追いつめられたその先で・三
隙間から見えた人影は、まぎれもなく月蓉だった。頬の赤みは薄くなっており、左手首には包帯を巻いていた。手当ては済んだようだ。しかし、伏し目がちの表情は暗い。楊鷹は、別れる間際、力なく項垂れた彼女の様子を思い出す。
「どうしたんだ? やっぱり具合が悪いのか?」
楊鷹は声を潜めて尋ねた。彼女の周囲に人影はなさそうであるが、近くに村人たちがいたらと思うと、大きな声で下手な話はできない。あまり疑う真似はしたくないが、それでも彼らに良く思われていないことを考えれば、隙を見せるわけにはいかない。
楊鷹の問いかけに対して、月蓉もこそこそと小さな声で答えた。
「いえ、そうではなくて、少しお話がしたくて来ました」
「そうか」
手短に答えると、楊鷹は月蓉を納屋に招き入れ、ゆっくりと扉を閉める。
月蓉は毛翠に会釈すると、「失礼します」と一言断って寝床のそばに座った。楊鷹がその対面に腰を下ろすと、彼女は早速口を開く。
「楊兄さん。あの、先ほどの、慧牙という男性がおっしゃっていたことなんですけれど」
そう切り出しすも、すぐさま月蓉は口を閉ざした。それから、数度唇を舐める。ひどく言い辛そうな様子だ。
「慧牙の言っていたことが、なんだ?」
楊鷹が促せば、月蓉はぱっと視線を上げた。彼女の瞳は強かった。光を湛えた黒い瞳は、黒瑪瑙ように滑らかだ。
思わず、楊鷹は息を呑む。
「楊兄さん、この村のことには構わずに逃げてください」
強い口調で月蓉が言った。
心の内を見透かされたような言葉に、楊鷹の胸はどきりと大きく跳ねた。
月蓉はさらに言う。
「楊兄さんの事情をすべて知っているわけではありません。けれど、あの神仙の方たちに捕まってしまっては、命が危ないのでしょう? それなら、逃げてください。それが村の人も、楊兄さんたちも、一番助かる可能性が高いです。私たちの命を取るとは言ってなかったですから。ひとまず、村の人たちには、一刻も早く逃げるように私が説得してみます」
とうとうと語る口調からは、説き伏せようとする必死さが伝わってくる。
やけにうるさい己の鼓動を感じながら、楊鷹は強かな瞳を見つめ返した。
「……逃げる先に宛てはあるのか?」
楊鷹が尋ねれば、月蓉の表情が強張った。黒い瞳の光が陰る。
この様子、おそらく彼女たちに逃げる場所などない。
だが、月蓉は小さな吐息をもらすと、そっと微笑んだ。ひどく悲しい笑みをたたえたまま、彼女は言った。
「……もし説得できなかったら、その時は私一人が罪を被ります」
刹那、楊鷹の胸の内に怒りに似た激しい感情がほとばしる。
どうして月蓉はそんなことを言うのか。否、どうして己は月蓉にそんなことを言わせてしまうのか。
激情に突き動かされるまま、楊鷹は言った。
「だめだ!」
叫び声といっても差し支えない大声に、月蓉はびくりと肩を震わせた。
楊鷹ははっとする。こんなにも大きな声を出すつもりはなかった。彼女に対して怒っているわけではない。責めるつもりもない。
「驚かせてすまない」
そう謝ると、楊鷹は強く握り締められた月蓉の拳にそっと触れた。ぽっと灯火が灯るように、指先に柔らかい熱が広がる。そのまま、彼女の拳を両手で包み込んだ。
「君が犠牲になるなんて、絶対にだめだ」
月蓉の瞳を真っ直ぐ見つめながら、楊鷹はきっぱりと言い切る。
何があっても、月蓉に罪を負わせてはならない。彼女が犠牲にるなど、あってはならない。楊鷹はそう思う。
「そんなこと、絶対にだめだ」
もう一度繰り返したとき、楊鷹の心の揺らぎはぴたりと止まった。逃げるなど、やはりできない。この手の中のぬくもりを守るためにも、そんなことは絶対にできない。
「そうだ、月蓉。楊鷹の言う通りだ。お前が犠牲になる必要はない。逃げるならわしらと一緒に行こう」
「いや、俺たちだけで逃げることはしない。神仙たちを退けて、皆を助ける」
毛翠の言葉を、楊鷹はばっさりと切り捨てた。
「お前っ!」
毛翠が高い声で叫ぶ。楊鷹は月蓉から手を離し、振り返った。これでもかと眉間にしわを寄せた、渋い表情の赤子と目が合う。明らかに不満気だ。
