二章 救世の嘘
三廃主八手支母と言うのはよくある神話の創生神である。
それも再殺者の故郷、地元山脈の蛇囃族に伝わる創生に纏わる三母神の一柱であり地母神であった存在だ。
世界を作り、暗闇から光を、そして生命が立つ場所を、基本的にではあるがその神話はこの世界ではほぼ共通の神話として語り継がれる代物ではある。
形や名前は教えが違うにしろだ。
結果として人が住む領域に母と言う文字が加えられ、この南大陸も南大母と呼ばれるようになる。
この世界において地母神とは、人類や生命を守る女神とされ、もっとも強い信仰をもつ存在である。
世界は人が住まう領域ではなく、大地こそ声明に与えられた領域であると、結果としてこの世界の根幹には大地信仰に近い宗教が根付いている。
名前は教えその他色々なものが違ってもなお、そう言う物であると感覚的に人々は考えている
故に、この神話を知らなくても人類にとってはある種の共通認識であり、彼が行ったのはその事実を知っているからこその齟齬を操った代物だ。
なぜならある種の認識があり、教えが違うなら、それは世界中が見ている状況での認識の誤差である。
最もそんな説明には特に価値は無い。
問題は世界中が彼の手を見てしまった事実だ。あふれかえる塞がれた目を持つ手は、容易く大地を腐らせる、流れる水を清流から汚濁へと変貌させ、戦勝の凱旋その結末により人類の生存圏は腐り落ちた。
際限なく湧き出る手は、ただ人の生存圏を腐らせ続ける。
後の世界で三千年後すらも、命に対するすべての糧がここでは腐り果てる。
だがそれだけでは許されない。
そては人類を抱いた。魔物の進行を防ぐように、その腕は人類の生存圏だけを覆い尽くしたのだ。
ここで生きているのは人間だけ、他の命の全てが死に腐り果てていく。
その光景がまさに眼前に溢れかえっていた。
魔王の討滅からわずか一週間、もっと言うなら英雄はたった数分で、人類からありとあらゆる食料を奪い去った。
生きる最低限も、魔物に殺されるという救いすら、起きた事実を認識する間もなく彼は消し去った。
状況はすでに終わった所から始まっている。
こうなるように彼は動いていたし、何かをさせるような状況を作らない為の戦い方であったのだ。
救世の嘘、そう呼ばれ人類の心を折った最大の理由。
生きる手段を最初に奪った事ではない。
そもそもまだ始まってもいない。彼が作り上げた起点としての地母神の権能は、簡単に言えば生贄を消費し続ける呪いのようなものだ。
しかしそれより鮮烈だったのは、その手より剣が現れた事であったのだろう。
彼と剣それは敵にするには、彼らは力を知りすぎている。
まだ状況を理解できていない手の権能よりも、人類はそちらが恐ろしい。
この状況を理解した者たちの行動は早い。
だがその判断は全て間違っていたのだろう。彼らはきっと逃げ出すべきであった、だが彼を知りすぎているからこそ、剣と言う脅威を見れば死が撒き散らされると判断し抵抗を選んでしまった。
だが彼らと彼では、生きていた領域が違う。
指導者となり力を落とさなかったでは、戦い続けてきた彼とは本質を違えている。
それすら彼が想定した動きの中の代物ではあるのだ。
彼らを逃がせば、人類は抵抗を可能としてしまう。
そんな事を起こさせる余分な時間は存在しない。
だからこそ、わかりやすく凶器を見せた。
残念な事にその手に握られた剣は、ただのまがい物で人さえ切れない代物だ。
彼を知っているからこそ過敏に反応する。
彼らは想定通りに動いてくれた。
「そうだとも、君らはそうなるだろう。だがな、それは指導者が選ぶ選択肢ではないだろう」
彼らは遅いのだ。確かに人知を超える速さで動いた。
そこにいる残骸は、その程度の領域には存在しやしない。
彼は最前線で戦い続けてきた、最新の魔王殺しの意味を履き違えている。
目が見えない。両腕が欠損している。それの程度と言えるからこそ、彼は魔王殺しなのだ。
彼を殺すべく振るわれる全てが、起こりの時点で止められ、溢れ返る手が四肢を腐らせ奪い去った。
「止めるには十年遅い。行動するには君たちは遅すぎるのだ」
鈍く粘性を伴った音が地面に響く。
