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小仙奇譚  作者: 平井みね
第二章
89/131

追いつめられたその先で・三

 隙間から見えた人影は、まぎれもなく月蓉(げつよう)だった。頬の赤みは薄くなっており、左手首には包帯を巻いていた。手当ては済んだようだ。しかし、伏し目がちの表情は暗い。楊鷹は、別れる間際、力なく項垂れた彼女の様子を思い出す。


「どうしたんだ? やっぱり具合が悪いのか?」


 楊鷹(ようおう)は声を潜めて尋ねた。彼女の周囲に人影はなさそうであるが、近くに村人たちがいたらと思うと、大きな声で下手な話はできない。あまり疑う真似はしたくないが、それでも彼らに良く思われていないことを考えれば、隙を見せるわけにはいかない。

 楊鷹の問いかけに対して、月蓉もこそこそと小さな声で答えた。


「いえ、そうではなくて、少しお話がしたくて来ました」

「そうか」


 手短に答えると、楊鷹は月蓉を納屋に招き入れ、ゆっくりと扉を閉める。

 月蓉は毛翠(もうすい)に会釈すると、「失礼します」と一言断って寝床のそばに座った。楊鷹がその対面に腰を下ろすと、彼女は早速口を開く。


「楊兄さん。あの、先ほどの、慧牙(けいが)という男性がおっしゃっていたことなんですけれど」


 そう切り出しすも、すぐさま月蓉は口を閉ざした。それから、数度唇を舐める。ひどく言い辛そうな様子だ。


「慧牙の言っていたことが、なんだ?」


 楊鷹が促せば、月蓉はぱっと視線を上げた。彼女の瞳は強かった。光を湛えた黒い瞳は、黒瑪瑙(くろめのう)ように滑らかだ。

 思わず、楊鷹は息を呑む。


楊兄(ようにい)さん、この村のことには構わずに逃げてください」


 強い口調で月蓉が言った。

 心の内を見透かされたような言葉に、楊鷹の胸はどきりと大きく跳ねた。

 月蓉はさらに言う。


「楊兄さんの事情をすべて知っているわけではありません。けれど、あの神仙の方たちに捕まってしまっては、命が危ないのでしょう? それなら、逃げてください。それが村の人も、楊兄さんたちも、一番助かる可能性が高いです。私たちの命を取るとは言ってなかったですから。ひとまず、村の人たちには、一刻も早く逃げるように私が説得してみます」


 とうとうと語る口調からは、説き伏せようとする必死さが伝わってくる。

 やけにうるさい己の鼓動を感じながら、楊鷹は強かな瞳を見つめ返した。


「……逃げる先に()てはあるのか?」


 楊鷹が尋ねれば、月蓉の表情が強張った。黒い瞳の光が陰る。

 この様子、おそらく彼女たちに逃げる場所などない。

 だが、月蓉は小さな吐息をもらすと、そっと微笑んだ。ひどく悲しい笑みをたたえたまま、彼女は言った。


「……もし説得できなかったら、その時は私一人が罪を被ります」


 刹那、楊鷹の胸の内に怒りに似た激しい感情がほとばしる。

 どうして月蓉はそんなことを言うのか。否、どうして己は月蓉にそんなことを言わせてしまうのか。

 激情に突き動かされるまま、楊鷹は言った。


「だめだ!」


 叫び声といっても差し支えない大声に、月蓉はびくりと肩を震わせた。

 楊鷹ははっとする。こんなにも大きな声を出すつもりはなかった。彼女に対して怒っているわけではない。責めるつもりもない。


「驚かせてすまない」


 そう謝ると、楊鷹は強く握り締められた月蓉の拳にそっと触れた。ぽっと灯火が灯るように、指先に柔らかい熱が広がる。そのまま、彼女の拳を両手で包み込んだ。


「君が犠牲になるなんて、絶対にだめだ」


 月蓉の瞳を真っ直ぐ見つめながら、楊鷹はきっぱりと言い切る。

 何があっても、月蓉に罪を負わせてはならない。彼女が犠牲にるなど、あってはならない。楊鷹はそう思う。


「そんなこと、絶対にだめだ」


 もう一度繰り返したとき、楊鷹の心の揺らぎはぴたりと止まった。逃げるなど、やはりできない。この手の中のぬくもりを守るためにも、そんなことは絶対にできない。


「そうだ、月蓉。楊鷹の言う通りだ。お前が犠牲になる必要はない。逃げるならわしらと一緒に行こう」

「いや、俺たちだけで逃げることはしない。神仙たちを退けて、皆を助ける」


 毛翠の言葉を、楊鷹はばっさりと切り捨てた。


「お前っ!」


 毛翠(もうすい)が高い声で叫ぶ。楊鷹(ようおう)月蓉(げつよう)から手を離し、振り返った。これでもかと眉間にしわを寄せた、渋い表情の赤子と目が合う。明らかに不満気だ。

