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小仙奇譚  作者: 平井みね
第一章
9/131

久方振りの父子二人・五

※※※


 食事を済ませた後、楊鷹(ようおう)毛翠(もうすい)は早々に床に就くことにした。老爺(ろうや)はしきりに寝台を使うように勧めてきたが、さすがにそれは申し訳ないので、掛け布やらむしろやらで寝床を作り、そこで休むことにした。寝心地は決して良くないが、寝台でないと休めないなどという(やわ)ではない。毛翠も、それには特段不満そうな顔はしなかった。

 ところが、横になった楊鷹であったが、どうにも寝付けない。静寂の中、しばらく目を閉じていても全く眠気がやってこない。仕方がないので楊鷹はそっと起きあがると、一人床を抜け出して、外へと出た。


 夏の盛りであったが、思いのほか空気は涼しく。空には満月といくつかの星々。控えめな虫の音がかすかに聞こえる。穏やかな夜の中、楊鷹は足の赴くままに歩く。歩くこと間もなく、目の前に(びょう)が見えてきたので、楊鷹はそのまま夜中に佇んでいる御堂に近づいた。


 もともと(すた)れていたうえに賊に荒らされてしまった、という話であったが、まさしくその通りであった。外壁は傷だらけ。それどころか、ところどころ穴が開いている部分すらある。瓦屋根は、入口の門と同じくだいぶ崩れ落ちている。ぐるりと正面に回り込んでみれば入口は開け放されていた、のではなく。扉が、すっかりなくなっていた。

 楊鷹は慎重に敷居をまたいで、廟の中へと入った。

 中は外観と比べれば、綺麗であった。正確には綺麗と言うと語弊がある。何もなく、がらんどうなのだ。線香立ても神を(まつ)る壇も、そこに祀られる神像も、あるべきものが何一つない。壊されてしまったために片付けたのか、それとも賊が盗んでいったのか。それは、分からない。ほのかな月明かりを受けてぼんやりと浮かびあがる空虚な空間。壁にはりついた札の残骸が、ことさらにわびしい。楊鷹は物悲しい気持ちになった。


 ふいに、肌が冷たくなる。辺りの空気が、わずかに揺れている。周囲にいくつか気配を感じる。生きものではない。恐らく、死者の魂の気配、未だ現世に留まる思念の類が集まってきているのだ。老爺の話では近くに墓があると言っていたから、そのためだろう。ここまで痛めつけられた廟の様子に、怒っているのか嘆いているのか。それは知り得ないが、鎮魂のために建てられた御堂がこんな風になってしまったのであれば、おちおち眠っていられない気持ちも何となしに分かる。

 楊鷹はそっとその場にかしずいた。そして静かに目を閉じて、祈りをささげる。かつていた、神に対して。それから、辺りに漂う気配たちに対して。彼らと楊鷹の間にはなんの由縁(ゆえん)もないけれど、少しでも気が休まれば幸いである。


 祈りが届いたのか、楊鷹がゆっくりと顔を上げると、辺りはすっかり落ち着いていた。漂っていた気配達は、寄せては返す波のように、さっとどこかへと引いていったようだ。

 月明かりの差し込む(さび)れた廟の中にいるのは、楊鷹一人だけとなった。虫の鳴き声が幾分はっきりと聞こえる。

 楊鷹は深々と息を吐いた。日中の慌ただしさからやっと解放された。そんな気分になる。


(まったく、目まぐるしく事が起こりすぎだ)


 やっと一息つくことができて思うのは、これまでの出来事の数々。

 楊鷹の人生はなかなかに波乱万丈だったが、今年に入ってからは特にそうであった。


 流罪になる前、楊鷹は(りん)の都である円寧府(えんねいふ)で、母親と小間使いの女性と共につつましく暮らしていた。その状況に至るまでは、母子二人で国中を放浪する生活を続けていたから、武官になって円寧府に小さいながらも家を持つことができた時には、心底安心したものだ。もう野宿や安宿で雑魚寝をするなんてことはなく、食べ物にもそこまで困らない暮らしができると。放浪中の生活は貧しく、辛い出来事も多かった。

 ところがである。楊鷹が武官になってから一年と経たないうちに、母が病に倒れた。数年の間、ゆるゆると体を侵していた病魔であったが、今年に入ったとたん急に本性をあらわした。転げ落ちるように具合は悪化の一途を辿り、闘病も虚しくその命は晩春に潰えた。母の苦労をたくさん見てきた分、これからは楽をしてもらおうと思っていたというのに、である。


 しかも、悪い出来事はそれで終わりではなかった。

 楊鷹は頬の刺青(いれずみ)に触れる。


 母の埋葬が終わり、やっと少し落ち着いた頃、楊鷹は都で一人の青年ともめ事を起してしまった。その事件自体はどうってことはない。繁華街ではよくある荒事だ。その程度の出来事だったのだが、相手がまずかった。