同時に四肢を失った体は容易く地面へ転がるしかない。
音の聞こえる場所に彼は体を向けながら、安心させるように声をかける。
「気にするな。殺すつもりはない、生きてもらわなければ絶望の濃度が薄くなる」
地面に転がる彼らに最低限の注意を払うが、なにもないはずの彼は全ての存在に抵抗すらさせる事すら無い。
転がる彼らは、これは何だと驚愕する。目の前にいる男に負けた事ではなく、その言葉の意味に驚愕してのものだ。
再殺者とは本来直情的な人物であり、指導者になるにはあまりにも衝動的な人物であり、旗頭にはなれても頭脳にはなれなかった存在だ。
思考よりも直観、だが今の彼はどう考えてもその姿すらない。
老成したとしても、それでもあまりにも認識と存在が違い過ぎるのだ。
「君等の驚愕は当然か、私を知るのなら当然そう思うだろう。だが不思議でも何でもないのだ。私のような武辺者が、策を弄するのならば一番必要ないものは無益な感情だろう。
早々に生まれた娘と供物にして処理している。あとは君等を欺く為に行った騙りでしかない」
あまりにも自然に人を生贄にし過ぎであるが、彼はここまでしなければ魔王に勝てないと判断したのだろう。
十年以上の歳月の中で魔王との絶望が、こう変えたわけではないのだろう。
最初の再殺の時に、もう事は起きていたのだ。彼がこうなるに足る理由が既に存在し、そのために彼は動き続けている。
彼が説明しているのは、別に罪悪感を晴らすためでもない。
何度も言うようだが、この会話は全て人類の生存圏に伝わっている。
彼らの眼前で人類最高戦力が敵になり、その指導者が容易く敗北した。
「不思議に思うだろう。なんで自分の愚劣をわざわざ君たちに説明しているか、だがこれは私が行う事に対する君たちへ誠意だ。
これからも生きていく人々に、ただ絶望してもらうためだけに行う誠意だ」
世界に響く声、その言葉ははっきりと言えば意味がわからないでいいだろう。
こいつは一体何を言っているのだと、正気でない事だけは分かるかもしれないが、生憎と彼は正気だけしかありはしない。
そのような人間らしさでこれが行われるわけではない。
英雄は、どこまでも正気を失わないからこれを行えている。
「私は君たちを殺す事は無い。自殺などさせる事も無い。こちらが与える死の術以外を奪い去る。
生きる意味はもうない。死ぬ価値すらもう在りはしない。
よくある言葉だ。産めよ増やせよ地に満ちよ。私が願うのはただそれだけだ」
だが人はそれだけでは足りない。
その程度で人の際限が終わりになる訳がない。
それだけのために人が生きていた時代は、かつての果ての時代だ。
「既に尊厳は奪われた、生きるための最低限すら根絶やしになっている。この状態で君たちはどうするのだ、人のまま死ねる事などありえない、獣以下で死ぬことすら許されない」
これから魔王が蘇るまでの十三年間、人の尊厳は徹底的に破壊し尽くされる。
いっそ魔王が蘇って殺してくれと願う事になる時代。
生きる事を救いだと言うなら、これから先に一千三百八十万九千六百八十三人と言う彼が想定した以上の人類は死ぬ事はない。
しかし死とは、恐怖でありながら生命に許された安息である。
これ以上の苦痛はなく、これ以上の救いは残念ながらこの世にはありはしないのだ。
お願いだから殺してくれと願う時代が始まる。
生きている事が、ただ死に勝る苦痛の時代が始まる。
自殺すら許されないこの世の地獄が始まる。
「私は魔王を殺す。
君たちと言う命と絶望を消費して、魔王と言う存在を根絶させよう。
それだけは約束しよう」
だからと言う。
その男はだからと言う。
だからと人類に言う。
「絶望してくれ」
お願いだと言う。
「人として生きるには、足りない愚劣を味わってくれ」
これより始まるのは、人類を使った大呪術。
「生まれたことを喜びを後悔に変えてくれ」
人類を救うと言った男が行う供物の絶望の始まりだ。
「産む事の感謝を罵倒に変えてくれ」
堕胎の獄、それは人類をが産まれる喜びを地に落とす代物だ。
「養育の苦悩を、人の獣性で穢し続けてくれ」
それに伴う最悪の養育の始まりを老少の責と言う。
