窮途末路・三
食事をすませると、楊鷹は身なりを整えた。煤で汚れた顔や手足を洗う。右頬の刺青隠しに貼っていた膏薬も、煤で黒くなってしまったので、はがす。そして、荷の中に入っていた新しい膏薬を貼りつけた。
上衣の胸元や袖には煤のみならず血もついており、さらにはところどころ焦げていた。なかなかの惨状だが、洗うにも新調するにも時間が惜しい。今は気にしていられない。
身なりを整えた後、改めて荷物を確認した。麻の荷袋の中には膏薬の他に、食料や水筒、火打ち道具などが入っていた。それだけでなく、少量の路銀まであった。月蓉の暮らしを思えば、少ない金額ではない。一体どこから捻出したのだろうか。彼女の厚い心遣いはただただありがたく、そしてやっぱり胸が痛む。この痛みがどこから来るのか、楊鷹にはよく分からない。こんなにも身を切らせてしまった申し訳なさ、だけでもないように思えた。
その気持ちが、楊鷹を引き留めた。
休み、食べ、準備はすっかり整った。出立できる状態に至ったにもかかわらず、楊鷹はためらった。月蓉が戻って来ないのだ。ここまでしてもらって、何も言わずに旅立つのは気が引ける、というより嫌だった。どうしても、彼女に一言別れの挨拶をしておきたい。さっさと発つのが良いとは理解しつつも、彼女に対する情は捨てられない。
小屋の中に敷いてあった即席の寝床も、すでに片付けてしまった。楊鷹と毛翠は、むき出しの地べたに直に座っている。
「まだ出発せぬのか?」
「……月蓉に挨拶したいんだ」
「それは、そうだが……」
毛翠はちらりと納屋の扉を見やる。扉は物音ひとつ立てず、ぴくりとも動かない。
毛翠の言いたいことも分かる。このやり取りもすでに三度目だった。
「少し、様子を見てくる」
もしかしたら既に帰っていて、主屋の方で何か用事をしているのかもしれない。
楊鷹は仙器を腰に差した。それから、空の皿を持って立ち上がると、納屋を後にした。
外は不気味なほどに静まり返っていた。楊鷹は足早に主屋の方へ向かう。
軒下に人影はなかった。昨日、李白蓮が座っていた椅子も、今は空っぽだ。そっと正面の扉から中に入ってみる。左手は厨房になっており、かまどと甕、それからまな板や食器が置かれた長いつくえがあった。まな板の横に食器を置いてから、楊鷹は室内をぐるりと見回した。やはり、しんとしており、人の気配がない。かまどの火も消えていた。灰が崩れる微かな音が、やけにはっきりと響く。
奥の部屋にでも、いるのだろうか。そう思い、足先をそちらに向けた、その時。
「いい加減、吐け!!」
「きゃあっ!」
男の怒声に続いて、女性の叫び声が響いた。その叫び声に、楊鷹の体は素早く反応する。さっと体を翻し、李白蓮の家を飛び出した。
叫び声は、月蓉の声だった。
声の聞こえた方向へ急ぐ。漆喰がはげた家の角を曲がると、道の真ん中に人だかりが見えた。継ぎはぎだらけの粗末な衣をまとった男たち数人――おそらく村人だろう――と、彼らの対面にうずくまる月蓉。
ぞわりと楊鷹の肌が粟立つと同時に、再び怒声が響いた。
「嘘を吐くな! もっと痛い目にあいたいのか!」
叫んだ男が月蓉ににじり寄る。
楊鷹は叫んだ。
「やめろ!」
瞬間、男が足を止め、月蓉から楊鷹に視線を移す。その隙に、楊鷹は全力で駆け、男と月蓉の間に滑りこんだ。
「なんの騒ぎだ。彼女が何をした」
楊鷹は、男をにらみつけながら尋ねる。その鋭い視線に気圧されたのか、男は後ずさる。だが、その男の背後に群がる村人たちは、怯まなかった。
「こいつだ! こいつのことだ!」
「やっぱりいるじゃねぇか! この女、嘘をついていやがった!」
やいのやいのと口々に声を上げ、楊鷹に指を突きつける。
「兄さん、逃げてください……」
か細い声で月蓉が言った。その声は楊鷹の耳に確かに届いたが、しかし言っている言葉の意味がさっぱり分からない。
(逃げろ、とはどういうことだ……?)
