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小仙奇譚  作者: 平井みね
第二章
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窮途末路・六

 老人は、まじまじと佩玉(はいぎょく)を見つめている。その背後に居並ぶ男たちも然り。村人たちは皆、虹を閉じ込めたようなきらめきを宿す玉に、釘付けになっていた。怒りの熱が静まり、また別の熱気がやんわりと広がる。

 慧牙(けいが)がさらに告げる。


「きっと、高く売れますよ。なんて言ったって、こちらは霓珠(げいしゅ)。龍の鱗を磨いて出来る、宝玉です」

「まさか……」


 老人が呻く。しかし、その視線は相変わらず佩玉に注がれていた。

 本当に龍の鱗なのかはさておき、人の世にはない逸品であることは間違いない。

 楊鷹(ようおう)は歯噛みする。

 この神仙、異常なまでにしつこい。何故、そうまでして村人たちを渦中に引きずり込むのだ。己の身を切ってまで、彼らを惑わそうとする。ただただ他人を巻き込むだけでなく、余計に状況を引っ掻き回すやり方が、さっぱり理解できない。

 士大夫のような細い背中をにらみながら、楊鷹は柄に手をかける。

 この慧牙という神仙、やはり今ここで斬って、動きを封じてしまった方がよいのではないか。荘炎魏(そうえんぎ)よりも武力は劣るのだろうが、相当危険な相手だ。


「手荒な真似はやめましょう、と言ったはずですよ」


 柔らかい声が機先を制する。赤茶色の長髪が揺れ、慧牙が振り返る。彼は楊鷹を認めると、にこりと笑った。


「それから、これも一度言ったはずです。もしも今ここで私を斬ったら、荘炎魏が黙っていませんよ」


 その言葉が終わったとたん、これ見よがしに烈熾狼(れっしろう)が吠えた。さらに、同じ獣声が呼応するようにいくつも響き渡る。姿は見えないが、そう遠くない場所に複数の烈熾狼がいるようだ。

 楊鷹は、力なく剣の柄から手を離す。そうしながら、せめてもの抵抗という腹積もりで、きっと慧牙をにらみつけた。しかし、対する慧牙も一切怯む様子は見せず、たおやかな笑みでその鋭い視線を受け止める。本当に隙を見せない神仙であった。

 慧牙はゆったりと踵を返し、その揺るぎない微笑みを村人たちに向けた。


「皆さんも。これで引いてくださらなければ、ちょっと無理強いをしてしまうかもしれません」


 再び獣が吼えた。陰った夏空をさらに暗く染めるような、重々しい咆哮が木霊する。

 老人が口を開いた。 


「新月の夜まで待ったならば、確かにその玉をくれるのですね?」

「ええ。確かに。仮にこのお兄さんが逃げてしまったとしても、少なくともこの宝玉は差し上げます」


 沈黙が訪れる。落ち着きなくうろついている烈熾狼の荒い鼻息が、やたら大きく聞こえる。燃える獣の鼻先が、黒焦げの人頭を小突く。頭はごろりと転がって、暗い洞のような眼を楊鷹に向けた。否、本当に洞であった。焦げた人頭には目玉がついていないことに、楊鷹は気がついた。

 楊鷹はごくりと唾を飲み込む。あの暗い眼窩(がんか)の中に吸い込まれてゆくような錯覚を覚えた。今まさに、己はあの底知れぬ暗がりの中へ突き進もうとしている。そんな気がした。果たして己の内に宿る熱は、混沌とした暗闇にあっても消えないだろうか。

 老人がおもむろに言った。


「分かりました。あなたの話に乗りましょう」


 村人たちがどよめく。しかし、老人がぱっと片手を上げると、彼らはすぐに静まった。北汀村において、この老人の権威は相当のようだ。


「退くぞ」


 老人がそう言って、踵を返して歩き出す。片足を引きずる歪な歩き方だが、しかし一歩一歩は力強い。有無を言わせぬ足並みであった。村人たちも、一人また一人と後に続く。


 しばらくするとすっかり群衆はほどけ、やがて足音も聞こえなくなった。

 再来する静寂。その静けさの中に残された人間は三人。楊鷹と月蓉(げつよう)、それから慧牙の三人である。


「さーてさて、一体どうなることやら」


 歌うように声音を弾ませながら、慧牙(けいが)はくるりと振り返り、楊鷹(ようおう)に笑いかけた。相変わらずの愛想の良さだが、楊鷹はただただ胸糞悪い。憎たらしさすら覚える。

 楊鷹は佩玉(はいぎょく)を一瞥すると、吐き捨てるような口調で尋ねた。


「どうして、こんな回りくどい真似をするんだ。さっさと俺を捕まえるなりなんなり、すればいいだろう」

「あら、時間がほしいとおっしゃったのは貴方じゃないですか。だから差し上げたまでですよ。ああもう、私ったら優しい」


 慧牙は己の胸に片手を当てて、うっとりとした口調で言った。

 ますます憎々しい。楊鷹の胸の内で、ふつふつと怒りが煮えたぎる。


「ふざけるな」


 楊鷹は鋭い声で言い返した。


「こんな(たわむ)れのようなやり方、まるで遊びか賭け事でもしているつもり……」


 言いかけて、楊鷹ははっとした。口をつぐみ、眼前の神仙をじっと見つめる。

 彼は、相変わらずにこにこと笑っている。どこまでも楽しそうに。

 楊鷹は息を呑み、今しがた口にした言葉を、胸の内で反芻(はんすう)した。そして、思い至る。


(奴らは、遊びか何かのつもりなのか? わざと大勢の人を巻き込んで、悩ませて、その様を楽しんでいる?)