「そしてそれに抗い、人の形を保ちながら、未来の供物に成り果ててくれ」
それは大悲嘆時代の全てを通じても地獄すら生ぬるいと言われる所業。
生きている事を、ただただ苦痛に変えるだけの呪いだ。
「私はその全てを対価に魔王殺しを成し遂げるだろう。
だから絶望し続けてくれ、私を呪い続けてくれ、それだけが私が君たちに願う祈りだ」
だが魔王は殺せるのだ。
間違いなく、確実に、未来に対する保証は成り立つのだ。
それを救いなどと捉える人類はないが、それでも彼の行為は間違いなく人類を救う。
しかし認められるはずがない。
認めたくもない。
その手は全ての人類を捕らえていく。
悲鳴を上げて逃げだした全ての人類のその手は伸びていく。
だが逃げられる筈がない。逃げられるような甘い代物ではない。
この呪いに全ての人類は捧げられたのだ。
人々を捕らえた腕がまるで木の枝の様に重なり一つの大樹へと変貌する。
その腕はただ人類を選別しながら、まるで年齢で選別するように幼い子供と老人だけを開放し、それ以外の四肢を腐らせながら奪い去っていく。
これより飢餓があふれる。
だが人は死ねない。
これより人類は人口を増やし続ける。
間違いなく数字だけを見れば繫栄する。
しかし誰一人としてそれは救世などとは思わない。
誰もが彼を呪った。
そしてそれすら出来なくなった。
最後にはただ死を願うだけの存在と成り果てる。
呪いの始まり、人類を貶め続ける事で完成を迎える魔王殺しの災厄。
その枯死太歳の始まりはこのような代物だった。
「必ずだ、私は魔王殺しを成し遂げる。だからお願いだ、未来のために絶望してくれ、ただ絶望に藻掻き苦しんでくれ、君たちの絶望こそが魔王殺しへと変わるのだ」
どれほど言葉を尽くそうが、人類の全てはその行為を認めない。
まだ始まっただけであるというのに、それでも人類は彼の所業に認める事は出来ない。
魔王を殺す人類救済の術は、どんなことがあろうとも人類は認めない。
ゆえに彼が行った最悪の暴挙は、後世になろうとも認められる事はないのだ。
彼の声に絶望しながらも、何一つ抵抗できない指導者たちは、手に捕らわれながらその大樹を見る。
ああと、なんでだと、声を漏らした。
それは彼の望んだ絶望の声であり、恐怖すら混じった代物だった。
達磨のようになった体を震わせながら、これから始まる地獄の前に涙する。
彼を罵るような言葉を叫ぶ者もいた。だがそれよりも、彼の言葉の一切を否定する声が響く。
「大樹、剣樹、お前は寄りにもよって何をした。それは、それだけは、お前は何で」
ああ当然だ。と、彼は笑って答えた。
当然だとも、もう一度彼らを肯定する様に答えた。
「それで人類が救われるものか、それが人類の未来を保証するものか、お前は人類で何をするつもりなのだ」
だがそれ以上の言葉は不要とばかりに、手はゆっくりと彼等の口をふさごうとする。
「救世を騙り、お前はそれで何をする」
「魔王殺し、それ以外にはない」
「嘘を、救世を騙りながらお前は、それを使って、そんなもので魔王を殺すと言うのか」
だがある言葉を使うまで、彼は声を止めさせる気もない。
絶望の種はいくらあっても事足りない。
「お前は魔王を使って、我らを使って何」
最後まで言わせる必要もない。世界に響いた声は確かにそれを伝えた。
その大樹の姿こそ、彼が何度も打倒した魔王の姿である。
そしてそれこそが枯死太歳と呼ばれる呪いの具現化である。
人類は故に彼を信じない。ゆえに人類は絶望したのだ。
自分を捕らえ、自分で何かをしようとする手によって積み重なった木のような存在。
その姿を、その意味を、声で伝えられれば絶望しないはずがない。
それは呪いを起動させただけの始まりであり、彼が行った中ではまだましな所業の一つではあった。
だがその時代、最も人類を怯えさせた存在の名前が響き、最も分かりやすい絶望の名前に、捕らわれた人類は心を折るしかなかった。
だからこそ人類は彼の言葉を信じない。
彼の言葉の全てを疑うしかない。
結果ではなく、彼の言葉の全てが認められないからこそ、その所業は救世の嘘と後世に伝えられるのだ。