囚われの身・二
嫌な予感を覚えつつも、楊鷹は歩き出した。足の向きを変えることなく、牌楼の方に真っ直ぐ進む。
ここで逃げてしまっては、怪しまれる。彼らの信頼を得ようというならば、敵だと思うなかれ。怯えも弱気も無用の長物、堂々と虎穴に入ってゆけばよい。
「あっ!」
人だかりの中から声が上がった。一人の若者が楊鷹に気がつき、指を突きつける。
「いたぞ!」
若者が叫ぶと、男たちが一斉に楊鷹に振り向いた。
楊鷹は立ち止まり、一礼する。
先ほど、村人らは月蓉を殴り、怒鳴りつけていた。そのため、ついつい楊鷹の方も乱暴な物言いになってしまった。だが、今は違った。こちらの誠意を見せるためにも、丁重な態度で接する必要があった。親しき仲にも礼儀あり。親しくないのであれば、なおさらである。彼らは決して敵ではない。むしろ、味方となってもらいたい。
楊鷹がゆっくり顔を上げると、村人たちは少し驚いたようにぽかんとした表情を浮かべていた。一拍の間の後、指を突きつけた若者が上ずった声で言った。
「て、てめぇ、逃げようとしたな」
いたく冷静に、楊鷹は思う。
(やっぱり、そうなるのか)
黙って北汀村を出てきたのは、やはり悪手であった。しかし、誰かに声をかけていたら村から出してもらえなかっただろう。どうしようもなかった。
楊鷹は、もう一度頭を下げた。
「断りもせずに、村を出て申し訳ありませんでした。ですが、逃げたのではありません。逃げたのなら、こうしてあなたたちの前に出てきません」
決して焦らず、荒らげす。緩やかな流れの清水のように、滔々と言葉を紡ぐ。
まったく動じない楊鷹の様子に怖気づいたのか、村人たちは黙ってしまった。楊鷹と村人たち、両者はしばらく無言のまま、じっと視線を交わす。
夏の日差しが、地面に色濃い人影を描いている。どの影も、膠でぴったりとくっつけてしまったかのように、微動だにしない。水辺で餌の取り合いでもしているのだろう。遠くで鷺が、けたたましく鳴き叫ぶ。
その不穏な鳴き声が合図となった。人影の一つが、揺らぐ。
じゃり、じゃり、と歪な足音を立てながら、一人の老人が進み出る。あの、顔役の老人であった。足の悪い彼も、わざわざ探しにやってきたらしい。それだけ、彼らも必死なのである。
「確かに、貴方の言う通り。逃げたのであれば、こうして我らの前に現れませんでしょう。ですが、勝手にいなくなられるのも困るのです」
「申し訳ありませんでした」
どこか疲れたような、しゃがれ声の老人に対して、楊鷹は礼を繰り返す。赤子を抱いている都合、拱手ができないのが少しもどかしい。
老人が、ふうと嘆息した。
「中には、動けないように足を折っておけ、と言う者もおります」
楊鷹はどきりとした。同時に、毛翠が息を呑む気配がする。そのまま彼は、腕の中でむずむずうごめきはじめる。そのせわしない小さな体を押さえつけながら、楊鷹は言った。
「私は逃げません。貴方たちを見捨てるような真似もいたしません。必ず、あの慧牙という者たちと戦い、彼らをこの地から退けます」
揺るぎない声を朗々と響かせて、楊鷹は目の前の老人を真っ直ぐ見つめた。老人はつと目をそらし、せわしなく自身の手を揉みしだく。
楊鷹はそこに迷いを見て取った。少なくとも、彼はあまり手荒なやり方はしたくないのではなかろうか。楊鷹はその場に膝をついた。
「もう、北汀村からは出ていきません。万が一にも出掛けるときは、必ずお声がけします。ですから、万全の状態で彼らに挑めるよう、協力していただけないでしょうか。どうか、お願いします」
叩頭とまではいかないものの、赤子を抱いた状態で出来得る限り頭を低く下げる。何度だって、村人たちが納得するまで、楊鷹は拝礼するつもりだ。
老人は、何も言わない。そんな彼にしびれを切らしたのか、背後の人々が「信じられるか!」「嘘つけ!」などと口々に叫んだ。
それでも、楊鷹は一切動じない。おもむろに頭を上げると、堂々と人々を見渡した。
「くそっ、生意気な奴め! お前だって人間じゃないんだろう!!」
先ほどの鷺の鳴き声に似た、荒々しい声が響く。途端、村人たちの中から、一人の若者が躍り出る。すっかり気色ばんだ様子の彼は、楊鷹めがけて突っ込んでゆく。
