩れてしまう。

なのでもう一つ、それらを抑えるために”セロトニン”という神経伝達物質が分泌されている。

このセロトニンもまた重要な役割を果たしてくれていてな、

不安やイライラを鎮め、精神の安定をもたらしてくれる作用があるんだ。

この『自殺防止医院』なる、狂った場所で暮らしていくには、まさに必要不可欠な働きだろう」


「・・・そうですね・・・」


浦野先生の脳裏に、今も自分たちの隣で苦しんでいる患者たちの姿が浮かぶ。


「本来なら日光を浴びるのが、セロトニンの分泌には一番効果的なんだが・・・

あいにくここは冥界。太陽なんてものは存在しない。

空を見上げても、あるのは臓物のように赤黒い模様がうごめく光景だけだ。

だからこそ、朝風呂が習慣として推奨される。他にも、ウォーキングなんかも有効だな」


「死後の世界の空って・・・そんなふうになってたんですね・・・知りませんでした・・・」


「一応、”天国”では現世からの資源が優先的に配分されてて、人工的に”青空”を再現するような環境整備が進んでいる。

・・・本当は浦野先生も、俺と離れてそっちで暮らす方がまだマシなのかもしれないな。

今は”作家”であるあんたと一緒に過ごしたいという、俺の”エゴ”でこの”地獄”に付き合わせてるが・・・

もし、この生活に耐えられないと思ったら、言ってくれ。あんたの天国行きへの手続きは、即座に整える」


ホッカルの口調は沈み、そこには浦野先生に対する後ろめたさが滲んでいた。


「分かりました。でも、今はそんなこと、考えていません。

私、ホッカルさんとの生活を――楽しいって思ってますから」


それを断ち切るように、浦野先生ははっきりと言い切った。


「・・・そうか」


ホッカルは、力なく微笑む。


その言葉は、偽りのない本心だった。

ホッカルは「冥界には太陽はない」と言っていたが――

浦野先生にとっては、彼こそが太陽だった。


離れるなんて、考えられない。そんな未来など、あり得なかった。


「それよりも・・・ホッカルさん、続きをお願いします」


浦野先生はおずおずと口を開いた。

先ほどの会話で少しだけ重たくなった空気を、別の話題へと滑らかに移そうとする、ささやかな試みだった。


「お風呂の作用って、たしか『湯熱作用』だけじゃないって言ってましたよね?」


「おっと、そうだったな」


ホッカルは思い出したように目を細め、軽く咳払いをして語り出す。


「二つ目は『静水圧作用』だ。

湯に浸かれば当然、体に水圧がかかる。

この圧力で全身が軽く締めつけられ、末端の血液が心臓に押し戻されて、血行が促進されるんだ。

特に腹部への圧力は、横隔膜を上に押し上げることによって血行促進に大きく貢献する。

横隔膜とは、肺とお腹の境にある膜で、痙攣すると”しゃっくり”になる部分のことだ。

横隔膜が持ち上がると肺の容量が小さくなり、それを補おうと呼吸数が自然と増える。

その結果、心臓の動きも活発になっていくという仕組みだ。

血流がよくなれば、さっきも言ったように酸素や栄養が巡るようになって、脳の働きも良くなるし、

これに加えて、むくみも改善されるわけだな」


語りながら、ホッカルの声色は生き生きとしていた。浦野先生もそれを聞いて、自然と頬が緩む。


「そして三つ目は『浮力作用』。お湯に体を沈めると、自分の体重に相応する浮力を受ける。

これはさっきの水圧の話とも関係していて、

浮力というのは、下方向にかかる水圧と、上方向にかかる水圧との”差”によって生まれる力だ。

結果として、風呂の中では体重が約9分の1になる」


「そんなに軽くなるなんて・・・すごいですね」


「これは余談だが、浮力の原理を最初に発見したのは古代ギリシャの数学者にして物理学者アルキメデスだ。

アルキメデスは、ちょうど風呂に入っているときにそのヒントを得て、その原理に辿り着いた。

その瞬間、アルキメデスは興奮のあまり、そのまま風呂場を飛び出して

『エウレカ』という言葉を叫びながら、全裸のまま町中を走り回ったという逸話が、今も語り継がれている。

『エウレカ』とは古代ギリシャ語で『我、発見せり』という意味だ」


「えっ・・・捕まらなかったんですか、それ」


「現代だったら即通報ものだがな。

古代ギリシャでは、男性の裸体は神聖なものとされていて、

公衆の面前でそれをさらすのは、別に恥ずかしいことじゃなかった。

むしろ、”神に捧げる美しさ”とされていたんだ。

実際、スポーツ競技も全裸で行うのが当たり前だった。

古代ギリシャでは青年たちが裸で運動する場所を『ギュムナシオン』と呼んでいたが、

これは裸を意味する『ギュムノス』から来ていて、現代の『ジム』の語源にもなっている」


「へえ・・・面白いです。

そういえば、私、学生のときに石膏デッサンで古代ギリシャの彫刻を何枚も模写したんですけど、

全裸の像が多かった理由って、そういう文化的背景があったんですね」


「その通りだ。そして、実はこのエピソードを知ったことが、俺の”研究者”としての原点でな。

あらゆるものを忘れ、純粋な発見の喜びだけに突き動かされるアルキメデスへの羨望──

その感情が、俺を今の立場にまで引き上げる原動力となったわけだ」


ホッカルの声には、まるで湯の温もりのような熱が宿っていた。

その明るい声色を耳にして、浦野先生の胸の奥にも、静かに何かが沸き上がる。

それは――かつて漫画を描き始めたあの日に感じた、ときめきだった。


「やっぱり・・・”夢”って、いいものですね」


「そうだな」


ぽつりと呟いた彼女に、ホッカルは優しく頷いた。


「さて――閑話休題、本題に戻ろう」


わずかな沈黙ののち、ホッカルは声の調子を整えながら、再び淡々と、しかし熱をこめて語り始めた。


「『浮力作用』によって身体が軽くなると、

それまで体重を支えていた筋肉や関節への負担は大幅に軽減される。

その結果、筋肉の緊張は自然とほぐれ、脳への余計な刺激も抑えられることで、

心身は深いリラックス状態へと導かれるわけだ。

さらに水中では、陸上に比べて手足の動きも軽やかだから、ゆっくりとした動作でも十分な運動効果が得られる。

この原理は、医療現場のリハビリテーションにも広く応用されているな。

・・・俺自身も、もう少し回復すれば、お嬢様に理学療法でプールに連れられる羽目になるかもしれん」


ホッカルは”水中運動療法”に励む自分の姿を思い浮かべ、ひとり苦笑した。


「そして最後が『清浄作用』。

湯によって毛穴が開けば、そこに溜まっていた皮脂や古い角質が自然に浮き出てくる。

それを落とすことによって、肌荒れの予防にもなるし、体臭の原因も軽減できるというわけだ。

・・・以上が、入浴によって得られる四つの作用だな」


「いやあ・・・すごいです。お風呂って、ただの習慣以上に意味があるものだったんですね」


浦野先生が目を輝かせながら、素直に感嘆の声をもらす。


「その通りだ。心身の健康を維持するには、毎日欠かさず入るべきものだ。ただ――」


ホッカルの口調が、ふと一段階低く、重くなる。


「同時に、風呂には大きな”リスク”も伴うことを、忘れてはならない」


「リスク・・・?一体、それは何ですか?」


「風呂に入るというのは、血圧を大きく変動させる行為だ。

服を脱げば寒さで血管が収縮し、血圧が上がる。

熱い湯に浸かれば、交感神経が刺激されて血圧はさらに上昇する。

