窮途末路・四
湿った風が吹き、ちりちりと砂礫が舞う。
老人は今一度大きく嘆息した。
「その様子じゃあ、あんたにも只ならぬ事情があるんだろう。だがな、こちらは生死がかかっているんだ。大人しく言うことを聞いてくれ」
それから、老人はわずかに顔を傾けて、楊鷹の背後を覗き込む。
「それに、この村が滅ぶということは、そこの月蓉とかいう娘の命も危ういということじゃないかね?」
淡々とした老人の言葉が、楊鷹の胸を刺す。
「……ちがいます。そんなことはありません」
すがるような弱々しい月蓉の声が、かすかに空気を震わせた。
楊鷹は唇を噛み、目を伏せた。まだ、答えは見つからない。
(神仙たちは一体何がしたいんだ……)
楊鷹は思案する。
慧牙の意図がまったく分からない。なぜ、村人たちを巻き込むのだろうか。どうして彼らの命を秤に載せた。毛翠の話では、桃李虚の神仙は、人を殺すことを禁じられているというではないか。
やはり、その話は嘘だとしか思えない。昨日の襲撃といい、彼らのやり方はあえて関係のない人々を巻き込んでいるように思える。何故、人々を巻き込むのか。こちらの退路を断つため、なのだろうか。しかし、こちらは半人半仙と、赤子になってほとんど力を失った神仙だ。慧牙たちにとって、そのように策を講じる必要があるほどの、敵なのだろうか。
考えたところで、彼ら真意の縁にも当たらない。ただ確実に言えるのは、今は己のみならず、この北汀村の人々にも危機が迫っているということだ。
老人は何度も顎をさすっている。村人たちの方からは、せわしなく土を擦る足音が聞こえた。
未だに、最善の答えは見つからない。だが、このまま時を浪費するのも悪手であろう。誰もかれも待ちあぐね、痺れを切らす寸前だ。
楊鷹はごくりと唾を飲み下すと、おもむろに口を開いた。
「……時間をいただけないでしょうか?」
答えが見つからないならば、見つけるための時間を貰うしかなかった。だが、言いながら楊鷹は思う。これは、単なる姑息な言い訳なのではないかと。
老人が、かすかに片眉を上げた。
「それは、どういうことですかな」
「言われるままに、貴方たちに従うことはできません。その慧牙たちに見つかったら、こちらも命がありません。ですから、考える時間がほしいのです」
老人は、じろりと楊鷹を見た。
「一体、何を考えるおつもりですか?」
「それは……」
また楊鷹は言葉に詰まった。
考えたところで、何か対抗する術が見いだせるのか、自信がなかった。己も村人たちも助かる道を望んでも、結局は絵空事。いくら考えたところで、最善はさっさと逃げること、というのはなんら変わらないような気がする。
「そうだよ、考えるって、何を考えるんだ」
「あんたの事情なんか知ったことじゃねぇ!」
「黙って従え!」
気勢に欠ける相手を見て好機と思ったのか、村人たちが捲し立てる。今度ばかりは、老人も止めなかった。責め立てるような鋭い声が、雨霰と飛び交った。
「俺たちに死ねっていうのか!」
「てめぇ一人の命で済むなら、その方が良いに決まってるだろう!」
無情な言葉が飛んでくる。しかしながら、楊鷹とて同じだ。楊鷹にとっても、村人にとっても、お互いの最善は情をかなぐり捨てて、己の命を守ること。「さっさと逃げる」が楊鷹にとっての最善であるならば、「よそ者を切り捨てる」が、村人にとって一番簡単で理に適ったやり方だ。
そう理解しつつも、冷たい言葉は深々と楊鷹の胸に突き刺さった。
喉が詰まるのを感じながらも、楊鷹は言葉を振り絞る。
「……時間をください。その間に、お互いが助かる道を考えます」
楊鷹は同じ言葉を繰り返す。そうとしか言えない己の非力さが、口惜しくてたまらない。
「うるせぇ、そう言って逃げる腹積もりなんだろう!」
「そうだ、そうだ! そんなこと言って、どうせ見捨てるんだ!!」
どうせ見捨てる。その言い草には、彼らが過去に負った傷が透けていた。
故郷から追い立てたあの役人たちと同じように、お前も見捨てるのだろう――。
楊鷹の心の奥底で、ばちりと何かが爆ぜる。怒りに似た激情が吹き出して、惑う気持ちを一息に飲み込んだ。
「見捨てない!」
楊鷹は吼えるように叫ぶ。
大声に怯んだのか、ざわついていた村人たちが、急に静まる。
しかし、老人は動じなかった。彼はじっと佇んだまま、楊鷹を見つめている。その垂れたまぶたから覗く瞳には、光が無かった。底知れない泥沼のような瞳、昏い瞳だ。
老人は、しわだらけの色褪せた唇をゆっくりと動かした。
「そんな言葉、信じられるとでも?」
しわがれた声は、冷たく重い。冷や水どころか氷塊を浴びせるような答えには、しかと怒りがにじんでいた。見捨てられた人間が抱える冷えきった怒りは、疑心となって牙を剥く。
けれど、楊鷹の内に生まれた熱は収まらない。再び、叫ぶように言った。
「俺は、あの官吏と同じようにはならない。なりたくない!」
「あーっと、手が滑った!」
突然、喧騒の場にはそぐわない、素っ頓狂な声が響く。何事かと、楊鷹が素早く顔を上げれば、黒い毬のようなものが転がってきた。古びた油に似た、酸っぱい異臭が漂う。村人の誰かが、「ひっ」と小さな悲鳴をもらす。楊鷹もすぐさま気がついた。
