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小仙奇譚  作者: 平井みね
第二章
97/131

囚われの身・五

 乱暴な音が弾け、勢いよく扉が開く。あまりの勢いに、一瞬間祠廟(しびょう)が揺れた。楊鷹(ようおう)は、一層警戒を強める。

 現れたのは、白髪を粗雑に束ねた、大柄な女性であった。李白蓮(りはくれん)である。彼女は、手に盆を持っていた。彼女の背後では、見張りと思しき男が不機嫌そうに顔をしかめて、立ちつくしている。

 李白連は、ずかずかと祠廟に入りこむ。楊鷹の目の前まで来ると、彼女は盆を床に置いた。盆には、大きな碗が載っていた。碗の中身は(かゆ)のようで、白い湯気が立ち上っている。

 李白蓮は、ふんと鼻を鳴らすと、ぶっきらぼうに言った。


(めし)だよ」


 楊鷹は、開いた扉から外をのぞき見る。まだ明るいが、地面に伸びる見張りの影は長い。そろそろ夕暮れ時、食事の頃合いか。

 楊鷹はじっと粥を見つめた。淡黄色のとろみに包まれた粒は、麦だろうか。一見、これといってなんの変哲もない、粥である。

 毛翠(もうすい)は、早々にじゅるりとよだれをすすっている。だが、楊鷹は見つめるだけで、触ろうとしなかった。

 先ほど、剣を渡そうとした時と同じく、楊鷹の胸の内に疑心がよぎる。 

 北汀村(ほくていそん)の人々を信じたい。そして信じてもらいたい。ならば、この粥にも手をつけるべきだろう。顔役の老人は、閉じ込める以上の危害は加えないと、約束してくれた。だが、どうにもすんなりと手は動かない。

 慧牙(けいが)の術中に、はまろうとしている。楊鷹は気を取り直すと、李白蓮へと視線を向ける。不機嫌そうに細められた双眸をまっすぐ見返し、拱手(こうしゅ)の礼をした。


「わざわざ、ありがとうございます」


 李白蓮は舌打ちをすると、勢いよく立ち上がった。それから、楊鷹の方は一切見ずに、入ってきた時と同じ荒々しい足並みで、さっさと祠廟から出て行ってしまった。

 荒っぽく扉が閉まる。再び派手な音が響く。その残響が途切れるまで、楊鷹は扉を注視していた。


「……変なにおいはしないぞ」


 こそこそとした声音が聞こえて、楊鷹は振り返った。

 毛翠が、碗をのぞき込み、しきりににおいを嗅いでいた。まるで、犬のようである。


「良いにおい、食べ物のにおいだ。毒だとかそういうものは、入っていないんじゃないか?」


 毛翠が顔を上げ、はつらつと瞳を輝かせた。

 楊鷹も碗を持ち上げ、鼻を寄せてみる。確かに、変なにおいはしない。ほのかな甘い香りが、鼻をくすぐる。

 楊鷹は、そっと碗を盆に戻した。それから、(さじ)で一度大きくかき混ぜてみる。ふわりと白い湯気が広がり、粥の中から白っぽい鱗片(りんぺん)のようなものが現れた。一瞬異物かと思ったが、よくよく目を凝らして見てみれば、なんてことはない。ゆり根であった。


「うむ、なかなか美味そうではないか」


 毛翠が声を弾ませる。


「これは食える。間違いない。だから、早く食おう」


 先ほど、村人に剣を渡そうとしたら、毛翠は批難した。その割には、眼前の粥に対して不用心だ。今度は彼の方が、馬鹿正直者になってやしないか。

 楊鷹は、じろりと毛翠を見た。


「随分な自信だな?」

「おう。わし、鼻の良さには自信があるぞ。特に食い物のにおいに関しては、間違いがない。山道で慧牙が飲ませようとした酒に、変なものが入っているのも分かった」


 そういうと、毛翠は得意げに鼻先をつんと上に向けた。

 楊鷹は思い出す。確かに、酒売りに化けた慧牙が酒を差し出してきたとき、毛翠はしきりに楊鷹の背中を引っ搔いていた。あれは、普通の酒ではないと、知らせようとしていたのか。

 どうやら、毛翠は相当鼻が鋭いらしい。それこそ、本当に犬のようである。

 ぐう、と毛翠の腹が盛大に鳴った。


「わしは食うぞ」


 楊鷹は、碗の中身を見た。柔らかそうな麦粥と、その合間に覗くゆり根。粥のとろりとした口当たりと、ゆり根はほくほくとした触感を、思い浮かべる。湯気はいまだ絶えずに立ち上り、ほのかな甘い香りが鼻をくすぐる。楊鷹の腹も、ぐるる、と小さくうなった。

 期日までは十日余り。まるで食べなくても死にはしないだろうが、体力はそうとう()げるに違いない。期日の時とは、すなわち決戦の時でもある。戦うための力が無くなってしまっては、困る。

 村人たちと己と。それぞれに疑心を捨てきれない中での一挙手一投足は、すべてが賭けのようなものであろう。考えたところで、確証など得られない。ならば、もう考えるのはやめて、本能に従ってしまおう。腹が減った。だから食う。仮に毒が入っていたとしても、幸いにも人より頑丈な身、そうそう死にはしないだろう。

