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小仙奇譚  作者: 平井みね
第二章
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囚われの身・七

 それを聞いてどうする、という言葉が、ぽっと出そうになったものの、ぐっと抑えこむ。約束した以上、質問に答えなければ筋が通らない。

 楊鷹(ようおう)はおもむろに口を開くと、素直に言った。


「……特別、裕福とは言えなかったが、食べ物や家に困ることもなかった。本当に、穏やかに暮らしていた。月蓉げつようも家に馴染んでくれて、母上とは本当の母娘(おやこ)のように仲が良かった」


 答えながら、都での暮らしを思い出す。

 武官の務めは、決して楽なものではなかった。嫌なことも多々あった、もとい嫌なことの方が多かったかもしれない。

 半面、家で過ごす時間は、とても和やかだった。心底くつろぎ、仕事での嫌な出来事もすっかり忘れてしまうほど。

 母は()せっていることも少なくなかったが、調子の良いときは月蓉と一緒に料理をしたり、縫物をしたりしていた。そういうときは、二人とも楽しそうに話をしながら、手を動かしていたものだ。各地を転々としていた頃は、常にどこか緊張感を漂わせていた母だが、そんな張りつめた空気は消え、朗らかに笑うようになった。月蓉も、病身の母を助けながら、家のことをてきぱきとこなしてくれた。

 四年ほど、だろうか。振り返ってみれば一瞬とも思える儚い期間だったが、間違いなく幸せだった。おそらく、楊鷹が今まで生きてきた中で一番。甘やかな思い出の数々を、思い返せば思い返すほど、胸苦しくなってくる。

 ふいに、木蓮のふくよかな香りが、楊鷹の鼻先をかすめた。それは、どんなに焦がれても二度と得られない幻だった。花影の幻に追いすがるように、楊鷹はとうとうと語る。


「家には小さいながらも庭があって、母上はその庭にある白い木蓮が好きだった。白木蓮の花が咲くと体の調子が良くなるのか、庭に出て白い花を眺めながらお茶をしていたな。そんな母上と一緒に、俺と月蓉もよく花見をした」

「そう、そうか……。楊麗(ようれい)も穏やかに暮らせていたのだな」


 応じる毛翠(もうすい)の声は、微かに震えていた。楊鷹は赤子を見る。光が乏しい中、つぶらな緑の瞳はきらきらと、光をたたえている。どうやら、涙で潤んでいるようだ。


 ざわり、と肌が粟立つように、再び楊鷹の心が騒ぐ。どうして捨てたものに、そんなにも情を見せるのか。

 もしかして、ただ捨てたのではなく、何か理由があったのか。以前、蒼香山で一晩を過ごしたときによぎった憶測。それがまた、もやもやとまとわりついてくる。考えてはならないと、蓋をしたというのに。


 か細い雨音が響く。その音は、さめざめと泣く様を思わせた。

 泣き声だとするならば、一体誰が泣いているというのか。楊鷹の頭の中に、遠き日の光景が(よみがえ)る。冷たい朝日の中で見た、母の後ろ姿。それから、あのときに感じたやるせない気持ち。

 自然と、唇が動く。


「……なぁ、俺も一つ聞いてもいいか?」

「おう、良いぞ」


 毛翠は、快く言った。

 尋ねておきながら、楊鷹は言葉に詰まった。その詰まった言葉を飲み下すように、唾をのむ。

 明るい緑の瞳を瞬かせながら、毛翠がわずかに首をかしげる。


「どうした?」


 飲みこんだ言葉が暴れているかのように、腹の底がぞわぞわとして落ち着かない。閉ざした蓋が、がたがたと揺れている。

 楊鷹は一度唇をなめると、赤子から視線をそらす。そして、思い切って口を開いた。


「なんで、俺と母上を置いて、突然桃李虚(とうりきょ)に戻ったんだ?」


 毛翠の口から、ひゅっと鋭く息がもれた。空気が張り詰める。

 楊鷹はゆっくりと毛翠を見た。彼は相変わらず笑っていたが、先ほどまでの笑顔とは全く違う。口元も目元も強張っている、はりぼての笑顔だ。


「ああ、それは……それはだな」


 ぎこちなく唇を動かして、毛翠が答えを紡ぐ。


「その、飽きたんだ。人の世に」


 そう言う言葉尻には、笑い声が混じる。

 あんまりな答えだった。

 怒りが爆ぜる。かっとなった楊鷹は、後ろ手に壁を殴りつけた。悲惨な音が弾け、祠廟が大きく揺れる。荒ぶる激情を載せた一撃は、怒涛(どとう)のごとく。壁の一部は吹き飛んで、ぽっかりと穴が開いていた。

 楊鷹は、問いかけた。


「本気で、言ってるのか?」


 怒気に(あお)られるまま発した声は、異様に低い。

 凄味(すごみ)のある問いかけに対して、答える声はなかった。毛翠はうつむいて、黙りこくっている。身をすくめているようで、赤子の体は心なしか普段より小さく見えた。この様子、怯えているのだろうか。それとも、怒りを受け止めようという、心づもりか。

 なおも楊鷹の心は沸き立ち、その熱がじりじりと身を焦がす。


(落ち着け、落ち着け……!)


