五章 人間果実園
呪いの発生から一週間の時間が過ぎた。
それを目安に一つの変化が起き、状況が次の段階へと変貌した事を伝えていた。
木は重さに耐えかねたように、重力に従い枝を枝垂れさせた。
その光景はまるで藤の花の様な有様であった。
だがその枝の一つ一つには複数の人が連なり、はじけた腹からこぼれた内臓がまるで簾の様に垂れ下がっている。
そこから鬼灯の様に弾けた実が地面に叩きつけられる。
その木の歪さは、そこから排除された者達であっても目を背けたい代物であった。
あたりに漂うのは、内臓から下たる液体の異臭が主であり、むせかえる様な匂いに生理的な嫌悪感と共に、吐き気が何度もぶり返す。
だがそんな匂いも三日もあれば慣れてしまうが、一向に慣れないのは意味もなく自分たちの手が届く範囲にまで枝が垂れてきた事だ。
心が折れていても真っ当な善性を持つ者達は、助けられるものは助けようと手を伸ばすが、下手に枝から切り離そうとすれば、既に欠損した部分から血が流れ、文字通り腕を引き千切られたかのような痛みに彼らは悲鳴を上げた。
ふざけるなと、誰かが叫んだ。
英雄であった男の名前を叫んで、お前はここまでするのかと、なぜ私たちを追い詰めるのだと。
だが返答などがある訳がない。返答の代わりに悪意だけは現実に寄って雄弁に語られる。
樹から捕らわれた人を簡単に切り離させると言うのに、離した途端に腹を裂かれた者達であっても、耐えきれない痛みによって悶え苦しむ。
だがそれ以上に異質であったのは、まるで願うように切り離された体を捩りながら、樹に近付こうとする光景だろう。
その自分自身ですら止められない有様に殺してと泣き叫ぶ彼らの姿を見て、どこまでも呪いが醜悪である事を教えらえた。
どれほどの出血を経ても、彼らは死なない。
痛みではなく、まるで本能的な欲求のように彼らは樹に繋がれることを求めてしまう。ここから離れたくないと無意識にでも思っているかのように。
それがあまりにも自分の心を乖離した症状であり、そんな自分を停止させようと殺してくれと泣き叫ぶ。
しかしどれほど死を願っても、心臓を潰そうが首を切り落とそうが、この呪いの中では死と言う選択肢は彼らには与えられない。
頭を踏みつぶし砕いたところで意味がない。
それがなかったかのように、彼らは瞬く間に死を消されてしまう。
絶望が叫び声となって響いた。
お願いだからと何度も、何度もを死を願う者は、首を折られ、頭を潰され、なんども致命的な身体の損壊を受けても意味は無く、殺してと、殺してと、希望を口にしながら最後には樹に連れて行ってと願って狂った。
いや無意識にでもその言葉が出てしまった事実にこそ、彼らは狂ったと言うべきだろう。
この呪いは身体よりも心を砕く。
それは一種の中毒症状にすら似ている。壊れていく人間を切り離しても無駄だと諦めた人は、また同じように樹に人を取り付けた。
だがそれと同時に無理矢理に正気に戻らされ、膨れ始めた腹よりも、樹につるされる安堵を喜んだ事実に悲鳴を上げる。
心と体が樹に依存する。生きていると言うのに、生きているだけと言う苦痛が悲鳴になる。
だからこそ何度も叫び声をあげる。
何度も死ねない事実を拒絶して殺してくれと願う。
この呪いはどこまでも心を壊す。
希望と言う言葉が死に変わり、ついには生まれるだけの子供に死ねると言うだけで嫉妬する様になる。
死ねるのだから羨ましいと、永久を生きる存在の苦悩ともいえる時間による自壊の様に、生きている事を希望と唱える事は誰も出来ない。
時間が心を壊すように、呪いはただ呪いであるがゆえに彼らを壊す。
この呪い供物は生存以外の生命活動への凌辱と言ってもいい。
そもそもの生き続けるのなら、次は無くていい。
本来必要な種としての生存と存続に掛かる資源に価値は無くなる。だが彼らは生きようとする生物の機能を失う事は無い。
故に消費は消えず、次は腹からひり出される。
ならば次の悪意は誰でも理解が出来る。
それは内臓によって作り出された、臓物の果実園。そこから腐って落ちる果実は、彼らにとってどういう代物なのか、木に実ったのは赤い赤い禁断の果実。
もっともいくら口にしても死にはしないが、心だけは淡々と殺されていくだろう。
その上で答えれるもがいるなら答えてほしい。
飢餓と言う物を経験した人はいるだろうか?