だがしばらくすると、体が温まって血管が拡張し、今度は逆に血圧が下がっていく。

この変動が身体に負担をかけ、不調や意識障害の原因になることがある。

高齢者や体調のすぐれない人間はもちろん、特に持病のない人間でも例外ではない。

この現象を『ヒートショック』と呼び、脳卒中や心筋梗塞を引き起こし、死に至るケースも少なくない」


「・・・そんな危険があるんですね」


浦野先生の声が、やや強ばる。


「浦野先生もそろそろ浴槽から出たほうがいい。あんたは今、42℃の湯に浸かっている。

熱い湯は心臓や血管にかかる負担が大きく、長く入ればのぼせて意識を失う可能性もある。

浴槽に浸かるのは10分以内に留めるのが望ましい」


ホッカルは一拍置いて、やや照れくさそうに言葉を添えた。


「・・・まあ、俺たちは魂の存在だから、

現世で生きている人間とは違い、実際に倒れることはまずないだろう。

ただ、それでも体調に影響は出る――だからこそ、意識しておくに越したことはない。

俺は・・・浦野先生には、ずっと元気で過ごしてほしいからな」


その声音には、確かな思いやりが滲んでいた。浦野先生の胸に、じんわりと温かいものが広がる。


「分かりました。出ますね」


そう言って、彼女は素直にホッカルの言葉に従おうと、湯の中から身を起こしかけた――そのとき。


「だが、ちょっと待ってほしい!」


ホッカルが、ほとんど咄嗟に声を張り上げる。


「えっ・・・ホッカルさん、どうしたんですか?」


「立ち上がるときは、”ゆっくり”だ。

浴槽から出ると、それまで全身にかかっていた水圧が一気に消える。

圧迫から解放された血管が拡張し、血圧はさらに下がる。

結果として脳に届く血液が減り、めまいや立ちくらみを引き起こすんだ。

それを防ぐには、体を少しずつ慣らしていくしかない」


「なるほど・・・ゆっくりですね」


浦野先生は頷き、ホッカルの指示通り、慎重に、ゆっくりと湯の中から身体を引き上げていった。


「よしよし、それでいい。

ヒートショック対策としては、脱衣所を加温し、風呂場との温度差を減らすことも重要だが・・・

それについては心配いらん。

ここは曲がりなりにも”病院”だ。すでにその対策は施されている。

あとは、入浴後は体内の水分が失われているから、”水分補給”も欠かさずにな」



「色々と教えていただいて、ありがとうございます・・・」


そう言いながら、浦野先生は脱衣所で清潔な下着に袖を通し、病衣の襟元を静かに整えていた。

鏡越しに見える自分の表情はどこか曇っており、その目元には、微かに後ろめたさが宿っている。


「でも・・・私、今お話ししてくださったこと、たぶんほとんど覚えられないと思います。

せっかく教えてもらったのに・・・それがなんだか申し訳なくて・・・

私からお願いしたことなのに、ホッカルさんのお時間を取らせて・・・」


俯いた彼女の声は次第にか細くなり、やがて湯気にかき消されていく。

声に混じるのは”自責の念”か、それとも”無力感”か。きっと両方だった。


「別に落ち込むことはねえよ」


ホッカルは、その感情の揺れを一蹴するように言った。


「誰だって最初は浅学非才だ。恥じることはない。

とりあえず今日は、『湯熱作用』『静水圧作用』『浮力作用』――

風呂の効能で特に重要とされる、この三つの名前、

そういうものがあることだけだけ覚えておいてくれれば、それで十分だ」


彼は淡々と、しかしどこか温かみを含んだ声で続ける。


「こんな長ったらしい話、全部を一度で完璧に覚えられる奴なんて、そうそういねえよ。俺にだって無理だ。

・・・まあ、『悪魔の頭脳』と呼ばれたジョン・フォン・ノイマンなら、話は別かもしれんがな」


冗談めかした彼の言葉に、少しだけ空気が和らぐ。


「覚えられないってんなら、覚えるまで何度でも話してやるよ。

明日も、明後日も、明々後日も、さらには、弥の明後日も。その先もずっとな」


ホッカルはふっと息をつきながら、浦野先生に語り聞かせるべく言葉を続けた。


「”忘却曲線”というものものがある。

ドイツの心理学者、ヘルマン・エビングハウスが提唱した理論だ。

受験勉強やビジネス研修でもよく取り上げられるから、なんとなくは知っているという人も多い。

だが、世間でよく言われているのは”誤解”がある。

たとえば、『人間が一度学んだことをどれほど忘れてしまうか』――

そんなふうに、記憶の減衰をグラフで可視化したものとして紹介されることが多いが、正確には違う。

実際のところは、

『人間が時間をおいて復習したときに、最初に学んだときと比べて、どれだけ学習時間を短縮できるか』――

これを示しているのものだ。

一度学んだ内容を、時間が経ってからもう一度学ぶ場合、完全には忘れていないことが多い。

その分、最初に学んだときより短い時間で理解や記憶を取り戻せるのは当然だろう?

たとえば、エビングハウスは意味のないアルファベットの組み合わせを使った記憶実験を行った。

その結果、20分後にもう一度同じ内容を学習した場合、

最初の記憶にかかった時間の42%の時間で記憶を元に戻すことができた。

言い換えれば、58%の時間を節約できたということだ。

この『節約率』は時間の経過とともに減っていく。

1時間後では44%、一日後では34%、一か月後では21%にまで下がる。

つまり、時間が経てば経つほど再学習の負担は大きくなる。だからこそ、”直後の復習”が重要なんだ。

さらにこの理論からは、”繰り返しの復習”がどれほど強力かも分かる。

たとえば、最初の学習後すぐに復習して40%の時間で済んだとする。

その翌日にもう一度復習すれば、今度は『その40%』のさらに70%――つまり最初の学習時間の28%で済む。

次の日にまた復習すれば、次は28%の70%、つまり約20%の時間だ。

この数字はあくまでも例であり、

実際はエビングハウスとは違って意味のある知識を覚えようとしているわけだから、時間はもっと減るだろうな。

とにかく、復習を重ねるたびに、必要な学習時間は指数関数的に0%に近づいてくる。

そして、ある閾値まで到達すると、その知識は何をせずとも忘れなくなる。つまり、脳に恒久的に定着するってわけだ。

小学校で散々覚えさせられた算数の九九なんて、復習するまでもなく覚えているだろう?

浦野先生も、そうやって自分の学識を涵養していけばいい。

知識の引き出しってのは、無理せず、丁寧に、時間をかけて育てていくものだ」


「・・・そんな風に言ってもらえると、救われます。

でも・・・私、馬鹿だから、何度も同じ話を聞くことになっちゃうと思います。

そうなったら、ホッカルさん、私のこと・・・うざったく思うかも・・・」


自嘲気味に口元を歪める浦野先生に、ホッカルは即座に否を突きつけた。


「思うわけねえだろ。むしろ、それは俺にとっても意味のあることだ」


その声音には一分の揺らぎもなかった。


「俺だって忘却からは逃れられない。

知識を維持し続けるためには、怠けてはいられない。

そのための”復習”として最も効果的な方法が、”アウトプット”だ。

なかでも手軽に実践できる方法のひとつが、『人に教える』という行為である」


少し熱を帯びてきた彼の言葉が、静かな空間に響いていく。


「『人に教えるには三倍理解していないといけない』とよく言われているだろう?

