窮途末路・六
老人は、まじまじと佩玉を見つめている。その背後に居並ぶ男たちも然り。村人たちは皆、虹を閉じ込めたようなきらめきを宿す玉に、釘付けになっていた。怒りの熱が静まり、また別の熱気がやんわりと広がる。
慧牙がさらに告げる。
「きっと、高く売れますよ。なんて言ったって、こちらは霓珠。龍の鱗を磨いて出来る、宝玉です」
「まさか……」
老人が呻く。しかし、その視線は相変わらず佩玉に注がれていた。
本当に龍の鱗なのかはさておき、人の世にはない逸品であることは間違いない。
楊鷹は歯噛みする。
この神仙、異常なまでにしつこい。何故、そうまでして村人たちを渦中に引きずり込むのだ。己の身を切ってまで、彼らを惑わそうとする。ただただ他人を巻き込むだけでなく、余計に状況を引っ掻き回すやり方が、さっぱり理解できない。
士大夫のような細い背中をにらみながら、楊鷹は柄に手をかける。
この慧牙という神仙、やはり今ここで斬って、動きを封じてしまった方がよいのではないか。荘炎魏よりも武力は劣るのだろうが、相当危険な相手だ。
「手荒な真似はやめましょう、と言ったはずですよ」
柔らかい声が機先を制する。赤茶色の長髪が揺れ、慧牙が振り返る。彼は楊鷹を認めると、にこりと笑った。
「それから、これも一度言ったはずです。もしも今ここで私を斬ったら、荘炎魏が黙っていませんよ」
その言葉が終わったとたん、これ見よがしに烈熾狼が吠えた。さらに、同じ獣声が呼応するようにいくつも響き渡る。姿は見えないが、そう遠くない場所に複数の烈熾狼がいるようだ。
楊鷹は、力なく剣の柄から手を離す。そうしながら、せめてもの抵抗という腹積もりで、きっと慧牙をにらみつけた。しかし、対する慧牙も一切怯む様子は見せず、たおやかな笑みでその鋭い視線を受け止める。本当に隙を見せない神仙であった。
慧牙はゆったりと踵を返し、その揺るぎない微笑みを村人たちに向けた。
「皆さんも。これで引いてくださらなければ、ちょっと無理強いをしてしまうかもしれません」
再び獣が吼えた。陰った夏空をさらに暗く染めるような、重々しい咆哮が木霊する。
老人が口を開いた。
「新月の夜まで待ったならば、確かにその玉をくれるのですね?」
「ええ。確かに。仮にこのお兄さんが逃げてしまったとしても、少なくともこの宝玉は差し上げます」
沈黙が訪れる。落ち着きなくうろついている烈熾狼の荒い鼻息が、やたら大きく聞こえる。燃える獣の鼻先が、黒焦げの人頭を小突く。頭はごろりと転がって、暗い洞のような眼を楊鷹に向けた。否、本当に洞であった。焦げた人頭には目玉がついていないことに、楊鷹は気がついた。
楊鷹はごくりと唾を飲み込む。あの暗い眼窩の中に吸い込まれてゆくような錯覚を覚えた。今まさに、己はあの底知れぬ暗がりの中へ突き進もうとしている。そんな気がした。果たして己の内に宿る熱は、混沌とした暗闇にあっても消えないだろうか。
老人がおもむろに言った。
「分かりました。あなたの話に乗りましょう」
村人たちがどよめく。しかし、老人がぱっと片手を上げると、彼らはすぐに静まった。北汀村において、この老人の権威は相当のようだ。
「退くぞ」
老人がそう言って、踵を返して歩き出す。片足を引きずる歪な歩き方だが、しかし一歩一歩は力強い。有無を言わせぬ足並みであった。村人たちも、一人また一人と後に続く。
しばらくするとすっかり群衆はほどけ、やがて足音も聞こえなくなった。
再来する静寂。その静けさの中に残された人間は三人。楊鷹と月蓉、それから慧牙の三人である。
「さーてさて、一体どうなることやら」
歌うように声音を弾ませながら、慧牙はくるりと振り返り、楊鷹に笑いかけた。相変わらずの愛想の良さだが、楊鷹はただただ胸糞悪い。憎たらしさすら覚える。
楊鷹は佩玉を一瞥すると、吐き捨てるような口調で尋ねた。
「どうして、こんな回りくどい真似をするんだ。さっさと俺を捕まえるなりなんなり、すればいいだろう」
「あら、時間がほしいとおっしゃったのは貴方じゃないですか。だから差し上げたまでですよ。ああもう、私ったら優しい」
慧牙は己の胸に片手を当てて、うっとりとした口調で言った。
ますます憎々しい。楊鷹の胸の内で、ふつふつと怒りが煮えたぎる。
「ふざけるな」
楊鷹は鋭い声で言い返した。
「こんな戯れのようなやり方、まるで遊びか賭け事でもしているつもり……」
言いかけて、楊鷹ははっとした。口をつぐみ、眼前の神仙をじっと見つめる。
彼は、相変わらずにこにこと笑っている。どこまでも楽しそうに。
楊鷹は息を呑み、今しがた口にした言葉を、胸の内で反芻した。そして、思い至る。
(奴らは、遊びか何かのつもりなのか? わざと大勢の人を巻き込んで、悩ませて、その様を楽しんでいる?)
