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小仙奇譚  作者: 平井みね
第二章
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囚われの身・一

 いつの間にか、空はすっかり明るさを取り戻していた。叢雲(むらくも)は端へと追いやられ、太陽を遮るものは何もない。陽光に磨かれた湖面は、一身に蒼天を映していた。

 蕩々(とうとう)と紺碧をたたえる水面の上を、川船は滑るように進んでゆく。船に乗っているのは、月蓉(げつよう)超慈(ちょうじ)である。目指す先は、沁富県(しんふけん)菁雲村(せいうんそん)。超慈はあっという間に船の準備を整えて、まだ日の高いうちに二人は旅立ったのであった。

 楊鷹(ようおう)毛翠(もうすい)を抱いて、湖岸の桟橋(さんばし)から旅立つ二人を見送っていた。

 遠ざかってゆく船影を見つめる楊鷹の胸に、熱いものがこみ上がってくる。快く手を差し伸べてくれた、月蓉と超慈。己は決して、一人ではないのだ。


 船は岸に沿って緩やかに曲がってゆくと、やがて湖岸に連なる木々の向こうに姿を消した。後に残された(みお)も、さざ波に紛れて消えてゆく。


「きっと間に合う。わしは信じておる」


 平らか湖をじっと見つめながら、毛翠が言った。


「ああ、そうだな」


 楊鷹もきっぱりとした声音で答える。

 正直なところ、彼らが次の新月の日までに間に合うかは、かなり際どい。天気が崩れて一日でも道行(みちゆき)が遅れてしまえば、もう間に合わないだろう。なかなかの博打(ばくち)である。

 だが、そうだとしても、必ず月蓉と超慈は間に合う、と信じるのだ。

 旅立つ間際、超慈は言っていた。「俺は博打に強い。今回も勝てる」と。その言葉に対して、月蓉もしかと頷いていた。そんな二人だ。きっと、やってくれるに違いない。

 だからこそ、楊鷹も彼らに応えねばならない。差し伸べられた手をつかんだのなら、ただぶら下がったままでいるわけにはいかない。その手を頼りに立ち上がり、共に進む。彼らの助力は無駄にできない。楊鷹は楊鷹で、来たるべき戦いに備えておく必要があった。


 そもそも、王嘉(おうか)の加勢があったとしても、真正面から荘炎魏(そうえんぎ)とやり合うのは、不利だろう。それだけ、相手は強大だ。だから、何か策がいる。例えば、地の利を活かした戦い方などを、考えておいたほうが良い。

 他にも、考えることはいろいろとありそうである。だが、それよりも何よりも、まずやるべきことといえば。


「一旦、北汀村(ほくていそん)まで戻る。あまり留守にしているのは良くない」


 そう毛翠に声をかけると、楊鷹は(きびす)を返す。

 とにもかくにも、まずは戻らなければ、村人たちに余計な疑念を抱かせてしまう。

 せかせかと歩き始めた楊鷹を、毛翠はじろりとねめ上げる。


「逃げたと思われるのも厄介かもしれんが、しかし戻ったら戻ったで、ろくなことにならないのではないか?」


 毛翠は北汀村の人々を信じていないようだ。信じられないのも無理はない。村人たちが期日まで待ってくれる確証は、どこにもないのだ。

 龍の鱗を磨いて作った宝玉という対価を示され、村人たちは慧牙(けいが)の約束を呑んだ。否、対価だけでなく、烈熾狼(れっしろう)で脅された末に強引に呑まされた、と言った方が正しい。故に、あの場で約束を呑んだのは、一時しのぎであったのかもしれない。

 濡れ衣の恐怖は、決して小さいものではないだろう。しかもその濡れ衣は、とても重いのだから尚更だ。その恐怖から、一刻も早く逃れようとしても、なんらおかしくはない。そうなったら、彼らはまた、楊鷹たちを神仙に突き出そうと行動を起こすに違いない。

 楊鷹とて、村人たちを信じてはいない。だが、そうは言ってもである。

 楊鷹は言った。


「このまま姿をくらませたら、ますますこちらを信じてもらえなくなるだろう」


 北汀村の村人たちもまた、楊鷹に対して疑心を抱えている。だが、楊鷹としては、こちらの「逃げない」という言葉を信じてもらいたかった。どうにかして、彼らに期日まで待ってほしかった。

 だからこそ、村人たちから隠れるような真似はできない。彼らの信を得ようというならば、楊鷹自身がまず誠意を見せなければ。虎穴に入らなければ、虎児は得られない。


「村人たちの疑いが強まってしまう方が、ろくでもないことにつながる」


 楊鷹は重ねて言った。しかし、毛翠は言い返す。


「そうは言っても、とっ捕まえようとしてくるかもしれないだろう? しかも、乱暴してくるかもしれないぞ? 逃げないように足を折るとか」


 楊鷹(ようおう)の足が止まる。

 無垢な幼子に見えるものの、その内に抱く不信は甚だしい。甚だしいが、やはり間違ってはいない。楊鷹は気がついた。村人たちにはその手があった。


「……足を折るどころか、殺そうとしてくるかもしれないな」


 苦々しい声で楊鷹が言えば、毛翠(もうすい)は狭い眉間にしわを寄せた。


慧牙(けいが)は、わしらが死んでいても構わないのだな?」

「構わない、というか、はっきりと言っていなかったな。慧牙は、若白髪のお兄さんとその連れの子どもが、次の新月の日に我々のもとにやってくれば良い、としか言わなかった」