この現代においてよほどの事が起きなければ有り得ない事象であり、起こり得ないと言っても差し支えない経験だ。
喉の渇きを経験した事はあるだろうか、それが続くことの苦痛を知っている者はいるだろうか。
その二つは、人を獣に貶めるには簡単な方法だ。
飢えと渇きを耐えられる人間はいない。片方だけですらも不可能に近いのに、二つ合わせれば貪食の獣と言っても過言ではない代物が出来上がる。
膨大な飢餓と言う衝動は、理性と言う人類が獣を超克する為の理屈を上塗りす事を目的としている。
最初はまだ押さえつける事が可能な代物だ。
だがはっきりと言えば、食欲は薬物と同等かそれ以上の衝動を人間に与える。
その為ならば何でもするという領域に、人を貶める事が可能な代物だ。
最初は痛みが始まる。
内臓から当たり前の衝動が痛みとなって、最初は緩く、中期には苛烈に、そして後期には何も感じなくなる。
そのあたりに来れば意識の混濁など、死への道を進むだけしかできない。
当たり前の事であるが、食べるとはあまりにも薄気味が悪い行為である。
一つの生命が死を迎えるまでに、累計する命の消費は余りにも多すぎる。
生きると変えてもいい行為だが、その為にどれほど命を奪うだろうか、その行為の累積を考えた時に虐殺ではないと否定するには殺し過ぎる。
そこに好き嫌いが加わるのだ。ただ数字だけを見るなら、殺すだけ殺した後に行う命の選別行為でしかない。
この現代となっては、食べる事への選択まで可能とする時代となったが、元来それは他者の命を奪ってでも手に入れようとする程に希少な物であったともいえるのだ。
それがないために人は死に、それを手に入れるためにこそ人は死んだ。
当たり前の事のようであるが、このためにこそ人は戦争を始めたとすら言える。
本来最も基本でありながら、何かを命を奪う事でしか成立しない行為。
故に人が生きて死ぬ間に、どいつもこいつも当然の様に虐殺者と汚名をつけられた所で、誰一人として否定の出来ない命を消費しているのだ。
それが何かを食べるという行為である。
だが喜ぶといい。この呪いの中ではその様な行為は一切必要ない。
なぜならば死が無いのだ。頭を潰そうとも、心臓を貫こうとも、人は死ぬ事などは起こりえない。
そして絶望するしかない。
先程も語ったことだ、消費は消えないのである。
なぜなら、死が消えただけで、人は己が獣の本質を塗り替えたわけではない。
飢餓はある。人には生きる為の機能が残されている。
ただ消費するだけの獣の本質は何一つとして変わってなどいないのだ。
死なないのであれば何かを殺して消費する理由があるだろうか。
それを資源の無駄と言うのである。
だがそれでも彼らは人を辞められない。死を超越した獣になどなれる訳がない。
食べる事が可能な物なら虫だろうと何だろう口に入れるようになり、必死に命の為に必死にあがく。
そこに行くまでの過程をこの世の地獄と言うのである。
あとは体が動かなくなって終わっていく。動く為の力すらなくなっていくのが飢餓と言うものだからだ。
ここに誤差が起こる。
彼らは死ねなずに、飢餓は続くという意味の悪辣さが分かるだろう。
それは中毒になった人間とほとんど変わらない。
その為なら手段を選ばなくなるほど人間は壊れる。死ねるならまだ尊厳が保たれるが、この呪いを生み出した男がなぜ老人と子供を外したかだ。
呪いに慈悲なんぞがある訳がない。
子供と老人、いやそれは別に子供と大人ですら変わらないが、これは言い訳であり免罪符である。
餓えて苦しむ子供を見て何かをしてやろうとする大人が居ないとは言わない。
しかしそんな状況下でも彼らは罪悪感を簡単に拭う事などできない。果たしてこれでいいのかと、最初に語った理屈の一つだ。
ここには人以外は存在しない。
ありとあらゆる生物と植物は贄となって消え果た。
ここで飢餓を満たせる方法は一つしかない。
下劣はどこまでの下を行く。
愚劣はどこまでも底抜く。
だがそれをなしていいのかと、ましてや子供の為にそれを行わなければならないのかと、それ以前にこれをありとすることを認められるのか、まともな倫理観があればあるほどその手は止まる。
最初は雨の様に垂れていた母乳を飲めばいいと思ったが、当然の様にそれは枯渇して飲むものを選別し始めた。
理性と言う葛藤が必死に、だめだと何度も口にする。
だが理性の虚飾は本能に覆される。所詮は獣の根幹を覆す事が出来るように人は出来ていない。
それでもましな結果を作ろうと、ウサギが火に飛び込むように自分を差し出した者がいた。
しかし呪いはどこまでも追い詰める。
彼らを傷付けない様にと、防壁が張られるようになった。
ならばと腕を切り落として、それを与えようと考えた者は、激痛に耐えながらも切り落とした結果は腕は地面に残る間もなく消え失せ新しい腕が生えていた。