 そう言い聞かせても、まったく効かない。

 毛翠はいまだ微動だにせず、非情な答えについて釈明する様子は一切ない。ただただ、じっとしている。

 たまらず、楊鷹は毛翠めがけて拳を振り上げた。

 そのとき、祠廟(しびょう)の扉が開いた。次いで、男の大声が飛ぶ。


「お、おい、大きな音がしたが、一体なんだ!」


 楊鷹(ようおう)は、さっと扉の方に振り返る。色あせた野良着を着た小柄な男――おそらく、彼が今日の見張りだろう――が立っていた。

 腹の虫がおさまらない楊鷹は、鬼もかくやといった形相(ぎょうそう)。殺気を帯びた視線が、男を射抜く。見張りは小さな悲鳴をもらし、表情を強張らせた。

 

「お、お、お前、かっ、壁を壊しやがって。そ、そこから動くんじゃないぞ!」


 入って来たときの威勢はどこへやら。すっかり怯えた見張りの男は、すたこらと逃げ出した。よほど恐怖しているのか、扉も開けっ放しだ。

 小さくなってゆく見張りの背中を見ているうちに、楊鷹は幾分冷静になった。大の男が逃げ出したくなるほど、己はひどい顔をしているのだと気がついた。

 ゆっくりと、振りあげた拳をおろす。それから、毛翠(もうすい)のことは一切見ずに立ち上がる。

 この赤子と、同じ場所に居たくなかった。何も言わずに楊鷹は外に出ると、祠廟の扉を閉ざした。

 しかし、外に出たところで、どこも行けない。逃亡を(はか)るわけではないのだ。

 しばし、軒下で佇んだ後、楊鷹はうずくまるように座りこんだ。扉にもたれると、古びた木戸は(うめ)くように(きし)む。

 ひんやりとした空気が、肌にまとわりつく。空にはどこまでも厚い雲が広がり、薄暗い。雨が止む気配はなく、雨だれは延々と祠廟の屋根を叩いている。

 その音がやけにうるさく聞こえて、楊鷹は頭を抱えこんだ。


 胸の内では、まだ怒りがくすぶっている。どうしてこんなにも腹立たしいのか、自分でもよく分からない。

 桃李虚(とうりきょ)に戻った、という毛翠の(げん)。何も言わずに家族を捨てた、ろくでなしが言いそうな、いかにもな答えではないか。ろくでなしが最低なことを言った。それは、当たり前のことだ。それなのに、こんなにも腹立たしいのは、「もしかして」という期待が強かったからか。それもある。だが、それだけではない。楊鷹は思い至る。


(あいつは、嘘を吐いた……)


 人の世に飽きた、という毛翠の答えは嘘だ。あまりにも、しょうもない嘘である。

 人の世に飽きたならば、人間である家族にも飽きたということだろう。ゆえに、妻子をほったらかして桃李虚に戻った。毛翠は、そう言いたいに違いない。

 だが、情の途切れた妻の暮らしぶりを気にする輩など、どこにいる。飽きたくせに、どうして笑顔で妻の名を呼ぶ。

 それだけではない。

 楊鷹は見聞きしていた。北汀村(ほくていそん)に、辿りついたときのことだ。意識を失った後にようやっと目覚めたら、まず見えたのは悲痛な様子で母に対して懇願する毛翠だった。本当に飽きたというのであれば、あんな風に母に対して謝るわけがない。楊鷹が死んだら、母に、楊麗(ようれい)に顔向けができないと、言うわけがない。

 まだまだある。銭秀(せんしゅう)たち、蒼香山(そうきょうざん)の山賊を捕まえようと待ち構えていた夜に、毛翠が言い放った言葉。その言葉だって、楊鷹はまざまざと覚えている。「母上のことなど、どうでもいいのだな」と言った楊鷹に対して、「そんなことはない」と毛翠は叫んだ。あの叫びこそが、嘘だったというのだろうか。


 楊鷹は、膝に額を押しつける。なんだか、泣きたくなってきた。

 嘘を吐いたうえに、その内容もろくでもない。こんな最低な嘘でごまかせると思ったのだとしたら、()めている。無情な嘘に(まみ)れた仮初(かりそめ)の言葉は、もはや侮辱だ。己のみならず、母のことも侮辱している。毛翠は、あの母の涙を踏みにじった。散々苦労をかけて、悲しませて傷つけて、その果てにこのしょうもない嘘である。


「くそっ……」


 髪をかきむしり、楊鷹は呻く。

 変な色気を出して、尋ねたのが馬鹿だった。


(なんで、ごまかすんだ……)


 そんなことを思ったら、また「もしや」という期待がぷくりと膨らむ。もしや、何か理由があって、隠すのではないか、と。

 楊鷹は、小さくかぶりを振った。嘘を吐いてまでごまかそうとするほど、言いたくない。それが、毛翠の意思なのだ。それほど、(かたく)なな意思なのである。


(やっぱり、あいつとは深く関わらない方が良い。知らなくていいことは、知らなくていいんだ)


 楊鷹は、深く息を吸い、吐いた。腹の底にわだかまる思いをすべて出し切るつもりで、長々と吐き出す。息が途切れたとき、無性に虚しくなった。だらりと、力なく両腕を下す。

 瞬間、風向きが変わり、雨が軒下まで吹きこんだ。細かい(しずく)が、楊鷹の身体をうっすらと濡らす。それでも、楊鷹は微動だにしない。

 (うつ)ろに沈むこと、しばし。

 ふいに、雨音の向こうに足音が聞こえた。突然、死人が生き返るような勢いで、楊鷹は顔を跳ねあげた。前方に人影を認めると同時に、野太い女声が響く。


「あんた、何やってんだい!」

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