先ほど、「村人たちを巻き込むな」と楊鷹が言ったとき、慧牙は「面白くない」と答えた。
腹の底でわだかまっていた熱が、急に冷めた。嫌な汗が噴き出て、じっとりと背中を濡らす。
慧牙は佩玉を改めて腰に取りつける。その後、その細い指は、焦げた人頭へ向かった。彼は人頭を拾い上げると、縮れた髪の毛を弄びはじめた。つまみあげ、ねじり、むしり取る。むしった毛に端正な唇を寄せて、ふっと一息。屑のような細かい毛は彼方へと吹き飛び、瞬く間に見えなくなった。
「まったく、脆いものです」
ため息混じりにそう言うと、慧牙はすっと目を細め、にっこりと笑った。今日一番と言っても良いほどの、佳麗な笑顔。だが、その美しい笑みは、楊鷹の目にはひどく不気味に映った。
慧牙が楊鷹に歩み寄る。そして、彼はそっと楊鷹の耳元に唇を近づけ、ささやいた。
「猶予を貰ってどうするのかは知りませんが、精一杯できることをなさってください。とても、楽しみにしておりますので」
甘美な響きを持った男の声が、するりと耳に滑りこむ。
楊鷹は確信した。
彼ら神仙たちにとって、これは遊び。完全に弄ばれているのだと。
わざと回りくどい手を使って、己や村人の心をかき乱し、悩ませる。悩んだ果てに、争いが起こることまで見越しているのかもしれない。
そして、神仙たちはその人間たちの様子を、高みから見物でもする心づもりなのだ。それこそ、芝居を楽しむように。
そうできるのは、それだけの余裕があるのは、彼らが圧倒的な力を持っているためだ。甘やかな声で放たれた言葉は、完全に皮肉である。十日あまりの猶予の間にできることなど、一体何があるというのだろう。
慧牙が体を離す。楊鷹は呆然と、眼前の神仙を見た。彼は美しい笑みを浮かべながら、抱いた真っ黒な人頭をなでている。深淵の闇を湛えた眼窩が、真っすぐ楊鷹を射る。ぞくりと体が震える。恐怖を覚えた。
慧牙がくすりと、小さな笑い声をもらした。
「それでは、また。悲劇になるのか、滑稽な笑い話になるのか、それともまた別の物語になるのか。何はともあれ、期待していますよ」
そう言うと慧牙は踵を返した。彼は、足音にすら気品を漂わせながら、悠々と去ってゆく。その後に、烈熾狼も続く。
ひとまず、危機は去った。だが、何ひとつとして事態は好転していない。
楊鷹は、手のひらに爪が食い込むほど拳を握りしめ、深呼吸をした。
(平常心だ……。平常心……)
何度か繰り返していると、恐怖は消えた。だが、熱は甦らず、心は冷えたままだった。
以前対峙した黎颫が、生易しく思えてくる。
慧牙たちにとって、人間は玩具に等しい。そのような態度で迫って来る彼らに対して、一体何をどうすれば良いのか分からない。これでは、村人たちに言い放った「逃げない」という言葉が、嘘になってしまいそうだ。そんな思いがよぎると、じくじくと胸が痛んだ。
「楊兄さん……」
背後から月蓉のか細い声が聞こえて、楊鷹ははっとして振り返った。
月蓉が、今にも泣き出しそうな顔で楊鷹を見つめていた。
楊鷹は握りしめていた手のひらをふっと開く。大事なことを、今やらねばならないことを思い出した。
「月蓉、大丈夫か。どこが痛む?」
楊鷹は素早く月蓉に近寄ると、そっと肩を抱いて全身に視線を走らせる。強く殴られたのか、髪は乱れ、頬はほんのりと赤味を帯びていた。さらに、左手には血がついている。
「どこか、けがをしているのか?」
月蓉の目を見て問いかけると、彼女はさっと視線を逸らして左手を背後に回した。その動作を楊鷹は見逃さない。
「手か」
「ち、ちょっと倒れた時にすりむきましたけど、でも、その大丈夫ですから!」
「そんなわけないだろう。戻って手当てをしよう」
楊鷹は、ひょいと月蓉を横抱きに抱き上げた。
「よ、よよよ、楊兄さん、大丈夫ですから! 足はなんともないですから! 歩くことはできますよ!!」
「だめだ。けが人には変わりないだろう。ほら、ちゃんと掴まってくれ」
断固として楊鷹が言うと、月蓉はおずおずと遠慮がちに楊鷹の首に腕を回してしがみついた。