 もめてしまった相手が采二(さいじ)という青年だったのである。彼は、枢密院(すうみついん)の長官の息子であり、父の権力をかさに着て、好き放題やっているどうしようもないごろつきだったのだ。そんな采二と言い争いになり、最終的に彼を一発殴ってしまったのが運の尽き。

 もともと、異物として煙たがられていたことも大きかったのだろう。どこの馬の骨とも知れない元流浪民。さらに、稟では見慣れない風貌。薛用(せつよう)のように楊鷹をそしる者は数知れず、采二の父親もそんな一人だったことは楊鷹自身もよく知っていた。

 そんなこんなで恨みを買った楊鷹は、「反詩を書いた」という罪をでっち上げられて、罪を負う羽目になった。初めは死罪、その後減刑されて北の孤島へと流罪。

 何かしらの報復があることを、楊鷹は覚悟していた。だが、その予想を遥かに越える、道理もへったくれもない、めちゃくちゃな仕打ちであった。

 それでも、罰を受けるしか手がなかった。悔しくとも、それが楊鷹にとって最善の方法だったのだ。


 楊鷹は、ぼろぼろの帯の間から包みを取り出した。それをそっと開けば、中にはいくつかの銀子(ぎんす)。楊鷹の家で働いていた小間使いの女性が、都を出立する直前に楊鷹に渡してくれたものだ。流刑地への旅路が、そしてその先の流刑地での暮らしが少しでも楽になるよう、持たせてくれたのである。結局、性悪な護送役人に渡すのが悔しくて、全く使っていなかった。

 ふと、別れ際のつらそうな、今にも泣きだしそうな彼女の表情が頭の中に浮かんでくる。


(無事に暮らしているのだろうか……)


 だが、いくら心配したところで悲しいかな杞憂でしかない。彼女の暮らしぶりを知る方法はない。都まで会いに行くことだって不可能だ。

 楊鷹は深々と項垂れ、再度息を吐いた。

 そして、それから。止めとばかりに今日である。

 流刑地に護送中、父親を名乗る赤ん坊と出会ったうえ神仙の少女に襲われる、という最高に訳の分からない事件。しかも、どうやら夢ではなく現実の出来事で、はなはだ悩ましい限りである。


(……少し、飲めばよかったな)


 今になって、老爺が出してくれた酒を飲まなかったことが悔やまれる。酒は不得手であるため断ったのだが、こうも()めてしまっている今となっては少しでも口にしておくべきだった。酔ってそのまま寝てしまえば、悲しさも悔しさも心配事も何もかも、一時ではあるが忘れられただろう。

 だが、今更後悔したところでどうにもならない。楊鷹は包みをしまうと、立ち上がった。いい加減戻って休もうと、廟を出たその時。


「何をしているのだ?」


 鈴を転がすような愛らしい声音が響く。見れば、正面に楊鷹の膝にも届かない小さな人影があった。毛翠だ。


「別に、眠れないだけだ」


 楊鷹は簡潔に答えると、すぐさま話を逸らす。


「それより、そっちこそ何をしているんだ。こんな真夜中に赤ん坊がうろうろするなんて非常識だろう」

「それを言うなら、赤ん坊をほっぽり出して出て行ったお前の方も非常識だろう」


 言われてはたと言葉を失う。確かに毛翠の言う通りだ。夜に年端もいかない子供を置いてでかけるのは、親として不自然だ。黙りこくっていたら、毛翠はあっけらかんと言う。


「まぁ、そのことは別に構わん。あの老人は眠っていたし、ばれてはないだろう。お前も不慣れだから仕方のないことだ」

「……お前に言われたくない」


 愛想のない口調で言い返すと、毛翠は眉根を寄せてむっとした表情になった。無言のまま(にら)みあう。なんとも無益な時が流れた。こんな暇があるなら、一刻も早く寝床に戻るべきだ。


「戻って寝るぞ」


 楊鷹は毛翠を抱き上げようとかがみこんだ。が、毛翠がさっと手を突き出してくる。


「待て。少し話がしたくてだな」

「話?」


 楊鷹の眉間がぴくりと動く。正直なところあまり聞きたくない。だが、毛翠の表情はいつになく真剣であった。さっきまでの不満気な顔つきを引きずっているだけかもしれないが、それでもなんだか無視をするのは気が引けたので、楊鷹はゆっくりと上体を起こした。そして、眼前のつぶらな緑の瞳と視線を合わせる。

 毛翠が静かに手を降ろし、口を開く。


「お前はこれからどうするのだ?」

「どうって……」


 そこまで答えて、言葉が途切れる。そんなこと、まだ考えていない。考える間がなかった。

 毛翠がわずかばかり前に出てくる。


「実は、お前に頼みがあるのだ」

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