彼から何か言われる前に、楊鷹は口を開いた。
「もう何を言われたって、見捨てるような真似はしないからな」
己は力ない存在だ。しかし、だからといって諦めてしまったら、そこで終わりだ。何がなんでもあがいて、活路を開かねば。それができるのは、力なくとも己だけなのだ。
冷え切っていた熱が、甦る。心だけでなく体まで熱くなってきた。
楊鷹はまっすぐ毛翠の緑の瞳を見返した。赤子はかすかにたじろぐと、長々とため息を吐いた。
「その強情さ、楊麗にそっくりだ」
「ああ、そうだな。父親に育ててもらった覚えはないからな」
母の名を出されても動じることなく、楊鷹は言い返す。毛翠は変わらず、眉をひそめたまま、楊鷹をにらむ。
「見捨てないということは、荘炎魏と慧牙と戦う、ということだな?」
「ああ、戦う」
「そう無茶をするのも、あれか? 生きるためというのか?」
「そうだ」
「何が、そうだ、だ。生きるためだとするならば、最善の策ではない」
「そんなことはない。今ここで村人たちを、月蓉を見捨てたら、きっと俺の心は後悔で死ぬ。だから間違いなく、生きるためだ」
毛翠が、円らな瞳をさらに丸くする。彼は随分と驚いた様子で、開きかけた口を閉ざす。
赤子が静かになったところで、楊鷹はぐっと拳を握りしめて付け加えた。
「それに、神仙たちが好き勝手にやり放題というのも、腹が立つ」
取り戻した熱はあっという間にみなぎって、ゆるぎない情熱となっていた。その情熱が、神仙に対する真っ当な怒りを呼び覚ました。人間の命を玩具のように扱う神仙たち。彼らを許すことなど出来やしない。
毛翠は何か言いたげに、薄い唇をもごもごと動かしている。しかし、言葉は出てこない。やがて、彼は「あーっ!」と声を上げた。
「分かった! もう止めはしない!」
やけを起こしたようにそう叫ぶと、赤子は「月蓉!」と勢いよく呼びかけた。
うつむいて前髪をいじっていた月蓉が、ぱっと顔を上げた。
「はっ、はい! なんでしょうか?」
驚いたのか、月蓉の声は上ずっていた。しかし、毛翠はお構いなしに、強い語勢のまま尋ねる。
「この辺りで、腕の立つ奴に心当たりはないか!」
「腕の立つ方……ですか?」
毛翠が、短い指を楊鷹に突きつける。
「正味、神仙たちとこいつ一人でやり合うには無理がある。だから、やり合うというなら誰かに協力を仰ぐしかないと思う。ならず者でも、誰でも良い。何か知っていないか?」
「腕の立つ方……」
月蓉はそう呟くと、目線を下げて黙りこくる。考えているようだ。
毛翠の提案は最もである。語気荒くまくしたてる口調は少々気に障った楊鷹であったが、その言い分については認めるしかなかった。一人で敵わないのであれば、誰かに助けを求めるのは当然の道理だ。
しかしながら、月蓉はじっと考えこんだまま、なかなか答えが返ってこない。急かすように、小屋の隅に置いてある木箱が、軋んで音を立てた。
「どうだ? 心当たりはないか?」
しびれを切らした毛翠が聞けば、月蓉は申し訳無さそうに眉尻を下げた。
「……ごめんなさい。そのような方に心当たりはありません」
「ぬう、そうか。くそ、わしがこんな姿でなかったら、まだどうにかなっただろうに。こうなったら、人のいるところに行って、誰か探してみるか」
ぶつぶつと毛翠がつぶやく。
赤子ではない毛翠が、戦力になったかどうかはともかく。この辺りに暮らす月蓉に心当たりがないのなら、毛翠の言う通り、自らの足を動かして探し出すしかない。
だが、楊鷹には懸念があった。相手は神仙である。生半可な実力ではかえって足手まといになるのは必須。少なくとも、自身――普通の人間よりも神仙に近い――と、同等の力を持っているような人物でなければ、助っ人としては心もとない。闇雲に探して、見つかるだろうか。時間は限られている。
「しかし、神仙に対抗できる人間がそうそう……」
「見つかるか?」と言いかけて、楊鷹ははたと口をつぐんだ。
待て。見つかる。否、すでに見つかっている。己と互角に立ち合える人物、いるではないか。
「王嘉殿……」
ぽつりと、楊鷹の口からその名がこぼれた。