 先ほど、「村人たちを巻き込むな」と楊鷹が言ったとき、慧牙は「面白くない」と答えた。

 腹の底でわだかまっていた熱が、急に冷めた。嫌な汗が噴き出て、じっとりと背中を濡らす。

 慧牙は佩玉を改めて腰に取りつける。その後、その細い指は、焦げた人頭へ向かった。彼は人頭を拾い上げると、縮れた髪の毛を(もてあそ)びはじめた。つまみあげ、ねじり、むしり取る。むしった毛に端正な唇を寄せて、ふっと一息。屑のような細かい毛は彼方へと吹き飛び、瞬く間に見えなくなった。


「まったく、(もろ)いものです」


 ため息混じりにそう言うと、慧牙はすっと目を細め、にっこりと笑った。今日一番と言っても良いほどの、佳麗(かれい)な笑顔。だが、その美しい笑みは、楊鷹の目にはひどく不気味に映った。

 慧牙が楊鷹に歩み寄る。そして、彼はそっと楊鷹の耳元に唇を近づけ、ささやいた。


猶予(ゆうよ)を貰ってどうするのかは知りませんが、精一杯できることをなさってください。とても、楽しみにしておりますので」


 甘美な響きを持った男の声が、するりと耳に滑りこむ。

 楊鷹は確信した。

 彼ら神仙たちにとって、これは遊び。完全に(もてあそ)ばれているのだと。

 わざと回りくどい手を使って、己や村人の心をかき乱し、悩ませる。悩んだ果てに、争いが起こることまで見越しているのかもしれない。

 そして、神仙たちはその人間たちの様子を、高みから見物でもする心づもりなのだ。それこそ、芝居を楽しむように。

 そうできるのは、それだけの余裕があるのは、彼らが圧倒的な力を持っているためだ。甘やかな声で放たれた言葉は、完全に皮肉である。十日あまりの猶予の間にできることなど、一体何があるというのだろう。


 慧牙が体を離す。楊鷹は呆然と、眼前の神仙を見た。彼は美しい笑みを浮かべながら、抱いた真っ黒な人頭をなでている。深淵の闇を湛えた眼窩(がんか)が、真っすぐ楊鷹を射る。ぞくりと体が震える。恐怖を覚えた。

 慧牙がくすりと、小さな笑い声をもらした。


「それでは、また。悲劇になるのか、滑稽(こっけい)な笑い話になるのか、それともまた別の物語になるのか。何はともあれ、期待していますよ」


 そう言うと慧牙は(きびす)を返した。彼は、足音にすら気品を漂わせながら、悠々と去ってゆく。その後に、烈熾狼(れっしろう)も続く。


 ひとまず、危機は去った。だが、何ひとつとして事態は好転していない。

 楊鷹は、手のひらに爪が食い込むほど拳を握りしめ、深呼吸をした。


(平常心だ……。平常心……)


 何度か繰り返していると、恐怖は消えた。だが、熱は(よみがえ)らず、心は冷えたままだった。


 以前対峙した黎颫(りふ)が、生易しく思えてくる。

 慧牙たちにとって、人間は玩具に等しい。そのような態度で迫って来る彼らに対して、一体何をどうすれば良いのか分からない。これでは、村人たちに言い放った「逃げない」という言葉が、嘘になってしまいそうだ。そんな思いがよぎると、じくじくと胸が痛んだ。


「楊兄さん……」


 背後から月蓉(げつよう)のか細い声が聞こえて、楊鷹ははっとして振り返った。

 月蓉が、今にも泣き出しそうな顔で楊鷹を見つめていた。

 楊鷹は握りしめていた手のひらをふっと開く。大事なことを、今やらねばならないことを思い出した。


「月蓉、大丈夫か。どこが痛む?」


 楊鷹は素早く月蓉に近寄ると、そっと肩を抱いて全身に視線を走らせる。強く殴られたのか、髪は乱れ、頬はほんのりと赤味を帯びていた。さらに、左手には血がついている。


「どこか、けがをしているのか?」


 月蓉の目を見て問いかけると、彼女はさっと視線を逸らして左手を背後に回した。その動作を楊鷹は見逃さない。


「手か」

「ち、ちょっと倒れた時にすりむきましたけど、でも、その大丈夫ですから!」

「そんなわけないだろう。戻って手当てをしよう」


 楊鷹は、ひょいと月蓉を横抱きに抱き上げた。


「よ、よよよ、楊兄さん、大丈夫ですから! 足はなんともないですから! 歩くことはできますよ!!」

「だめだ。けが人には変わりないだろう。ほら、ちゃんと掴まってくれ」


 断固として楊鷹が言うと、月蓉はおずおずと遠慮がちに楊鷹の首に腕を回してしがみついた。

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