逆に言えば、ただ覚えただけでは、その概念を三分の一も掴めちゃいないってことだ

覚えることに加えて、説明するための言葉と結びつけること。相手の知識レベルに合わせて話すこと。

これらが出来て初めて、知識は自分の中で体系化されたといえるんだ。

俺は平生から、四方山話を通じて自分の知識を確かめている。

どこぞの”クソアマ院長”は俺に対して、

自分の凄さを誇示したいだけの”ペダント”だの”衒学者”だのとめったやたら非難してくるがな。でも、違えんだよ」


ホッカルは、まるで己の胸を静かに叩くように、静かに続けた。


「俺はまだ真理の”道半ば”にいる。だからこそ、こうやって知識を何度も磨き直していく必要がある。

浦野先生、どんなに瑣末なことでも構わない。わからないことがあれば、何でも聞いてくれ。

俺もそこで、自分が何を理解していないかを知ることができる」


彼は求道者として、真っ直ぐに宙を見据えていた。

その奥には、果ての見えない地平が広がっているように感じられた。


「これが、古代ギリシャの哲学者であるソクラテスが説いた”無知の知”ってやつだ。

知るべきものがあると気づくことが、すでに一つの知なんだ。

だから浦野先生、ともに学び、共に歩こう。俺と一緒に、まだ見ぬ景色を見に行こう」


「は、はい!」


その瞬間、浦野先生の胸の奥に、またしても震えるような感動が湧き上がった。

博覧強記なる賢人でありながら、なおも己を未熟と見なすその姿勢には、限りない探究心が滲んでいた。

彼の目指す場所は、彼女には想像もつかないほど遠くにある。

けれども、そこに至ろうとする意志の強さには、否応なく心を揺さぶられてしまうのだった。


──『俺と一緒に』なんて、人によってはプロポーズの言い方ですよ、ホッカルさん。


笑いながら心で呟いたその言葉に、少しだけ頬が熱を帯びる。

ホッカルの姿は、この場からは見えない。

にもかかわらず、空間は彼の存在に支配されていた。

スピーカー越しに届くその声は、浦野先生の内面に静かに染み込む。

そして彼女は、あの男が目指す終着点に、自分も連れていってくれるのではないかと、

そう思わされる不思議な力を、そこに感じ取っていた。


──やはりこの人についていきたい。


ホッカルに出会ってから、浦野先生は「変わりたい」と願うようになっていた。

空っぽな自分の器を、枚挙にいとまがないほどの”教養”で満たしていけば、

これまで見えていなかった角度から世界を眺め、

そこから新たな感情や考え方を見つけられるのではないか――そう感じていた。


たとえば、自分は絵を描いているから、”世界の絵画”を見るのが好きだけれども、と彼女は考える。


近代美術の中でも特に有名な一枚の絵。

縦2メートル、横5メートルはあろう大きなキャンバスに、絵の具がぐちゃぐちゃにぶちまけられたような作品。

アメリカの画家、ジャクソン・ポロックによって描かれたものだ。


これを「訳が分からない」と吐き捨てて立ち去るのは簡単だろう。

しかし、この絵についての知識を得ていけば、

「奇抜な絵」という第一印象の奥に、次々と新たな像が立ち上がってくる。


オーストリアの心理学者・精神科医、ジークムント・フロイトが19世紀末から20世紀初頭に提唱した「無意識」の概念。

人間の行動や思考は、表面に見える意識的なものだけでなく、

抑圧された”欲望”や”記憶”によっても左右されるという理論。

それは、理性や秩序を重視していた伝統的な芸術観を揺るがし、多くの芸術家に衝撃を与えた。


1920年代に興ったシュルレアリスムは、フロイトの理論を積極的に取り入れ、

夢や無意識の世界を芸術で表現しようとした運動である。

作家たちは、思いつくままに言葉を綴ったり、あえて不眠や飲酒、ドラッグなどで正気を失ったりする

「オートマティスム」と呼ばれる技法を用い、意識の制御を排除し、

”偶然の作用”を紙やキャンバスに投影することで、”新たなイメージ”を生み出していった。

この無意識への探求の精神は、アメリカでポロックによって受け継がれ、

より肉体的でスケールの大きな表現へと再解釈されることとなる。


キャンバスに絵の具を垂らす、吹きかけるといった技法――

「ドリッピング」と呼ばれる手法は、ポロックの試行錯誤の末に洗練されていった。

彼は手首の角度や腕の振り具合、塗料の種類の違いによって、どんな表現が生まれるかを熟知し、

筆、コテ、さらには紐や爪といった道具も駆使した。

彼は「絵を描く」という行動そのものを重視し、作品の制作過程を公開している。

その様子は評論家によって「アクション・ペインティング」と形容され、”一つの様式”として結実した。

彼の絵画は完成された作品というより、”出来事の痕跡”なのだ。


ポロックが活動した時代、第二次世界大戦によってヨーロッパは荒廃し、芸術の中心地としての力を失っていた。

代わって台頭したのはアメリカであるが、国家としての歴史の浅さゆえに、文化的な正統性を疑われていた。

ヨーロッパの伝統は「ルネサンス」から「モダニズム」まで連綿と続いており、

アメリカの芸術は”新参者”と見なされていたのだ。


そこに登場したのが、ポロックだった。

巨大なキャンバスに、身体ごと絵の具をぶつけるように描く彼の姿は、

自由、力強さ、創造性の象徴であり、アメリカ的個人主義の体現でもあった。

さらに、冷戦下の文化政策として、アメリカ政府が抽象表現主義を「共産主義に対抗する自由の象徴」として、

”CIA”を通して秘密裏に支援し、作家たちに資金提供を行っていたことも、今日では知られている。

つまり、ポロックは知らぬ間に、文化的冷戦の”兵器”としても使われていたのだ。


無意識を探求し続けるシュルレアリスムの”継承者”、

芸術とは何たるかを問い直すアートの”破壊者”、

文化的覇権争いの中で担ぎ上げられたアメリカの”象徴的ヒーロー”。


一枚の絵から浮かび上がる、幾つものポロック像。


無数の知識が、この世界にそれら単体ではなく、網のような繋がりを持って存在している。

それらが頭の中に集まり、交差し、回り始めるひととき――

それは何にも代えがたい、豊かで尊い時間だった。


──こんな体験を、自分が好きな絵画や漫画だけでなく、あらゆる概念に触れた時にできるようになれば。


それこそが、ホッカルの言う”まだ見ぬ景色”なのだと、彼女は理解していた。


「人に教えるという方法は、

ノーベル物理学賞を受賞したリチャード・フィリップス・ファインマンの”お墨付き”だ。

浦野先生も、試してみてほしい。間違いねえ」


ホッカルは目元に笑みを浮かべて続けた。肩肘を張らない語り口に、浦野先生に対する信頼の色が滲んでいる。


「ノーベル賞・・・ホッカルさんに加えて、そんな人の推奨まであるなんて、説得力すごいです・・・

でも、私、すごく”口下手”で・・・」


浦野先生は視線を落とし、言葉を飲み込むように口を噤んだ。


「絵のことならともかく、今知ったばかりの知識を人に話すなんて・・・

なんか、”グダグダ”になっちゃいそうで・・・」


「別に、無理に他人に話す必要はない。

ファインマンは、学んだ内容を”白紙の上”に”誰かに説明するつもり”で文章にしていた。

この方法は『ファインマン・テクニック』と呼ばれている。

説明を書こうとすれば、自分が理解しきれていない部分や、記憶があいまいな箇所がすぐに浮き彫りになる。

そういうところをまた俺に聞けばいい。何度でも話してやる」


「・・・なるほど。うん、それなら、私にもできそうです」


「ちょうどそのために、ノートと筆記用具を用意しておいた。机の上に置いてあるから、自由に使ってくれ」


浦野先生が脱衣所を出ると、ホッカルの言葉通り、机の上にきれいに並べられた二十冊のノートと筆記用具があった。


「えっ、これ・・・全部?」


「そう。これだけあれば当面は困らんだろう。

もし足りなくなったら、言ってくれ。百冊でも二百冊でも、無料で進呈する」


「無料って・・・そ、そんな・・・いいんですか?」


「はっはっは、気にするな・・・まあ、”タダ”ってのも、気が引けるなら――」


ホッカルは少しだけ顔を逸らし、照れ隠しのように肩を竦める。


「代わりに、そのノートの一枚に、アニメの”美少女キャラクター”でも描いて、俺に見せてくれたら嬉しい」


「ふふっ・・・ホッカルさんらしいですね」


浦野先生はふっと笑って、頷いた。


「じゃあ、一枚なんてもったいないです。何枚でも描いて差し上げますよ。

ちなみに、”美少女キャラ”って、具体的にはどの子が好きなんですか?」


「『ゼロの使い魔』のルイズだ。

あの”ツンデレ”ぶりには、若い頃ずいぶん心を奪われてな。

もう長いことご無沙汰してるが、久しぶりにあの”オーバーニーソックス”を拝んでみたくなる時がある。

ゼロ魔はゼロ年代に流行ったアニメ作品だが、やっぱりあの頃の作品が、俺にとっての”青春”なんだ。

・・・もっとも、浦野先生の世代だと、知らないかもしれんがな」


「知ってますよ。ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール・・・ですよね?」


「おおっ・・・知ってるのか!」


ホッカルの声がひときわ大きくなった。


「漫画家目指してましたから、過去のヒット作は一通りチェックしてます。

ホッカルさんの口ぶりからして、『涼宮ハルヒの憂鬱』とか『らき☆すた』とかもご覧になってそうですね」


「もちろんだとも。やっぱり”勉強熱心”だな、浦野先生は」


「そのあたりのキャラなら、資料なくても描けますよ。

・・・『ローゼンメイデン』とかは衣装が複雑で厳しいですけど」


「いやいや、十分すぎる。まさかそこまで知ってくれてるとは、嬉しい限りだ。

それにしても、何も見ずに描けるなんて、さらっととんでもないことを言うな。

”商業デビュー”をしている人間は格が違う。

それじゃあ、さっそくだが・・・ルイズ、お願いしてもいいか?”絶対領域”込みで頼むぜ」


「任せてください!」


嬉しげに話すホッカルの横顔に、浦野先生も自然と微笑みを返した。


「ただ、別に今すぐじゃなくてもいい。俺は急がん。今は絵より大事なことがあるからな」


ホッカルは急に真面目な表情に戻る。


「風呂で学んだことをすぐに復習してほしい。

習った直後に整理することよって、記憶を楽に定着させることができるというのはさっき話した通りだ。

ノートに書いてみて、どこが分からないのか浮かび上がったら、すぐ聞いてくれ」


「はい、分かりました」


浦野先生は椅子に腰かけ、シャープペンシルを手に取った。

数秒の静寂の後、ノートの上を鉛筆の芯が滑り出す。


「・・・・・・・・・」


彼女はお風呂の作用について黙々と書き出し、言葉に詰まるたびに、モニターに映るホッカルの顔に確認を求めた。


「・・・精神の安定を促す物質って、なんて名前でしたっけ。セラ・・・トニン?」


「惜しいな、セロトニンだ。血清を意味する英語の”Serum”という単語から来ている」


ホッカルは、柔らかく指摘しながらも、すかさず補足を加えた。


「一緒に発音してみようじゃないか。これも立派なアウトプットの一種だ。

こうやって手で書いたり声に出したりして覚える記憶を『運動性記憶』と呼び、一度覚えると忘れにくい性質を持つ。

たとえば自転車の乗り方をずっと忘れないのも、この記憶のおかげだ。

上手く活用すれば、学習の効果もぐっと高まる」


「・・・わかりました。お願いします」


「じゃあいくぜ、せーの」


「せーの・・・」


「Serum」


「Serum」


「Serum」


複数の声が重なり合い、病棟内に響き渡った。


「あれ・・・もうひとり、声がしませんか?」


浦野先生がモニターを凝視しながら、ふと問いかけた。彼女とホッカルの他に、誰かが話していた気配がしたのだ。


「ああ、それは橋田さんの声だな。ちょうど良い機会だったから、彼女にも話を聞いてもらっていた」


そう言うと、ホッカルは右手のボタンを操作して、映していたカメラの映像を室内全体のものに変更した。


モニターには、ベッドに横たわるホッカルの姿、そしてその傍らで椅子に腰かけている小さな少女が映し出された。

少女は、自殺防止病院の職員用スクラブを身につけていた。


「彼女は橋田冬希さん。俺の食事の介助なんかを、よく手伝ってもらっている。

浦野先生も、どこかで見かけたことがあるかもしれないな」


「ええ。お仕事中のお姿を、何度かお見かけしました」


浦野先生が頷いたそのとき、モニターの中の少女が、椅子からわずかに身を乗り出して頭を下げた。


「申し訳ありません。

佐々木先生が浦野様にご説明しているところでしたのに、私がしゃしゃり出るような真似をしてしまって・・・

もしご不快に思われたのなら、深くお詫び申し上げます」


まだ十歳にも届かないように見える橋田さんの声音は年齢に見合わぬほど落ち着いていた。


「いえ、不快だなんて。ただ、この空間にもう一人いるとは思っていなかったので驚いただけです。

謝らせてしまって、こちらこそすみません」


患者に対して高圧的な言動をとる成人の職員たちと違い、この施設の子どもたちは皆、礼儀正しく、腰が低かった。


「失礼な質問ですが、橋田さんって何歳ですか?