力でねじ伏せるような真似は避けたい。そんな思いが迷いとなり、楊鷹はどうすればいいか分からなくなる。そのとき、腕に鋭い痛みが走った。毛翠がつねったのだ。
楊鷹は一つ舌打ちをすると、さっと立ち上がり半身をひねる。その変わり身はまさしく電光石火、若者の突進はものの見事に空ぶった。しかし、彼はぱっと体を翻すと、再び楊鷹に向かって跳びかかる。眼前に伸びてきた若者の手を、楊鷹は片手ではっしとつかむと、ひねり上げた。
次いで、楊鷹はさっと周囲に視線を走らせる。加勢と思しき男が二人、飛び出してくる。そちらの男たちの方に振り向いた楊鷹は、捕らえた若者を盾のように自身の体の前に突き出した。男たちの動きが止まり、地団駄を踏む。
楊鷹は言った。
「貴方たちが力ずくで事に及ぶなら、こちらも相応の手に出ます。ただ、私としては、手荒な真似はしたくありません」
最後の言葉は本心だ。威圧するつもりもない。それでも、自然と声は低くなる。響きはまるで、うそぶいている。
若者が苦しそうにうめいた。二人の男は拳を固め、楊鷹をにらみつける。楊鷹は歯噛みした。
「やめろ」
重々しい叱責の声が響き、二人の男ははっと振り返った。声の主は老人であった。彼は振り向いた男たちに近づくと、追い払うように片手を振る。
「やめろ、下がれ」
もう一度老人が言うと、二人の男は肩を落として牌楼の下に引き返す。
二人がすっかり下がるのを見届けてから、老人は楊鷹に向き直った。
「あなたの言い分は分かりました。ですが、こちらの不安も分かっていただきたい」
そう言う老人の声に、もう疲れの色はなかった。相変わらずしゃがれてはいるが、芯を感じさせる強さがあった。この期に及んで、彼は何かを決断したのかもしれない。
「あの慧牙とかいう者の話では、狙いは貴方だ。我らはいわば巻き込まれたのです。こうなったのは貴方のせいです」
老人はさらに言う。言葉遣いは丁寧だが、話す内容は刺々しい。
ぐっと喉が閉まるのを感じながらも、楊鷹は声をしぼり出した。
「つまり、大人しく足を折らせろ、ということですか?」
「いいや」と老人は首を横に振る。それから彼は改めて楊鷹を見た。重く垂れたまぶたから覗く瞳に、光はない。のっぺりとした、昏い目だ。
「捕らえられてください。期日の日まで、あなたをどこかに閉じ込めておきたい」
「皆も、それで文句は無かろう」と、老人は背後の人々に向かって尋ねた。北汀村の男たちは何も言わない。不満そうな雰囲気を醸してはいるが、黙っている。老人は、改めて楊鷹に振り返った。
「それが、我々にできる最大の譲歩です」
鋭さを帯びた強い口調で、老人は言った。
楊鷹は口を閉ざした。老人のこの強い口調から鑑みるに、彼の言葉はまさしくその通りなのだろう。期日まで軟禁する。それが、彼らにとって歩み寄れる一番のところ。裏を返せば、拒否するならば足を折るといった強引な手段も辞さない、ということか。
仮に、村人たちが強引なやり方に出たとしても、彼らを打ち負かすことは、難しくはない。けれども、そうして争ってしまっては、神仙の思惑通り。
楊鷹は、老人の昏い瞳をまっすぐ見つめた。そして、答える。
「……分かりました。望みどおり、捕えてください」
腕の中の赤子が、しゃっくりのような音をもらす。それから、ぎゅうぎゅうと楊鷹の手の甲をつねる。ひたすらつねる。しかし、楊鷹は無視をした。
「ただし、捕らえる以上の危害は加えないと約束していただきたい」
「良いでしょう」
楊鷹が言えば、老人は頷いた。
果たしてその首肯は、真かどうか。とはいえ、楊鷹の決断は変わらない。楊鷹は、拘束していた若者を離した。若者はよろめきながら村人の中に紛れこむと、恨めし気に楊鷹をにらみつける。
楊鷹は一度鋭く息を吐くと、毅然とした足取りで老人に近づいた。
「それでは、どうぞこの身を閉じ込めてください」
言葉は従順、しかし声音は朗々と威厳を帯びていた。服従するような弱さは、まったくない。
老人はまぶたを引き上げて、まじまじと楊鷹を見つめる。堂々と身体を差し出す相手を訝しんでいるのか、はたまた呆気に取られているのか。判然としないが、不可解に感じていることには違いない。獲物が自ら囚われに来たというのに、老人はまったく動こうとしない。
「行きましょう」
「……ええ」
きっぱりとした口調で楊鷹が促すと、ようやっと老人は歩き出した。