戸惑いがちに振り返る。
月蓉が頬を押さえながら、上体を起こしていた。顔を殴られでもしたのか、押さえている手の下の頬が薄らと赤い。黒い髪も、すっかり乱れてしまっていた。
「月蓉、大丈夫……」
「いいから、早く逃げてください」
切羽詰まっているような、切実な月蓉の声が、楊鷹の言葉を遮った。
村人の一人が、すかさず叫ぶ。
「のこのこ出てきたところを、逃がすかよ!」
じゃり、と土を擦る音が聞こえた。楊鷹は前方に向き直る。
目を尖らせた若い男が二人、楊鷹に詰め寄る。
揉め事の渦中に、いつの間にやら巻き込まれている。それは理解できた楊鷹であったが、どうしてそのようなことになっているのかは、やはり分からない。どうやら村人たちから怒りを向けられているようだが、よそ者といえども何かしでかした覚えはなかった。
楊鷹はさっと手を掲げた。
「待ってくれ。話が分からない。一体どういうことなんだ?」
若い男の一人が、かっと目を剥いた。
「てめぇを連れて行かないと、俺たちは殺されるんだよ!!」
やけっぱちのような叫びがこだまして、楊鷹の心を強かに撃った。ひどく嫌な予感がほとばしり、背中に脂汗がにじむ。
母の教えを念じて平静を取り繕うと、楊鷹は問うた。
「何がどうして、そんなことになったんだ?」
「うるせぇ! つべこべ言ってねぇで、大人しくこっちに来い!」
若者たちは質問には答えずに、勢いよく楊鷹につかみかかった。
楊鷹は右へ左へと軽やかに足をさばき、己を狙って伸びてきた手をかわす。盛大に空を掻いた若者たちは、その素早い身のこなしに驚いたのか、きょとんとした表情を浮かべた。
「お前たち、落ち着け」
落ち着いた、しわがれた声が響く。
村人たちの塊から、一人の老人が進み出てきた。老人は背が低く、左足を引きずるようにして歩いてくる。彼は若者たちのところまでやって来ると、片手を振った。
「ほら、下がれ」
老人は、北汀村の顔役か何かなのだろう。若者二人は楊鷹を恨めしそうに一瞥するも、言われるままに後ろに下がる。
老人はじろりと楊鷹をねめあげた。
「貴方は、昨夜、開心林で火事があったことを知っていますかな?」
楊鷹はどきりとした。それでも、すぐさま母の教えを思い出して、「はい」と冷静に頷く。
老人は、一つ息を吐いてから言った。
「……さっき、慧牙と名乗る男がやって来ましてな。それで、わしらにこう言ったんです。『若白髪のような髪に緑の目の男と、そいつと同じ目の色の赤ん坊を連れて来い。もし連れて来れなければ、開心林と同じようにこの村も滅ぼす』とね」
嫌な予感は的中した。慧牙とは山道で遭遇した、酒売りに変じていた神仙の名だ。この不可解な揉め事には、神仙が関わっている。案の定、ではあったものの楊鷹は絶句した。頭の中が真っ白になる。まるで当たってほしくない予感であった。
楊鷹が呆然としている間も、老人は痩せた声で滔々と語る。
「初めは何の話かと思いました。開心林の火事のことも、知りませんでしたからな。それで、取り合わないでいましたら、慧牙は焼け焦げた人の頭を見せつけてきましてね。こうなりたくなかったら、というわけです。それから、慌てて人を走らせてみたところ、盧西村で開心林が焼け野原になったと、騒ぎになっておりました。ですから、どうにも慧牙の話を無碍にできなくなりましてな」
「そういうわけで、こっちはてめぇを連れてかねぇといけねぇんだよ!」
「そうだ! 分かったか!」
一息置いた老人に続けて、村人たちが口々に叫ぶ。異様な熱気が沸き立つ。
楊鷹ははっと我に返った。腑抜けている場合ではない。昂る村人たちを眼光鋭くにらみつけ、牽制する。
「なんだ、やる気か?」
「そのつもりなら、力づくでも捕まえるぞ!」
村人たちが前のめりになる。今にも飛び出さん、といった様子だ。そんな彼らに向かって、老人はまた大きく手を振った。人々は急に静かになる。
楊鷹を真っすぐ見つめながら、老人は言った。
「そういうわけで、我々と一緒に来ていただきたい」
背後に控える村人たちとは異なり、老人の声は穏やかだった。穏やかな声で、酷な要求をしてくる。
その要求は、楊鷹にとって死罪を宣告されるのに等しい。このまま村人たちに従って、慧牙のもとに身を晒せば、間違いなく命はない。慧牙のもとには、荘炎魏もいるはずだ。彼の神仙に敵わないことは、身をもって知っている。だから、今、逃げようとしているのだ。
村人たちの要求は呑めない。おそらく、己が命を守ることを考えれば、ここでの最善は、村人たちに対して強引な手を使ってでも――それこそ力づくで――逃げること、だろう。
(だがそれでは、彼らが殺される……)
楊鷹は燃え上がる開心林の光景を思い出す。鼻の奥で、脂の焦げる嫌な臭いが立ち込める。慧牙が「滅ぼす」と言ったのであれば、彼らは間違いなく完膚なきまでに叩きのめすように思えた。
楊鷹の胸がじりじりと灼けるように痛む。また、冷酷になるしかないのか。そう思うと、胸の痛みが強くなる。
(どうすれば、どうすればいい……)
考えても、楊鷹は答えを見つけらない。考えれば考えるほど、あらゆる答えがその場しのぎの嘘にしかならないことが分かり、だんまりを貫くしかなかった。