死後の世界にいる人って、見た目からは年齢が分からないじゃないですか。

若く見える三本松さんや津楽さんも、”実年齢”で言えば100歳をゆうに超えているわけですし。

見た目は子どもでも、実はそうじゃなかったりします?」


浦野先生は、これまで接してきた子どもたちの不思議な振る舞いから生じた疑問を、そのまま口にした。


「ガキに関しては、ほぼほぼ見た目どおりの年齢で合ってるぜ」


横からホッカルが補足する。


「地獄では、魂は死んだときの年齢で基本的に固定される。

だが例外もあってな。その最たる例が、まだ成人してない魂だ。

この場合、個人差はあるが、死後もだいたい20歳前後までは成長が続く」


”例外”──

そういえば、と浦野先生は思い出す。

ホッカルは1982年生まれで、2022年の初めに死んだと言っていた。

大人は死んだときの姿から変化しないのであれば、今の彼の見た目は40歳前後であるはずだ。

しかし、浦野先生が知っている彼は、どう見ても60歳前後の老人だった。

この冥界に来てから、彼の身に”何か”があったことは、断片的な話の端々から察している。

だが、その詳細までは語られていない。


疑問は静かに胸の内で広がっていく。

だが――、


「そうだったんですね。じゃあ、橋田さんは本当にまだ子どもだということですか」


彼女はそれ以上、ホッカルの過去に踏み込むことはしなかった。

今はまだ、そのときではないと感じたのだ。


「それにしても、地獄では子どもが働いてるなんて・・・学校には行かなくてもいいんですか?」


「・・・ここで暮らしているガキ──

つまり、子どものうちに死んだか、あるいは生まれることさえできなかった魂は、

”良家の生まれ”じゃない限りは、自殺者ほどじゃねえにしても、大人よりも”白眼視”される存在だ。

昔で言う”丁稚奉公”みたいに、毎日軽く”13時間以上”は働かされている。

労働基準法第56条にて、

中学卒業に満たない年齢のガキを労働者として雇用することは原則禁止されているが、

冥界ではそんなものは当然、”適応外”だ。現世のほうがよっぽどマシに見えてくるな」


ホッカルの声に、静かな怒りが混じっていた。


「一応、読み書きや常識を学ばせるための学校はあるから、橋田さんもそれには通ってるぜ。

だが授業は週に三日、それも午前か午後に二コマだけ。これじゃあ、まともな教育とは言えねえ。

自習用の教材を借りようにも、”薄給”でそれも叶わん。

だいたい、一日24時間のうちのほとんどが”労働”と”睡眠”に消えるってのに、勉強する暇なんてどこにあるって話だ」


彼は続ける。


「だから、俺はここで働くガキどもに、学びの場を作ってやろうと、

時折、『俺への接待』という名目をつけて、業務から外して勉強を教えている」


「・・・そうだったんですね。でも、どうして地獄では、子どもの人権がこんなにも軽視されているんですか?」


浦野先生の素朴な疑問に、ホッカルは少しの間を置いてから、問い返すように言った。


「浦野先生は『賽の河原』を知っているか?」


「はい。親より先に亡くなった子どもは、三途の川を渡れずに、賽の河原で石を積まされるんですよね。

『一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため』と唱えながら」


浦野先生は、幼い頃に聞いた地獄の伝承を思い出しながら語る。

そして、ふと表情を曇らせた。


「ところが、鬼が来てその石を壊してしまう。そのくだりは子ども心に”可哀想”だと感じました」


「そうだ。じゃあ、なぜガキがそんな目に遭うか、分かるか?」


「たしか・・・”親不孝”だから、って聞いたことがあります」


「そう教えられているな」


ホッカルはふっと鼻で笑った。


「だが、よく考えてみろ。

もし、ガキを失った親が――あの世で、我が子がそんな仕打ちを受けてると知ったらどう思うだろうか?」


言葉を区切りながら、ホッカルは静かに続ける。


「”親を悲しませること”が罪であるというならば、あの獄卒どももまた、罰を受ける必要がある。

明らかに理屈が通ってないことが分かるだろう」


ホッカルは吐き捨てるように言った。


「結局のところ、”親不孝”というのは、ガキを無理やり地獄に落とすための”方便”だ。

言い換えれば、都合よく作られた”名目”ってやつだな。

・・・あんたも、これと似た話をつい最近聞いたことがあるだろう?」


ホッカルは意味ありげに視線を向ける。


「天国には”特権階級”しか行けない。

どんなに”善良な人間”であろうと、”平民”であれば、屁理屈をこねて、地獄に叩き落とす、ですね・・・

賽の河原の話は、まるでこの現実世界の”写し”みたいです」


浦野先生の言葉にホッカルは黙って頷いた。


「・・・ここで、”特権階級”ってやつが何者なのか、ちょっと考えてみようじゃねえか。

そもそも、奴らってのは一体何者だ?」


「真っ先に思い浮かぶのは政治家、財界人ってところです・・・

ホッカルさんみたいな医学博士や医師も含まれるんでしょうか?」


「その通りだ。

連中の共通点は、社会に”計り知れない貢献”をしたとされていること。

だからこそ、秩序をねじ曲げた、”超法規的な待遇”が与えられる。

”実績”が”正義”――それがこの世界の真理ってわけだ」


浦野先生は、ふと何かに気づいたように小さく息を呑んだ。


「あっ・・・なるほど、話がつながりました。子どもたちが大人以上に虐げられる理由。

それは――”何もしていないから”ですね」


ホッカルは満足げに頷いた。


「実に穿った見方だな・・・素晴らしい。

あんたがさっき言ってた『一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため』――あれには続きがある。