 楊鷹は匙を手に取る。


「よし、それじゃあ半分こだな。先に食え」


 なかなかに大きな碗であるが、毛翠は半分食べるつもりらしい。相変わらず大食いである。

 楊鷹は少々呆れつつも「ああ」と頷いて、粥をすくった。



※※※



 雨が、降っている。薄絹の上で玉を転がしているような、(かす)けき雨音は絶え間ない。

 空気は湿気ているが、あまり暑くはないので、さほど不快ではなかった。夏を洗い流すような、雨である。古ぼけた祠廟(しびょう)に閉じこめられている間に、夏は去ろうとしていた。

 陽の光が無いため、祠廟の中は常に薄暗い。時間の感覚が、分からなくなってくる。もう、昼は過ぎただろうか。

 楊鷹(ようおう)は、祭壇の脇の壁に視線をやった。そこには、細い刀傷が八つ、刻まれていた。この祠廟に閉じこめられて以降、毎日眠る前に楊鷹自ら剣で刻んだものである。


 囚われの身となってから、八日が過ぎた。

 この間、閉じこめられている以外には、これといって目立つ出来事はなかった。今のところ、北汀村(ほくていそん)の人々は、約束を守ってくれていた。また、食事を運んできた村人に話を聞いたところ、村に神仙がやって来たことも無いようだった。

 食事が運ばれてきたら食べ、神仙に対する策を()り、暗くなってきたらさっさと寝る。概ねその繰り返し。平穏と言っても、良いほどだった。慧牙(けいが)からしてみれば、退屈なのだろうが。

 このまま何事もなく、月蓉(げつよう)たちが王嘉(おうか)と共に戻って来れば、活路は大きく開ける。そう信じていた楊鷹であったが、ここに来て、まさしく暗雲が垂れこめてしまった。

 雨は一昨日から降り始め、未だにやまない。いつしか雨粒は祠廟の屋根の(すみ)を貫いて天井を濡らし、室内にまで滴っている。雨足は決して強くはないものの、どうにもしつこそうな霖雨(りんう)であった。

 旅人にとって、雨は厄介者だ。濡れた道は、悪路となろう。雨風が強まり荒天となれば、先に進むこともままならず、道行(みちゆき)は滞る。

 月蓉たちは、今どこを歩いているだろう。旅が順調に進んでいるならば、すでに王嘉に出会い、一路北汀村を目指して進んでいるはずだ。

 もしも今、彼女たちがいる場所でも雨が降っているならば、その歩みに支障が出ているかもしれない。


 楊鷹はうつむいた。

 閉じ込められて八日、平穏とはいえ、さすがに気が滅入ってくる。加えて、この雨である。どうしたって、焦燥感や不安が募ってしまう。

 追い打ちとばかりに、さらに気落ちする出来事がもう一つ。荘炎魏(そうえんぎ)を打ち負かすための策を、ひたすらに――気は進まずとも、時に毛翠(もうすい)に質問しながら――考え巡らせた。結果、その方策は、徐々に整ってきた。けれども、その策が実際に実行できるものなのかは分からない。単なる空論では、役立たず。ゆえに、外に出て下調べをする必要があった。そこで、楊鷹は今朝食事を持ってきた村人に頼み込んだのだ。「神仙との戦いに備えるため、外に出してくれないか」と。ところが、村人は冷たくあしらうばかりで、まるで取り合ってくれなかった。


 動きたいのに動けない。そんなもどかしさもあった。何もできないのが、辛い。じわじわと追いつめられているようで、落ち着かない。

 楊鷹は深々と息を吐くと、足を組んで姿勢を正した。そして、目を閉じる。


(いかなるときも、平常心……)


 一度母の教えを念じると、それからは頭を空っぽにして、ただただ己の呼吸に集中した。息を吸って、吐く。静かに、それだけを繰り返す。次第に雨音が遠のく。現実から切り離されて、どこか深い場所に潜ってゆくような感覚に陥る。

 月蓉たちは、王嘉と共に期日内に戻って来てくれるのか。

 王嘉を得たとしても、荘炎魏らに敵うのか。

 潜れば潜るほど、そんな不安や焦りも消えてゆく。一面、鏡のように滑らかな水面が、まぶたの裏に広がる。

 楊鷹はゆっくりと目を開けて、一息ついた。雨はまだ降っている。しかし、心は澄み切っていた。

 できることを、できる範囲でやるしかない。

 せめて体がなまらないようにと、楊鷹は節々を伸ばした。それから、立ち上がって、母直伝の套路(とうろ)(中国武術の一連の動作。日本武術の型のようなもの)を練り始める。

 あまり音を立てると、祭壇のそばで寝ている毛翠を起こしてしまいそうだ。それだけなく、見張りにあらぬ誤解を与えてしまう可能性もある。それならばと、いっそ音を立てないようにやってみることにした。

 頭の先からつま先まで、己の体のすべてに注力しながら、手足を動かす。風のようにゆるやかに、なだらかに。ときに鋭く吹きつけたとしても、風は風。決して力んではならない。

 とめどない雨音の中、風は寂寂(じゃくじゃく)と音もなく舞う。

 いつの間にか、寝ていたはずの毛翠が起きていた。うつぶせに寝転がったままだが、彼は緑の瞳をらんらんと輝かせ、一心に楊鷹を見つめている。

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