追いつめられたその先で・二
楊鷹は目をみはり、まじまじと赤子を見た。彼は、いやに真剣な顔つきをしていた。冗談を言っている様子はない。だからこそ、思う。
(何を言っているんだ)
呆けた視線から一転、楊鷹はきっと毛翠をにらみつける。
鋭い視線に気圧されたのか、毛翠はとりつくろうように慌ただしく片手を振った。
「いや、だって、村の奴らを助ける義理はないだろう? 村の奴ら、慧牙の話を聞いてあっさりお前を売ろうとしたんだし、李白蓮など勝手にお前の剣を盗んで売り払ったんだ」
毛翠がしゃべればしゃべるほと、楊鷹の目つきは険しくなる。しかし、彼は黙らない。
「慧牙の話なら、罪を負うことにはなるが、命を取られるわけじゃあないんだろ? ならば……」
いら立ちが募りに募った楊鷹は、地面を叩いて毛翠の言葉を遮った。
「ふざけるな。あらぬ罪を着せられて生きていくなんて、そんなこと、あっていいわけないだろ」
楊鷹の右頬が、じりじりとうずく。目元のみならず、語気も鋭くなった。
「開心林での犠牲は多い。死罪になる可能性だってある」
「だが……」
「だが、なんだ。そもそも、神仙たちがここにやって来た原因は、俺たちだろう。逃げられるか」
自分たちがこの場所にやって来なければ、このようなことにはならなかった。昨夜の開心林の一件から、楊鷹の胸中にはそのような罪悪感が渦巻いている。この北汀村で再びあのような惨劇が起こることは何としてでも避けたい。
それに、これまでに散々見捨てられてきた村人たちを、見限る真似はしたくない。武官として何も為せなかった、そんな罪の意識もあった。
逃げるという選択はあり得ない。だからこそ、手詰まりのこの状況が、口惜しくてたまらない。
しかし、そのような楊鷹の気持ちなど、露ほども分からないのか、毛翠の口は減らない。
「それならば、村人にも逃げるように言おうではないか。それで、皆で逃げれば良い」
やはり、毛翠は何も分かっていない。楊鷹は頭を振った。
「逃げるって言ったって、どこに逃げるんだ。北汀村の人々は、官窯の一件でここまで追い立てられてきたんだ。宛てなんてもうないだろう」
楊鷹が言うと、毛翠ははっと目を見開いて、ついに口を閉ざした。
責め立てるように、楊鷹はさらに言う。
「あんたが何をしたいのか、知らない。だが、他人に罪を背負わせてまで、藍耀海に行く価値はあるのか? そもそも、こうして神仙に追われる原因は、あんたが神仙の世界でやらかしたことなんだろ? それなら、大人しくその罪を償えばいいんじゃないのか?」
幼気な顔がぐしゃりと歪む。赤子らしからぬその表情を隠すように、毛翠はさっとうつむいた。
沈黙が垂れこめる。赤子の小さな指先が、寝床の筵をかりかりと引っかく。その音だけが、寒々と響いた。
言い訳じみた言葉すらない沈黙は、最早それが答えだ。楊鷹は毛翠から目を離した。そのとき、筵を引っかくかすかな音がやんだ。
「分かっている。勝手なのは分かっている。だが、わしにできることは、もう藍耀海に行くことだけなんだ……」
やけにかすれた声で、毛翠が言う。いつものあどけない声音とは正反対の、大人びた声音には無念ともいうべき情が漂っていた。
楊鷹は、改めて毛翠へと視線をやった。
同時に、小さな黒い頭ががばりと跳ね起きる。澄んだ緑の目が、楊鷹をまっすぐ射た。
苦手な瞳に晒されて、楊鷹はたじろぐ。そこに追い打ちをかけるように、毛翠はきっぱりとした口調で言った。
「荘炎魏とやり合うなんて、死にに行くようなもの、やはりそんなのはだめだ!」
「……みすみす死ぬつもりはない。死ぬつもりはないから、方法を考えようとしているんだ」
楊鷹は言い返す。しかしながら、その語気は先程よりも弱かった。
毛翠はぐっと身を乗り出して、まくしたてる。
「何か勝機はありそうなのか? 考えれば、良い方法が出てくるのか?」
「それは……」
今度は楊鷹が言葉に詰まる。
「逃げない」という気持ちは、嘘ではない。逃げるという選択肢はない。とはいえ、未だに妙策は思い浮かばない。それどころか、手がかりすら見つからない。このまま突き進めば、間違いなく死が待っている。
逃げられない。逃げたくない。神仙たちを倒すなり退けるなり、しなければならない。そう思う一方で、荘炎魏らと戦う覚悟があるかと問われれば、すんなりと頷けないことに楊鷹は気がついた。
ごくりと唾を飲みこむ。こんなにも矮小な己に、一体何ができるというのか。毛翠の言うように、自らの命だけを思えば、逃げるというのが最善手なのは間違いない。
「お前が死ぬのは、絶対にだめだ」
断固として、毛翠は繰り返す。堂々たる口ぶりは、赤子の口調ではない。
まるで非難されているようで、じりじりと耳が痛む。思わず、楊鷹は言い返す。
「……藍耀海まで行けなくなるからな」
「そうじゃない。お前が死んだら、楊麗に顔向けができなくなるだろうが」
楊鷹の心が、ずきりとうずく。
(やめろ。どうしてそんなことを言うんだ……)
まるで家族を思う父のような物言いをして、心を惑わせようとするのか。
まったくもって、慧牙の思惑通りである。ただひたすらに悩ましい。すべて投げ出したくなるほどに。
楊鷹の心が揺れる。なんならば、毛翠すらも投げ出して逃げてしまえば、こうして思い悩むことも無くなるだろう。昨夜のように冷酷になれば、情をかなぐり捨ててしまえば、きっと楽になれる。
(落ち着け、平常心だ……)
楊鷹は、母の教えを心の内で繰り返す。毛翠の言葉に耳を貸すな。今大事なのは、迫った危機のこと。けれど、胸のざわめきは鎮まらなかった。
凛とした緑の瞳はひたむきに、じっと楊鷹を見つめている。楊鷹はうつむいた。先ほどよりも重たい沈黙が広がった。
鬱々と時が過ぎること、しばし。ふいに納屋の扉を叩く音がした。
楊鷹は顔を上げると、鋭い声で誰何した。
「誰だ」
「兄さん、月蓉です」
その場から逃げるように楊鷹は素早く立ち上がると、扉に近づく。そして、たてつけの悪い扉を慎重に引き、少しだけ開けた。