『三つ積んではふるさとの兄弟、我が身』だ。

ガキはこれをつぶやきながら、両親や兄弟に対して『回向』をして、自らも成仏を願うわけだな」


「えこう・・・?」


「”回向”とは、仏教用語であり、自分の積んだ”功徳”を他者に分け与えることを意味する。

ガキは人生でそれを行う前に死んでしまった。

だから、せめて地獄では、石を積み上げて仏塔を作る真似事をし、仏教への信仰心を示す”善行”を強いられる。

それが『賽の河原』の正体ってわけだ」


そう語り終えると、ホッカルはふたたび、橋田さんの映るモニターに目を向けた。


「・・・この地獄で、橋田さんの価値はたったひとつ。”動く手足”として、それだけだ。

これから先ずっと――地獄の鬼、すなわち、上の役職の連中にとっての”よい働き”を求められ、

時には石を崩されるかのごとく、”理不尽”を押し付けられながら暮らしていく」


「・・・そんな・・・彼女たちに、救いはないんですか・・・?」


浦野先生の声は震えていた。あまりにも過酷な現実を前にして、言葉を見失いかけていた。


「何年も、文句ひとつ言わず――奴隷のように働き続ければ、

いずれは”新しい人間”として”転生”する権利を得ることはできる。

・・・ただし、そのために必要な年月は、普通に死んだ人間の倍以上。

軽く、千年はかかるだろうな」


ホッカルの声は、低く、重たかった。


「・・・”千年”・・・!?」


浦野先生の瞳が大きく見開かれる。

あまりにも長く、果てしない時間。

想像すら拒むような非現実の数字が、喉を塞ぐ。口を開こうとしたが、二の句が継げない。


「だが――」


ホッカルはそこで口調を変え、やや誇らしげに言葉を継いだ。


「ここにいるガキどもは、何世紀も燻って暮らすつもりはない」


彼は天井を仰ぎ、ゆっくりと語り始める。


「かつて福沢諭吉は、自著『学問のすゝめ』の冒頭でこう記した。

──『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』。

すなわち、人は生まれながらにして平等である、という理念だ。

だが福沢は、その直後に現実を突きつける。

優劣の差、貧富の差、そして身分の差――それらは、確かに存在している、と。

だからこそ福沢は言った。

下の階層に生まれた人間であっても、自ら”学問”を修めることで、上との隔たりを埋めるべきなのだと。

それこそが、本当に伝えたかった真意であり、福沢が慶應義塾を創設した理由に他ならない」


ホッカルの言葉はさらに熱を帯びていく。


「福沢よりもおよそ百年前、似たような思想を語った人物がいる。

スイスのヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチだ。

ペスタロッチはこう述べた。

――『玉座にあっても、木の葉の屋根の下に住んでいても、すべて同じ人間である』。

そしてペスタロッチもまた、福沢と同じく信じていた。

人々が貧困から抜け出すために、最も必要なのは”教育”だと。

その信念のもと、ペスタロッチは恵まれないガキどものために学校を設立し、教育法の確立にその生涯を捧げた」


そこで彼は一拍置き、静かに言葉を重ねた。


「この思想は、どの世界にも通用する”普遍の真理”だ」


彼の声からは、その理念を道標として生きてきた人生の重みが滲んでいた。


「ここにいるガキどもは、誰かに教えられたわけじゃない。

短い人生の中で、自分の境遇を見つめ、どうすれば抜け出せるかを必死に考えた。

そして自らの意志で、”学ぶ”という答えに辿り着いたんだ。

この自殺防止医院で、自分の”文化的水準”の低さを誤魔化すために、

患者相手に説教を垂れて悦に入っている連中とは、根本から違う。

こいつらは、限られた時間の中でも真剣に勉学に励み、

いつか”立身出世”を果たし、俺たち”特権階級”への仲間入りすることを本気で目指しているんだ」


その言葉に呼応するように、モニターに映る橋田さんの瞳が、わずかに光を帯びる。


静かながらも確かな意志が、そこにはあった。

それを浦野先生は、確かに感じ取った。


「・・・そんな道が、あるんですか・・・?」


浦野先生は眉をひそめた。


「でもそれって・・・そんな”天上人”たちが支配する、この絶対的な”身分制度”の中で

・・・本当に、許されてるんですか?」


彼女の疑念はもっともだった。

この自殺防止医院に来て以来、彼女は何度もこの世界の”理不尽”と”格差”を目の当たりにしてきたのだから。


「”表向きは”・・・と言っておこう」


ホッカルは淡々と答える。


「この地獄で、たとえば、”官僚”といった”要職”に就き、

長年にわたって貢献を重ねれば、通常よりはるかに早く”転生”が認められる。

それだけではない。

さらに、”特権階級”の証ともいえる――”天国行きの資格”さえ、もれなく手に入る」


そう言ってから、彼はゆっくりと橋田さんへと視線を移した。


「ちなみに橋田さんは、俺と同じ”医師”を目指している。

だが、それは浦野先生の思う通り、当然、”茨の道”だ。

常識的に考えれば、生前にその分野で働いていた人間を差し置いて、

地獄で育ち、何の経験もない存在に、そんな地位を与えるわけがない」


「やっぱり・・・そうですよね・・・」


浦野先生の声は、力なく沈んでいた。


「だがな――」


ホッカルは言葉を区切り、視線を鋭くした。


「そんなときに唯一、有効となり得る武器がある――それは”学歴”だ」


「学歴・・・?」


「冥界の日本領内、天国の領域に存在する、唯一の大学――”黄泉大学”。

ここを卒業できれば、自分が”優秀な人材”であることを、誰の目にも明確に証明できる」


「こうせん・・・だいがく?」


「そうだ。”黄色い泉”と書いて、黄泉大学。”黄泉の国”に由来する名だ。

もともとは”黄泉帝国大学”として、

現世の東京、京都、大阪、名古屋、東北、九州、北海道、そして旧日本統治下の京城、台北――

そのどれにも並ぶ存在として、秘密裏に設立された。

言わば、『もうひとつの旧帝大』だ」


「旧帝大・・・それは、すごそうですね・・・」


「ああ、すごいぜ・・・

なんたって、黄大には”死んだ天才たち”が一堂に会してるからな。

1号室のゼンさんも、その一人だ。

さらには、いわゆる”ロストテクノロジー”と呼ばれるものなんかも、冥界では現存している。

たとえば、日本で有名な例として挙げられるのは”日本刀の製鉄法”だが、

あれも黄大にて、その技術を土台にした独自の応用化研究が進んでいる。

現世にない”才能”と”叡智”の結晶――

世にその存在を公表することはできないが、

黄泉大学の学問は、東大すら凌ぐ領域で、”日進月歩”しているわけだな」


ホッカルの目は輝き、語る声には、まるで少年のような興奮が宿っていた。


「そんな大学があったんですね・・・でも、そこって、橋田さんが簡単に入学できるような場所じゃないですよね?」


「ああ。というか――”絶対に無理”だ。”100%不可能”だ」


浦野先生の問いかけに、ホッカルはすぐさま断言した。


「えっ・・・」


あまりの即答に、浦野先生はまたも言葉を失った。


「まず、入学に必要な”学力”に到達するのが至難の業だ。

なにせ、こっちにはまともな教育制度すらない。

しかも募集要項こそ”門戸開放”なんて耳障りのいいことを言っているが、

本音では、早世したエリートの秀才だけが対象だ。

橋田さんのような庶民のガキなんて、最初から眼中にないってこった。

それに、”学費”。

地獄の低賃金労働者が、あの額を払えるわけがない。

奨学金なんて制度は存在しないし、家族とはすでに引き離されてる。

頼れる者なんて、どこにもいない。

どれだけ潜在能力があろうが、関係ない。”シンデレラストーリー”なんてものは、”絵空事”だ」


「・・・”世知辛い”ですね」


浦野先生は、噛み締めるように呟いた。


しかし――


ホッカルの声が、そこで再び熱を帯びた。


「だが、それは――俺がいなければ、の話だ」


ゆっくりと、唇の端を吊り上げるホッカル。


その笑みは、不敵で、確信に満ちていた。


「俺は橋田さんをはじめとする、ここのガキどもを”支援”するために、”猶子縁組”という形で繋がっている」


「ゆうし縁組・・・?それって、”養子”とは違うんですか?」


浦野先生が眉をひそめながら訊ねると、ホッカルは静かに頷いた。


「”猶子”には、二つの意味がある。一つは、自分の兄弟や姉妹の子どもを指すもの。

そしてもう一つは、他人と形式的に親子関係を結ぶことだ。ここでは後者を指す。

つまり、俺が”父親”で、橋田さんが”娘”になる、そういう関係だな。

これは、古い時代の貴族や武士、僧侶たちの間で広く行われていた形式でな。

現世では忘れられても、冥界ではまだ生きている制度なんだ」


彼は肩を竦めつつも、言葉を続ける。


「猶子と養子では、大きな違いがある。

たとえば――家督や財産の”相続権”がないってのが、代表的なポイントだな。

他にも、浦野先生、あんたは俺の養子だから、特権階級の地位もあるし、名字も”佐々木”に変わった。

でも橋田さんは違う。あくまで猶子だ。地位も、名字も変わらない。

猶子は役所に支払う手続き費用も安く、養子より手軽に行うことができる。

だがそのぶん、子として得られる恩恵も限定的なのが特徴だ」


「そんな制度があるんですね・・・

養子とは違ってあまり得はないように思えるんですけど、

ホッカルさんが橋田さんを猶子にすることが、どう支援に繋がるんですか?何か”利点”があるんですか?」


疑問を隠せずに問う浦野先生に、ホッカルは少し口元を緩めた。


「利点は、”俺が後ろ盾になる”という一点に尽きるな」


その声音は、どこか誇らしく、そして責任を背負った者の重みがあった。


「黄泉大学を受験する際、

平民のガキなんてのは、名前を見ただけで答案すら読まれずに”不合格”にされることもある。

成績開示?そんなものは取り合ってももらえねえよ。

だが、平民といえども、”佐々木の娘”という”肩書”があれば話は変わってくる。

奴らも、俺に無礼を働くわけにはいかないからな。

つまり橋田さんは、純粋な実力だけで勝負できるということだ」


そして、彼は言葉を続けた。


「俺は、”上を目指す人間”には”チャンス”を与えるべきだと考えている。

だから当然、ここのガキどもが進学するために必要な資金は、すべて俺が負担するつもりだ。

子どもが学ぶために、親が金を出す――それが”当たり前の常識”だろう?」


ホッカルの声は力強く、何のためらいもなかった。それに押されるように、浦野先生は目を見開いた。


「”全額”・・・!?私は地獄に来て間もないので、まだこの世界の”物価感覚”が分かりませんが・・・

それが”相当な額”であることぐらい、想像はつきます。なぜ・・・なぜそこまでできるんですか?」


ホッカルの隣で静かに聞いていた橋田さんも、口を開いた。


「私も・・・知りたいです。どうして佐々木先生は、見ず知らずの私たちに、そこまで・・・?」


二人の問いに、ホッカルはしばし沈黙した。そして、やがてゆっくりと語り出した。


「それはな・・・俺が、”優しい人間”でありたいと、心から願っているからだ」


その言葉には、嘘のかけらもなかった。


「さっき話した賽の河原のくだり――あれは『地蔵和讃』という話の前半にあたる。

『地蔵和讃』とは、仏教から派生した日本の民間信仰に基づいた歌でな。

日本の有名な彫刻に口から六体の小さな仏像を出している男の姿のものがあるだろう?

そのモデルになった空也上人という平安時代の僧が作ったものだと伝えられている。

タイトルの地蔵から分かるように、話の主人公はよく町角に佇んでる”お地蔵さん”だ。

あの地蔵の正体は、仏教の信仰対象の一尊である地蔵菩薩であり、

菩薩とは悟りを目指しながらも、他者を救い続ける存在のことを示す。

『地蔵和讃』の後半では、地獄で苦しむガキどもが、地蔵菩薩によって救われる場面が描かれる。

地蔵菩薩はガキに対して『この世界では自分を親だと思え』と語りかけ、鬼の手から助け出すんだ。

つまり、賽の河原の話は、ただ残酷なだけの話ではなく、

地蔵菩薩の慈悲と、その功徳を讃えるために語り継がれてきたものだというわけだな」


ホッカルはゆっくりと息を吐いた。


「俺は、ガキのころから・・・そんな存在に、ずっと憧れていた。

だから今、地蔵菩薩の行いを真似ている。”模倣”は大事だ。

日本三大随筆のひとつ、吉田兼好の『徒然草』にもこうある。

『偽りても賢を学ばんを、賢といふべし』――

たとえ形だけの真似であっても、賢人から学び、自らの行いを正そうとする者を”賢い”と言える、という意味だ。

この結論に至る”前置き”として、『狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり』という一節が置かれているが、

現代では、そちらのほうが独り歩きして有名になってしまっている。

だが、兼好法師が本当に伝えたかったことは、その先にあるんだ。

・・・もっと、この文章の”本質”が広く知られてほしいものだな」


彼の声には、世界に誠実に向き合ってきた人間らしい、確かな芯の強さが感じられた。


「とはいえ――俺は、菩薩のように”超人的な神通力”を持っているわけじゃない。

結局のところ、俺も単なる一人の人間に過ぎないんだ。

大勢を救うだなんて、そんな大それたことを俺の口から言える資格なんてない」


しかし、ホッカルは誰かを救っている自負に溺れることなく、あくまで謙虚に、自らの限界と向き合っていた。


「時には、自分の”無力さ”に打ちのめされることもある。

どれだけやっても届かない現実に直面して・・・」


彼は一拍置いて、小さく笑う。


「そして、『山月記』の李徴さながら、

『人生は何事をも為なさぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短い』

――そんな言い訳じみた言葉を、つい口にしてしまうんだ」


淡々と語られるその言葉には、どこかにじむような疲れと、静かな諦念が滲んでいた。


「だからこそ、俺は――せめて、”手の届く範囲”にいる人間に対しては、全力で向き合いたいと思ってる」


ホッカルの声は、静かだが揺るぎなかった。

それは宣言ではなく、信念の吐露だった。


「俺は、”縁”というものを、大事にしている。

俺は神という存在を心の底から嫌悪しているが、

それでも、浦野先生や橋田さんと出会えたことには、何かしらの意味があると、どうしても思ってしまう。

『袖振り合うも他生の縁』って言うだろ?