「それじゃあ、村の奴らからしてみれば、殺してしまうのが楽ではないか」

「そのやり方に気がつけば、そうだな。それに、殺しておいて、期日まで待ったうえで開心林(かいしんりん)に死体を持って行けば、宝玉だって貰えるかもしれない」


 死んでいたって、楊鷹は間違いなく楊鷹であるし、毛翠は毛翠である。神仙たちの目的とする人物に違いない。つまり、北汀村(ほくていそん)の人々は楊鷹と毛翠を殺して、その死体を開心林まで持ってゆけば、濡れ衣から逃れられる。しかも、期日の新月の日まで待ってから神仙のもとに持ってゆけば、褒美の宝玉も貰えるかもしれない。逃げないと信じた、とは言えないだろうが、期日まで待ったことには違いない。そして、もし殺すことに抵抗があれば、それこそ足を折るなり切るなりして、動けなくすれば良い。体のどこかが欠けていたって、やはり楊鷹は楊鷹であり、毛翠は毛翠だ。

 言葉の隙間をついた、抜け道のようなやり方である。だが、村人にとっては保身と宝玉、両方を得られるおいしい方法だ。


 (ねずみ)の鳴き声に似た音が聞こえた。毛翠が舌打ちしたのだ。


「慧牙のやつ、見た目は優男のくせに、中身は本当にえげつない」

「まったくだ」


 吐き捨てるように楊鷹は言った。言いながら、思う。


(あえて言わなかったんだろうな……)


 慧牙の狙いは、人間たちを惑わせること。そうして惑った末に争いが始まれば、さらに良し。それが、彼にとっての楽しみなのだ。だから、楊鷹たちの生死を明言しなかった。それが、争いの火種になりうるからだ。

 北汀村の村人が両得を狙って暴挙に出たならば。そして、楊鷹も応戦したとなれば。確実に血が流れる。


 毛翠を抱く腕に、自然と力がこもる。改めて、慧牙のやり口に腹が立ってきた。腹立たしいからこそ、何がなんでも村人たちの信を得なければならない。争いなど言語道断。あの悪辣な神仙を楽しませてなるものか。

 楊鷹は歩みを再開させた。すると、毛翠がくいくいと襟元を引っ張った。


「やはり北汀村に戻るのか」

「戻る。殺されないためにも戻って、逃げないというこちらの姿勢を示す」

「約束の日まで、どこかに隠れていたほうが良いのではないか?」

「良い隠れ場所を知っているのか?」


 にべもなく楊鷹が尋ね返せば、毛翠は唇の端を下げた。


「知らん」


 答える赤子の声に、覇気はない。それでも、彼は食い下がるように、しつこく問いかける。


「……もし、村人たちが、殺そうとしてきたらどうする?」


 嫌な質問だ。無言のまま数歩進んだ後、楊鷹は答えた。


「……言っても通じないなら、申し訳ないが返りうちにするしかないだろう」


 そう言えば、心だけでなく、口の中まで苦くなる。

 村人たち、皆を助けると決めたのに、その助けようとする相手を自ら傷つけるなど本末転倒だ。だが、ためらっているうちに殺されてしまってはどうしようもない。

 楊鷹はため息を吐いた。


(仕方ないとは言え、結局力で黙らせるとなったら、喬徳(きょうとく)や神仙たちと変わらないな……)

 

 そんな思いがよぎったとたん、本当に母親は強い人だったのだと、楊鷹は思い知る。貧しく辛い状況でも、決して楽な方――人から奪う――ということをしなかった母親。

 ふと、楊鷹の脳裏に幼い頃に見た母の背中がよみがえる。目覚めたら、朝日の中で鳴いていた母親。それほど強い母が泣いていた。


「どうした」


 楊鷹の心を読んだかのように、毛翠が声をかける。楊鷹は頭を振った。母のことを考えると、どうにも腕の中にある幼子の重みが増してくる。


「なんでもない」


 ぶっきらぼうに答えて、楊鷹は足を速めた。

 大股で地面を踏みしめ、ざくざくと小気味良い足音を鳴らしながら進む。あっという間に湖岸から離れ、石造りの家の間の小道を抜ける。

 そうして開けた通りに出れば、素朴なつくりの牌楼(はいろう)(軒や屋根がついている門のこと)が見えた。足先をそちらに向ける。

 だが、足先を向けたところで、楊鷹は歩みを止めた。牌楼の軒下(のきした)に、五、六人の男が集まっていることに気がついたのだ。

 楊鷹は目をすがめる。毛翠がこそこそと、小さな声で言った。


「あいつら、わしらを探しに来た奴らじゃないか?」


 勘の良い赤子である。確かに、あの人だかりは北汀村の男たちだ。彼らのうちの数人に、楊鷹は見覚えがあった。

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