黒い毬のようなもの。それは焼け焦げた人の頭であった。全体は炭のように真っ黒だが、ところどころにやたらと鮮やかな紅色が混じっている。黒と赤の斑の中で、辛うじて目と鼻、それから口の凸凹は確認できるものの、元の顔貌はまるで想像もつかない、無残な有様であった。
「失敬、失敬。盛大に手が滑ってしまいまして。いやぁ、迂闊でした」
井戸端の世間話に加わるような雰囲気で、青年が楊鷹たちの方へ歩み寄ってくる。青年は深衣をまとい、まるで士大夫のような出で立ちをしていた。腰に下げる玉虫色の佩玉はなんとも高価そうで、貴人が帯びる逸品のようだ。足運びにも気品があり、一歩進むたびに緩やかに束ねた赤茶色の髪がなびく。
その青年の背後にちらつくのは、炎のように揺らめく赤い毛並み。青年は、一頭の烈熾狼を引き連れていた。
楊鷹は、月蓉をかばうように身構え、腰に差した剣の柄に手を添える。それから、きっと青年をにらみつけた。髪型や服装に見覚えはない。だが、柔和な笑みを湛えたその顔はよく覚えている。神仙、慧牙である。
慧牙は楊鷹たちの目の前までやって来ると、ピタリと足を止めた。慧牙の一歩後ろで、烈熾狼も立ち止まる。
おずおずと老人が口を開いた。
「……この通り、お探しの人物は見つけました」
「ええ、お見事です。ですが……」
慧牙は老人に微笑みかけると、楊鷹に向き直った。
「時間がほしいとおっしゃっていましたね?」
じっと慧牙からは目を離さずに、楊鷹は慎重に言った。
「ほしい、と言ったらどうするんだ」
にこっと口の端を上げながら、慧牙は袖をさばいて片手を差し出した。
「いいでしょう。差し上げます」
「はっ……」
楊鷹の口から声がもれる。
彼の言葉の意味が分からない。もう見つけたではないか。ならば、さっさととっ捕まえればよい。どうして、そうしない。
初めて会ったとき、彼は「戦いは不得手」というようなことを言っていたから、できないのか。だったら、後ろに控える烈熾狼をけしかければよい。もしくは、仲間である荘炎魏を呼んだっていい。何故、何も手出しをしない。
神仙の意図を探ろうと、楊鷹は慧牙を凝視する。神仙はたおやかに微笑んでいる。雅な笑みに隙はなく、彼の胸の内をひた隠しにしていた。表情からは、まったく読めない。
「どういうことだ!」
「もう、俺たちは関係ねぇ!」
文句を言う村人たちを、慧牙は手で制した。
「まぁ、そうおっしゃらずに。覚悟を決める時間くらい、あげてもいいじゃあありませんか。あなた達だけでなく、こちらのお兄さんも命がかかっているんですから」
「ふざけ……」
「少し、黙っていただけますか?」
荒ぶる村人の言葉を、慧牙はぴしゃりと遮った。笑みを湛える口元から放たれたとは思えないほど、冷たい声であった。
どよめきが静まり、沈黙が広がる。誰も彼も凍りついたように動かない中、慧牙だけが悠々と足をさばく。彼は改めて楊鷹へと向きなおった。
楊鷹は、剣の柄をしかと握る。とたん、慧牙は形の良い眉を跳ね上げた。
「あら嫌だ。物騒な真似はやめましょう? これは交渉の場です。こちらも手出しはいたしません。それに、今ここで私を斬ったら、荘炎魏が怒り狂うかもしれませんよ?」
烈熾狼が低く唸る。楊鷹ははっとして、烈熾狼を見た。
「ほら、おやめなさい?」
慧牙が柄を握る楊鷹の手に触れた。男にしては柔らかい手だ。だが、人のものとは思えないほど、冷たい。そして、その冷たさは強かだった。すっかり熱を奪ってしまうような、圧がある。
楊鷹は、そろそろと柄から手を離す。慧牙も手を離し、にっこりと笑った。
「いい子です。そんないい子のお願い事は聞いて差しあげますよ。どのくらい時間がほしいのですか?」
「いや……」
楊鷹が口ごもると、慧牙はわざとらしく瞠目した。
「おや、ご自身でおっしゃったのに、決めていないのですか?」
白魚のような指を顎に添えて、慧牙は「うーん」と思案した風で唸る。その声も、頭を左右に傾げる様も、やはりわざとらしい。
「一昨日満月でしたから、次の新月とかどうですかねぇ……。ちょっと占ってみますか」
慧牙はぱっと顎から手を離すと、己の袖をまさぐって小袋を取り出した。その様子を楊鷹は注視する。一体何を取り出したのかと警戒したものの、小袋から転がり出たのは、なんてことのない銭であった。
銭を手にした慧牙は、さっとその場にしゃがみこむ。占いにしか目がないのか、長い髪と裾が土に擦れても気にする素振りはない。
彼は銭を両手で包むと、目を閉じた。それから、ぴたりと合わせた両手を上下に振る。銭がぶつかり合う甲高い音が、静寂の中でささやかに響く。
この神仙の勝手なふるまいに付き合う必要などないはずなのに、楊鷹は彼の占いをじっと見守っていた。先ほど荘炎魏の名前を出されたということもあるが、それだけではない。この慧牙という神仙、まるで隙がないのだ。
白いたおやかな手が、ぴたりと止まる。
「さて、どうなるでしょう」
慧牙は、手の中の銭を地面に並べ始めた。目を閉じているというのに、男の指先は滑らかに動く。あっという間に、六枚の銭は縦に真っすぐ列を作った。