ほんのささいな偶然が、人生の風景を変えることだってある。

あんたたち二人との繋がりが、間違いなく――俺の人生を一つ、豊かにしてくれた」


そして、ホッカルはふたりにそれぞれ視線を向け、優しく微笑んだ。


「ならば、俺はその事実に報いたい。それが、俺の正直な気持ちだよ」


その言葉に、浦野先生はふっと息を呑んだ。

ホッカルの中に流れる”思いやり”という名の温かな感情が、まっすぐに自分の心に届いたのを感じた。


自分の中にある想いを、相手にそのまま伝える――

それは、簡単なようでいて、誰にでもできることではない。

けれど、ホッカルは、それを躊躇わない人間だった。

彼の”素直な人間性”に、浦野先生の胸は静かに熱くなった。


「佐々木先生・・・すみません。私にはあまりにも”もったいないお言葉”でして・・・」


橋田さんは目元をハンカチで覆いながら、静かに涙を拭っていた。

その様子に、ホッカルの言葉が、彼女の心にも強く響いているのが分かる。


「いいんだ、気にするな。橋田さんが俺のことを、少なくとも悪くは思ってないようで嬉しいぜ。

俺ってのは、基本的には”嫌われ者”だからな」


彼の冗談めいた言い回しに、小さな笑いが生まれた。

だがその背後には、深く刻まれた人への優しさがあった。


やがて橋田さんは、そっと声を絞り出す。


「・・・差し出がましいお願いかもしれませんが・・・

今のお言葉を、私だけじゃなく、他の同僚たちにも・・・会った時に、その都度、伝えてくださいますか?