 彼から何か言われる前に、楊鷹は口を開いた。


「もう何を言われたって、見捨てるような真似はしないからな」


 己は力ない存在だ。しかし、だからといって諦めてしまったら、そこで終わりだ。何がなんでもあがいて、活路を開かねば。それができるのは、力なくとも己だけなのだ。

 冷え切っていた熱が、(よみがえ)る。心だけでなく体まで熱くなってきた。

 楊鷹はまっすぐ毛翠の緑の瞳を見返した。赤子はかすかにたじろぐと、長々とため息を吐いた。


「その強情さ、楊麗(ようれい)にそっくりだ」

「ああ、そうだな。父親に育ててもらった覚えはないからな」


 母の名を出されても動じることなく、楊鷹は言い返す。毛翠は変わらず、眉をひそめたまま、楊鷹をにらむ。


「見捨てないということは、荘炎魏(そうえんぎ)慧牙(けいが)と戦う、ということだな?」

「ああ、戦う」

「そう無茶をするのも、あれか? 生きるためというのか?」

「そうだ」

「何が、そうだ、だ。生きるためだとするならば、最善の策ではない」

「そんなことはない。今ここで村人たちを、月蓉を見捨てたら、きっと俺の心は後悔で死ぬ。だから間違いなく、生きるためだ」


 毛翠が、円らな瞳をさらに丸くする。彼は随分と驚いた様子で、開きかけた口を閉ざす。

 赤子が静かになったところで、楊鷹はぐっと拳を握りしめて付け加えた。


「それに、神仙たちが好き勝手にやり放題というのも、腹が立つ」


 取り戻した熱はあっという間にみなぎって、ゆるぎない情熱となっていた。その情熱が、神仙に対する真っ当な怒りを呼び覚ました。人間の命を玩具(おもちゃ)のように扱う神仙たち。彼らを許すことなど出来やしない。

 毛翠は何か言いたげに、薄い唇をもごもごと動かしている。しかし、言葉は出てこない。やがて、彼は「あーっ!」と声を上げた。


「分かった! もう止めはしない!」


 やけを起こしたようにそう叫ぶと、赤子は「月蓉!」と勢いよく呼びかけた。

 うつむいて前髪をいじっていた月蓉が、ぱっと顔を上げた。


「はっ、はい! なんでしょうか?」


 驚いたのか、月蓉の声は上ずっていた。しかし、毛翠はお構いなしに、強い語勢のまま尋ねる。

 

「この辺りで、腕の立つ奴に心当たりはないか!」

「腕の立つ方……ですか?」


 毛翠が、短い指を楊鷹に突きつける。


「正味、神仙たち(あいつら)とこいつ一人でやり合うには無理がある。だから、やり合うというなら誰かに協力を仰ぐしかないと思う。ならず者でも、誰でも良い。何か知っていないか?」

「腕の立つ方……」


 月蓉はそう呟くと、目線を下げて黙りこくる。考えているようだ。

 毛翠の提案は最もである。語気荒くまくしたてる口調は少々気に障った楊鷹であったが、その言い分については認めるしかなかった。一人で敵わないのであれば、誰かに助けを求めるのは当然の道理だ。


 しかしながら、月蓉はじっと考えこんだまま、なかなか答えが返ってこない。急かすように、小屋の隅に置いてある木箱が、(きし)んで音を立てた。


「どうだ? 心当たりはないか?」


 しびれを切らした毛翠が聞けば、月蓉は申し訳無さそうに眉尻を下げた。


「……ごめんなさい。そのような方に心当たりはありません」

「ぬう、そうか。くそ、わしがこんな姿でなかったら、まだどうにかなっただろうに。こうなったら、人のいるところに行って、誰か探してみるか」


 ぶつぶつと毛翠がつぶやく。

 赤子ではない毛翠が、戦力になったかどうかはともかく。この辺りに暮らす月蓉に心当たりがないのなら、毛翠の言う通り、自らの足を動かして探し出すしかない。

 だが、楊鷹には懸念があった。相手は神仙である。生半可な実力ではかえって足手まといになるのは必須。少なくとも、自身――普通の人間よりも神仙に近い――と、同等の力を持っているような人物でなければ、助っ人としては心もとない。闇雲に探して、見つかるだろうか。時間は限られている。


「しかし、神仙に対抗できる人間がそうそう……」


「見つかるか?」と言いかけて、楊鷹ははたと口をつぐんだ。

 待て。見つかる。否、すでに見つかっている。己と互角に立ち合える人物、いるではないか。


王嘉(おうか)殿……」


 ぽつりと、楊鷹の口からその名がこぼれた。

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