それにひきつる声を出したのは誰だっただろうか。
子供は死ななくても衰弱して泣きわめく力を失っている。ただ地面に横たわりながら目をうつろに指摘を見ているだけだ。
だがぶら下がる果実も変わらず、残された手段にまた彼らは絶望する。
樹の頂点に存在し呪いを振りまき彼らを追い詰めるものに罵倒の限りを尽くすが、ただ笑いながら彼は言うだけだ。
それこそが望みである。
これは人類を救う為の救済の方法である。
しかしそれでも誰がこんなものを認めるのだろう。
だから泣き叫ぶだけ泣き叫ばなくてはならない。
ここにいたって一つの事実が突き付けられるのだ。
この呪いは発生段階の人類しか救わないと、そしてそう言った存在は死ねないのだと、そして彼らを苦しめる為だけにこの呪いがあるのなら、この飢餓の苦痛を取り除く手段は一つしかないのである。
嫌な泣き声が聞こえる。
この世界で唯一死を享受できる者達の声が、彼らの首と心を締め付ける。
言い訳をどれほど重ねても、お前らが今からする行為は下劣の極みであるという。
言い訳を一つ二つと重ねても変わらない。
どう足掻いても死ねない自分達、本来とる必要もない食事の為に、本当にそれを行うのかとどうしようもない感情が溢れてくる。
だがそれでも子供たちは心を崩し、死ぬ事もできずに衰弱して死にまた生き返る事を繰り返すだろう。
それは老人であってもそうなのだろうが、自分たちが死ぬ事を享受できても、子供にそれは許されないのではないかと、葛藤が心を蝕んでいくが納得のいく解決などありはしない。
そうやって藻掻き苦しむ事を願ってこの呪いは彼らに与えられたのだ。
恨まれて当然だ。こんなもので人類は救われるというのなら、屈辱と言われても仕方がない事だ。
だが全ての人間が高潔な訳ではない。
人間がそれほどまでに高潔なら欲で何かを殺しはしない。
耐えられる苦痛と、逃れられる苦痛ならば、人はどうあっても後者を選ぶ物だ。
残念だがそこまで人に期待してはいけない。
樹より垂れた小さな果実がぶら下がって、熟したと泣き叫んでいる。
最初は誰が行ったのか分からない。もしかすると善意だったのかもしれないし、ただ苦痛から逃げるために必死だっただけかもしれない。
しかしそれはダムの決壊に似ている。
一度亀裂が入れば後は壊れるまでは簡単で、一度起きれば歯止めは聞かない。
樹と繋がった僅かな繋がりを引き千切り、泣きわめく果実の座らぬ連結点を外して静かにさせた。
だがそれでもこの呪いは悪辣さの一つ上を行く。
そうやって手折った果実は手元から消え去る。
この悪意はどこまでも続き、この悪意はどこまでも彼等を侮辱した。
お前らは欲の為に生まれた命を殺したのだと、そうやって食らおうとしたのだと、決壊したダムの水は溢れかえっているというのに、決壊させた男はその場に蹲り泣きわめく。
欲に負けた自分に、だがそれ以上に満たせなかった食欲に、そしてそのことを気付いてしまった自分自身の汚らわしさに、誰にも認められない引き金を引いてもなおごめんなさいと泣き喚くしかないのだ。
だがこれこそが後の世に残す彼の厄災の名前である。
老少の責
彼らの咎であり何に対しての責なのかすらわからなくなる地獄は、生物としては余りにも当たり前の欲求に突きつける悪意である。
本来死ぬ事がなく、生きる事が出来るというのに、それでも行う貪食の屈辱。
それは薬物とさして変わりのない侮辱だろう。しなくてもいいのにしてしまう行為、だが止められずに病み続けるどうしようもない代物。
でも、それでもだ。
彼らは負けて、欲を満たす方法を見つける。
それは至極簡単で、だが心を砕くには足りる方法だ。
「ごめんなさい」と、声が聞こえる。
「ゆるしてくれ」と、声が聞こえる。
そして最後に「美味しいね」と、子供が笑った。
所詮顛末はこの程度、生きながら死なないように死なない様に赤子を食らう獣が現れ。
美味しかったと、満足する事実に絶望を遠吠えの様に吐き散らかす哀れな人間が、言い訳と後悔に舌鼓を打つ光景が誕生する。
その光景を見て泣き叫ぶ親の声などきっと彼等には届きもしないのだろう。
人類を追い詰めながら、それでも魔王と言う存在を殺す為の呪いは、こんな地獄から作り出される。
だが足りない。彼はもっと絶望しなければならない。そして無駄に命を消費し続けなくてはならない。
ただそれだけが魔王を殺す手段だからだ。
それでも、それでもだ、今飢えに飢えた者達はそのお題目すら忘れているだろう。
その事実すら忘れているだろう。
ただ今だけは、人と言う獣の形のままに心の底から「美味しい」と、ありとあらゆる後悔を重ねながら、食欲を満たす事だけを考えていた。
理性が戻った時の絶望など忘れて。