佐々木先生の”博愛”は・・・この地獄で暮らす私たちにとって、かけがえのない”希望”です」


ホッカルは一瞬、驚いたように瞬きをしたが、すぐに頷いた。


「もちろんだ。構わないさ。

”想い”ってのは、口に出さなければ伝わらないものだからな。

俺はここのガキどもを、心から愛してる。

奴らには、自分に”誇り”と”自信”を持って生きていってほしいんだ」


「・・・ありがとうございます」


橋田さんは深く頭を下げた。

その慎ましくも丁寧な動作に、浦野先生の胸は再び温もりに満たされた。


だがふと、橋田さんのような存在がこの医院にいることを知ったとき、彼女の心にある”雑念”がよぎった。


「あの、すみません・・・橋田さん。ちょっと、一つだけ質問してもいいですか?」


「はい、浦野様。どうなさいましたか?」


浦野先生は、どこか探るように遠慮がちに問いかけた。


「橋田さんや、他の方たちは・・・こうやって、ホッカルさんに”度々”勉強を教えてもらってるんですよね?」


「ええ。ありがたいことに、何度もご指導いただいています」


「・・・じゃあ、今日こうしてホッカルさんのお話を直接聞くのって、久しぶりだったり、します?」


橋田さんは一瞬だけ目を泳がせたが、すぐに頷いた。


「はい、確かに・・・最近は少しご無沙汰しておりましたね」


その答えを聞いた瞬間、浦野先生の顔に「ああ、やっぱり・・・」というような表情が浮かんだ。


「あ~、これ、私のせいですよね。ほんと、すみません。最近、ホッカルさん、ずっと私とばかり話してましたから・・・

ホッカルさんを、独り占めしちゃってて・・・ほんと、ごめんなさい!」


彼女はモニター越しに、深く頭を下げた。

だが橋田さんは、平謝りする浦野先生に穏やかな笑みを浮かべ、そっと首を横に振った。


「いえいえ、浦野様が謝ることは何もありません。

私は、佐々木先生との時間を奪われたとは思っていませんよ。

そもそも、私たちにとって先生と過ごす時間は、本来”存在しないはずのもの”ですから。

それに・・・浦野様と佐々木先生のお話、時々聞こえてくるんですけど、それだけでも本当に勉強になってるんです。

『門前の小僧習わぬ経を読む』という言葉にあるように、

私たちは、直接でなくとも、佐々木先生から自然に教えを分けてもらっているんです。

だから、どうかお気になさらずに」


その言葉に、浦野先生はますます申し訳なさを感じてしまう。

――本来、耳越しで知る知識と、面と向かって学ぶ内容は、まるで違う。

橋田さんたちの置かれた環境に思いを馳せると、心がちくりと痛んだ。


「・・・これは、”俺の責任”だな」


ホッカルが静かに口を開いた。


「浦野先生に、変な気を使わせてしまって申し訳ない。橋田さんもすまんな。

最近の俺は、あんたと”漫画”や”美術”の話をするのに夢中になるあまり

つい、ガキどものことを”なおざり”にしてしまっていた・・・」


「いえ、ホッカルさんは悪くないです。

私が、あんまりホッカルさんにばかり話しかけるせいで、

ホッカルさんも、私を放っておけずに、子どもたちのことを言い出せなかったんでしょう?」


謝罪するホッカルに対して、浦野先生は一歩も引かなかった。

控えめな佇まいの裏に、”頑固”な芯を宿した人物――それが彼女だった。


「ホッカルさん、今日の私へのご指導は、もう十分です。

”教養”を育てるのは、急ぎのことじゃありませんから。

今日の時間は、学ぶことが”死活問題”である橋田さんたちに、ぜひ使ってあげてください。

私はこのあと、一人でルイズのイラストを描いておきますので」


「・・・そっか。なんか、悪いな。あんたを除け者にしてるみたいで・・・

この埋め合わせは、必ずするよ」


「気にしないでください。私はホッカルさんから、もう十分すぎるくらい恩を受けています」


「・・・あなたは、”優しい人間”だな」


ホッカルはぽつりと呟く。


「”和の心”を忘れずにいる、今では少なくなってしまった”奥ゆかしい”女性だ・・・」


橋田さんも、静かに頭を下げた。


「ありがとうございます、浦野様」


だが、その言葉を受けて――浦野先生の胸にあるのは、ある種の”自責”であった。


自分は、”善人”なんかじゃない――そう思っている。

他の自殺者たちが、いまもこの自殺防止医院で、糞尿をまき散らし、苦痛と辱めに耐えているなかで、

自分だけがホッカルに気に入られ、その”鶴の一声”で与えられた”特権階級”の地位を謳歌し、

彼らに対して”高みの見物”を決め込んでいる。


彼らよりも、自分は”恵まれている”。それは、間違いない。

そして、そのことに対して、”申し訳なさ”も感じている。

けれど、この立場だけは――絶対に、手放したくはない。

――そんな”自分本位”な考えで日々を過ごしている人間だ。


ただ、だからといって、高飛車にふるまったり、威張ったりするつもりもない。

もし、自分にできることがあって、それが誰かの助けになるのなら

――そのくらいのことは、やるべきだろう。

ただ、それだけの話だ。



それから浦野先生は、静かにノートに向かい、シャープペンシルを走らせはじめた。

カリカリとした音が部屋に小さく響き、時折、消しゴムで軽やかにこすれる音がそれに混じる。

線を引き、消し、また引き直す。

そうしてページに現れていく美少女キャラクターの姿には、やはり目を見張るものがあった。


かつて、本気でその道の”プロフェッショナル”を目指していた――そう語るのも納得の、繊細で確かな筆致だった。


そんななか、隣の部屋から聞こえてくるのはホッカルの講義の声。


「『三角比』とは、直角三角形の辺の長さの比を使って角度を表そうという概念だ。

これは特に測量で重宝されるものでな。

三角比をマスターすれば、実際には直接測れない距離や高さを、計算によって推定することができるんだ。

そのため、建築や天文学といった分野で広く活用されている。

ということで、まずは橋田さん、メモ帳に直角三角形を、直角が右下にくるように書いてみてほしい」


「はい」


橋田さんの、まだ幼さの残る声が返ってくる。

だが、その返事の仕方には、少しも迷いがなかった。


「三角比では、三つの辺のうち、二つの比を使う。

具体的には、斜め÷縦、斜め÷横、横÷縦――この三つだ。

それぞれに名前がついていて、斜め÷縦を『サイン』、斜め÷横を『コサイン』、横÷縦を『タンジェント』と呼ぶ。

覚え方としては、それぞれの頭文字である――s、c、t――の筆記体の書き順を対応させると、イメージしやすい。

偶然にも、これらの文字の筆記体の書き順は、直角三角形の辺の関係に自然と当てはめられるんだ。

実際に書いてみると、俺の言っていることがなんとなく分かってくると思う」


「なるほど・・・書き順の順番が、そのまま分母と分子の順になるんですね」


「その通りだ」


──これって、確か高校で習う範囲だったよね・・・あんまり覚えてないけど。


浦野先生は、手を止めずに聞き耳を立てながら、内心でそっとつぶやいた。


橋田さんは、おそらくまだ10歳前後の少女だ。

その子が、今こうしてホッカルから”高校数学I”の内容を、しかもごく自然に学んでいる。


──すごいなあ・・・


そんな感嘆が、ふと胸を満たす。


──私は数学の授業なんて真面目に聞いてないから、そのへんは全然分からないや・・・

──下手すれば、”算数”のレベルからすでに怪しいかも・・・

──アルファベットの筆記体なんてのも覚えてないし・・・

──ホッカルさんにこれから先、一からちゃんと教えてもらわなきゃダメね・・・


イラストを描きながらも、頭の片隅ではそんな情けない独白がこだましていた。

そのたびに、ペン先が少しだけ震える。


やがて、勉強不足に対する恥ずかしさを痛切に感じ、胸を締めつけられて、じっとしていられなくなった。

気を紛らわせようと、浦野先生はひとまずノートとペンを置き、部屋の外に出て歩くことにした。


──ウォーキングによって神経伝達物質のセロトニンが分泌され、精神のバランスが安定する。


それは、つい先ほどホッカルから教わったばかりの知識だった。


通路を歩いていると、前方から老人がゆっくりとこちらへ歩いてくるのが見えた。

この男性もまた、自分と同じ転生待機室の住人なのだろう。


「こんにちは」


少し勇気を出して、挨拶をしてみる。

この場所で暮らす以上、ホッカルやお嬢様以外の人とも、少しずつ関わっていかなければならない。


「こんぎきは。散歩ですか?」


「はい」


この老人もまた、自分とは時代を異にする”歴史上の人物”。

そう考えると、浦野先生は思わず身を固くしてしまった。


「良いですね。わたひも毎朝、ここのひょく員に用があぎまひて、

まあ、こっきが呼ぎ出ひてもいいのですが、きょうど良いので、

ぎ分の部屋から”ナースステーヒョン”まで往復するのを”ぎっ課”とひています。

最近は専ら『ひゅんぎん、暁を覚えず』なもので朝遅いですが、やはぎ、体を動かすと目が覚めますね」


「そうですね・・・」


老人は、舌足らずのような、あるいは滑舌にどこか独特な癖のある話し方だった。

だが、緊張していた浦野先生は、その”違和感”を意識する余裕すらなかった。


「それぎゃあ、また会いまひょう」


「はい」


軽く会釈し合い、老人は再び歩き始める。

浦野先生の横を、ゆっくりと、どこか安定した足取りで通り過ぎていった。


会話の余韻に息をつく間もなく、浦野先生は視線の先に人影を見つけた。

今度は見知った顔──昨日、語り合って親しくなった津楽だった。


彼は、ひとりの見知らぬ若い女性と仲睦まじく話していた。

三つ編みに知的な眼差し。まるで”才女”といった風情だ。


津楽が妻帯者であり、夫婦揃って転生待機室の住人であることは、すでに聞いていた。

ならば、この女性こそが津楽の奥さんなのだろう。


──お邪魔するのも悪いし、そろそろ部屋に戻ろうか──


そう思って引き返そうとしたそのとき──


「浦野さん!おはようっす!」


津楽が彼女に気づいて、手を大きく振って呼びかけた。


「ああ、あなたが浦野先生ですね。お話は伺っています。お会いできて嬉しいです」


女性も軽く頭を下げながら、朗らかに挨拶する。

身に着けているのはスクラブだが、この自殺防止医院の制服やリハビリテーション職の制服とは少し違う。


「はじめまして。あなたが津楽さんの奥様ですよね?よろしくお願いします」


「──あっ、浦野さん、違います違います。彼女、俺の”娘”なんすよ」


津楽が慌てて訂正を入れる。


「あっ・・・そうだったんですか?失礼しました!」


浦野先生は赤面しながら、ぺこりと頭を下げた。


「いや~似てないっすよね。この子は完全に”母親似”なんで。俺に似てなくて本当に良かったと思ってますよ、ハハハ!」


津楽はそう言って豪快に笑った。

だが、よく見ると──たしかに、口元や目のあたりに親子らしい面影があった。


「さっき、父からいろいろ聞きました。

浦野先生って、あの”能現先生”の下でアシスタントされてたんですよね?」


「・・・はい、そうです」


津楽の娘は目を輝かせて、思わず距離を詰めてきた。

能現先生──それは、かつて浦野先生が師事していた、週刊少年ジャンプの”連載漫画家”だ。


能現先生は浦野先生の2歳年上の男性で、

年齢こそ大きく離れていなかったが、浦野先生が漫画家としてデビューした頃には、

すでに能現先生は、初連載の王道バトル漫画『アンコクブレイカー』で累計100万部を突破し、

”期待の若手作家”として注目を浴びていた。

その作品は後にアニメ化され、連載も長期にわたり、最終的には累計4000万部超の”大ヒット作”となっている。


そして『アンコクブレイカー』完結後、現在は野球漫画『170km/h』を連載中。

それもまた、雑誌の人気作品となっていった──


「能現先生といえば、今のジャンプで”一番勢いのある作家”ですよね。

ちょうど今週号で、『170km/h』のアニメ化が正式に発表されたばかりなんですよ」


「えっ、本当ですか!?

先週の時点で”巻頭カラー”って予告が出ていたので、もしかして・・・とは思っていたんですが。

やっぱり嬉しいですね。お世話になった先生が、今も第一線で活躍されてるなんて」


浦野先生の声が自然と弾む。


「私も早く今週号を読みたいです」


この自殺防止医院では、ホッカルが高額な利用料を負担して電子版「週刊少年ジャンプ」の配信契約を結んでおり、

そのデータは今日、仕事帰りのお嬢様が持ち帰ってくる予定になっていた。


「──まあ、佐々木先生は”発狂”しそうですけどね。

あのお方、能現先生の作品は『アンコクブレイカー』も『170km/h』も”大っ嫌い”なので」


津楽の娘は、からかうように笑ってみせた。


「えっ!?そうなんですか?

私と話しているときのホッカルさんは、そんなこと一言も言ってませんでしたけど・・・」


「そりゃあ・・・浦野さんがあの作者の職場にいたって知ってたから、

さすがのホッカルも気を遣ったんじゃないんすかね」


津楽が補足する。


「ああ、なるほど・・・そうだったんですね」


浦野先生は目を丸くしながらも、不快な様子はまったく見せなかった。


──ホッカルさんって、”美意識”に関しては”独特なこだわり”がある人だし、

──きっとホッカルさんなりの理由があるんだろうな・・・


彼女はむしろ、その理由を聞いてみたくてたまらなくなっていた。


「そういえば、津楽さんの娘さんって普段はどこにいるんですか?

ここの転生待機室に住んでるわけじゃなさそうですよね?」


浦野先生が疑問を口にすると、津楽の娘はにこやかに答えた。


「私は普段、日本病死者センター第121支部の転生待機室に住んでいます。

今日は”仕事”でこっちに来たので、ついでに両親や佐々木先生にも顔を見せようと思って、まず父のところに来たんです」


「仕事って・・・?」


「この子は、病死者センター附属の病院で職員として働いてるんすよ」


津楽が誇らしげに説明を継いだ。


「さっき『ある患者を病死者センターに移送する』って放送、あったでしょ?

あの患者を引き取りに来た、ってわけです」


「あっ、そういえば・・・

いつもとは違う放送のパターンだったから驚きました。

あれってどういうことなんでしょう?さっきホッカルさんに聞こうとして、忘れちゃってました」


「この自殺防止医院には、たまに”自殺の可能性が高い”って理由だけで収容される人がいるんすよ」


津楽は落ち着いた口調で説明を続ける。


「でも、その人が本当に”自殺”だったのか、それとも”事故死”や”病死”だったのか──

”死因の特定”が困難なケースも少なくないんです。

物語に出てくるような神様だったら、その人の記憶を映像でバシッと見られるんでしょうけど・・・

残念ながら、あの世の人間にはそこまでの”芸当”はできないっすからね」


「そうだったんですね・・・

でも私、ここのカルテに誰にも話してない秘密まで書かれてました。

だからてっきり、現世での私の行動は全部バレてるのかと思ってました・・・」


「表向きには死人の情報はすべて”筒抜け”ってことになってますけど、実際のところは違います。

これは”機密情報”なんで詳しくは言えないんすけど、

”本人しか知りえない情報”をどうやって知るか──それには”ある仕組み”があるんです。

これは”ホッカルの研究”にも関係あるんで、俺じゃなくてアイツから聞いたほうが早いかもしれないっすね」


「わかりました・・・気になりますけど、今度聞いてみます」


「で、話を戻すと──そういう”死因不明”の人については、現世の警察の捜査情報を待ったり、

自殺防止医院側でも独自に調査を進めるんです。

その結果、”実は自殺じゃなかった”ってことになれば、

病死者センターや事故被害者センターに移送される、って流れになるわけっすね」


「なるほど・・・そんなケースもあるんですね・・・」


浦野先生は静かに感心したように呟いた。

知られざる”あの世の運営”には、まだまだ知らないことがたくさんあるのだ──。


「今回の患者さんは、舌を噛み切って自殺したとされていたんですが・・・

実は精神疾患の症状の影響で、そうした行動を取る傾向があったんです。

精神病院に入院した際、その事実が看護師たちに十分に共有されていなくて・・・

深夜にその方が何度も舌を噛み続けた結果、舌が腫れて気道を塞ぎ、”窒息死”してしまいました」


津楽の娘は冷静な口調で語った。


「そう・・・だったんですね・・・」


「そのため今回は、自殺ではなく”精神疾患に起因する病死”と判断され、

病死者センターへの移送が決まりました」


「それは・・・大変でしたね・・・」


「ええ。現世の肉体の病や怪我は死とともに消えますが、”精神はそのまま”です。

その方は今後も、”病の苦しみ”と共に生きていくことになります」


「そんな・・・」


その場の空気が重く沈む。


だが、津楽がそれを振り払うように、明るく声を上げた。


「でも、そんな人の”支え”になるためにお前は頑張ってるんだろ!」


「はい。私は病死者センターの職員として働くかたわら、

”精神科医”を目指して、今は”黄泉大学”の”医学部”で学んでいます。

地獄に落とされてしまって、深く傷ついた人に寄り添いたいんです」


津楽の娘は、まっすぐなまなざしで言葉を紡いだ。


「”黄泉大学”・・・!さっきちょうどホッカルさんに、その大学の話を聞いたばかりです。

そこの”医学部”だなんて・・・すごいですね!」


「その通り!この子はすごいんすよ!」


津楽は興奮気味に娘を見つめながら続ける。


「俺のせいで、彼女は”100年レベル”で苦労し続けてきたんです・・・それでも腐らず勉強を続けて・・・

2年前、ホッカルの”後援”を得ることができたおかげで、ついに大学に合格したんす!」


「佐々木先生のおかげで、私はようやく”スタートライン”に立てました。

その”ご恩”に報いるためにも、必ず医者になって、”実績”を積み、”権力”を握り、あの世に”変革”を起こします!」


「変革、ですか?」


「はい。私の目標は──自殺防止医院を”廃止”し、病死者センターに”統合”することです」


津楽の娘は力を込めて語る。


「私は、自殺とは”心の不調”に起因する”病死”だと考えています。

”心”とは”臓器”のひとつ──

その認識が広まっていないからこそ、『うつは甘え』だの『気持ちの問題』だのと、誤解されてしまうんです。

”精神病”とは、感情や思考を司る”脳の故障”──

がんや心筋梗塞と同じ、れっきとした”病気”です。

気の持ちようで治るものではありません。

それなのに、そういう人たちが”悪人扱い”される今の世の中は、私は絶対に間違ってると思うんです!」


その強い語気に、場の空気が一瞬、引き締まる。


「お前は・・・ほんとに”立派に育った”な・・・

俺みたいな”無責任なクズ”には・・・もったいねえよ・・・」


津楽の目に、涙が浮かぶ。


「そんなこと言わないでよ。

父上が何年も”廃人安置所”で必死に働いて、私に”教育費”を送ってくれたから、今があるわけじゃん」


津楽の娘は、口調を柔らかく崩しながら、父を見つめた。

その声には、親に対する深い尊敬と愛情がにじんでいた。


浦野先生は、その親子の温かなやりとりを静かに見つめながら、

胸の奥にじんわりとした感動を覚えていた──。


「さて、父上。母上にも顔を出しに行こうよ」


津楽の娘が言う。


「その前に一瞬、私は佐々木先生に”挨拶”と”差し入れ”だけ行ってくるけど」


「おう、そうだな。”差し入れ”って、何持ってきたんだ?」


津楽は、津楽の娘の手にある紙袋を指さしながら尋ねた。


「”オレンジジュース”と、”とろみ剤”」


娘が袋の中から、それらを取り出して見せる。


「お、いいじゃん。”オレンジジュース”はホッカルの”大好物”なんすよ」


津楽は浦野先生に対して明らかにする。

思わぬところで、彼女はホッカルの好きなものをまた一つ知ることができた。


「佐々木先生は、今日も職員相手に”講義”をなさっているようですね。

あのお方はいつも変わらず、”仁恤の心”を持つ素晴らしいお方です」


「今日のホッカ・・・佐々木先生は、橋田さんという職員に教えていました」


「そうでしたか。橋田さんは、私と同じく”医学の道”を志している後輩ですから、

彼女にも”激励の言葉”を送っていきましょう。それでは、浦野先生、失礼します」


津楽の娘は軽く頭を下げる。


「俺も失礼します。じゃあ、また」


「はい。またお会いしましょう」


津楽親子は、津楽の妻がいる転生待機室・41号室の方向へと去っていった。


浦野先生はそのまま病棟内を歩き、自分にとって”未知の領域”をひとり進んでいく。

やがて、彼女はこの自殺防止医院のロビーまでたどり着いた。


その空間には、受付に座る職員がひとり。

セキュリティゲートには数人の警備員が控えていたが、

待合スペースの椅子には、誰もいなかった。


壁一面を覆うガラスの向こうには、外の風景が広がっている。

白く無機質な立方体の建物が、まるで定規で引いたかのように整然と並んでいた。

もしこの場にホッカルがいたならば、「この街並みは”アシガバート”を思い起こす」と例えたかもしれない。

中央アジアの一国・トルクメニスタンの首都──白い大理石で築かれた人工的な美しさの街を。


そして、空は──赤かった。

どこまでも広がる深紅の天蓋。その上を、煤けたような黒い斑模様が、静かに、しかし絶え間なく蠢いている。


「冥界には太陽がない」──ホッカルの言葉が、静かに脳裏に蘇る。


「・・・私は、本当に”地獄”にいるってわけなのね」


浦野先生は言葉を落とすと、そのまま動かずに立ち尽くす。


赤と黒が織りなす空のゆらめきから、目を離すことができなかった。

変化を繰り返すその模様には、波が打ち寄せては引いていくような、穏やかな静けさがあった。

ここに来てからというもの、心は忙しく揺れ動き、喜びばかりではない日々に少し疲れている。

今はこのまま、空を眺めながら、何も考えずに過ごしたい──

そんな逃避にも似た、ささやかな安らぎを、浦野先生は確かに望んでいた。


「ふわあ~・・・」


浦野先生の口から、思わず欠伸が漏れた。

昨夜はホッカルや津楽と夜遅くまで語り合っていたせいで、どうにも”寝不足”だ。


自分の部屋まで戻る気力も湧かない。

彼女はガラス越しの異様な風景に背を向け、待合スペースの椅子へと腰を下ろした。

冷たい黒のベンチに体を預け、目を閉じる──

数秒も経たないうちに、意識はゆっくりと闇へ沈んでいった。


──”夢”の中。


彼女は高校の制服を着て、教室の窓際に立っていた。

懐かしい光景。夕暮れに染まる校舎、友人たちの笑い声。

そして──担任として現れるホッカル。


病衣の寝たきり姿はそこになく、

代わりに教師らしくワイシャツとネクタイをまとい、

大人の色気を醸し出す元気な体で、穏やかなまなざしをこちらに向けていた。

不自然なはずのこの設定も、夢の中では何ひとつ違和感がなかった。

懐かしいクラスメイトと並んで立つホッカルは、

まるでずっとそこにいたかのように、浦野先生の記憶と混ざり合っていた。


彼女の”好き”なもので満たされた、心地よい”理想の風景”。

現実ではありえないシーン──だけれど、”夢”とはそういうものだ。


これは彼女の中で、最近出会ったばかりのはずのホッカルが、すでに大きな存在になっている証に他ならない。


ぽんぽん、と軽やかな音が肩に触れる。

その感触に導かれるように、浦野先生はゆっくりと目を覚ました。


「おはようございます、浦野様。私、ただいま戻ってまいりましたわ」


やわらかな声とともに目の前に立っていたのは、お嬢様だった。


「あっ、三本松さん・・・お帰りなさい。お疲れ様です」


「ぐっすりとお休みになられていましたわね。浦野様の気持ちよさそうな寝顔を見て、癒されましたわ」


訪問リハビリテーションの出張から、この自殺防止医院へ帰ってきたばかりの彼女は、

いつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべている。


「・・・”マヌケな顔”を見られてたんですね。ちょっと恥ずかしいです」


「マヌケだなんて、とんでもない。まるで”人形”のように、とても”綺麗なお顔”でしたことよ。

その美しさに、しばらく見惚れてしまいましたわ」


「えっ、そうですか・・・お世辞でも、そう言ってくださるのは救いです・・・」


自分への”褒め言葉”に少したじろぎながら視線を泳がせ、ふとロビーの時計に目をやる。

針はすでに正午を回っていた。


「もうこんな時間・・・数十分だけのつもりが、何時間も寝てしまったみたいですね」


言いながら、浦野先生は話題を切り替えようと声の調子を整えた。


「・・・お部屋に戻りましょうか。今週の”ジャンプ”も持ち帰ってきましたし」


お嬢様はかばんから”USBメモリ”を取り出して見せた。

ホッカルが一週間限定でレンタル契約している電子版「週刊少年ジャンプ」のデータがそこに収められている。

これをこの自殺防止医院の”共有フォルダ”にアップロードすれば、

転生待機室の住民たちが皆で”ジャンプ”を楽しむことができる。


「はい、楽しみです」


「読み終えたら、またホッカル様を交えて、”感想”を語り合いましょう」


浦野先生は椅子から立ち上がり、お嬢様と並んで歩き出した。

その背を照らす蛍光灯の光が、ふたりの足元に優しく影を落とす。

廊下へ踏み出す直前、浦野先生はほんの一瞬だけ振り返り、ガラス越しの冥界の空を見つめた。


──赤い空、蠢く黒。

ここは、数多の絶望が淀む地獄。それでも、”ホッカル”がいて、”ジャンプ”がある。

”愛しきもの”たちが確かにここにある――それは、あらゆる薬よりも、心に”生気”を与えてくれる。


この先の生活で、それらを大切にしていこう。

そう思えたとき、病棟内の照明は、いつもよりほんの少しだけ暖かく見えた。


「私からも、”お土産”がありますの」


「お土産・・・それは一体?」


「実は、私個人で『美術手帖』を借りてきましたの。読み終えたら、浦野様にもぜひお貸ししたくて」


「いいんですか!?でも、三本松さんがご自分で働いたお金で借りたんでしょう?」


「そんなこと、気になさらないでくださいませ。同じ”芸術を愛する者”としての、よしみですもの」


ふたりの話し声が、通路に明るく、やわらかく響き続けていた──。

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