窮途末路・一
長い長い、鶏の鳴き声が響いた。気がつけば、空は明るく色づき始めていた。
楊鷹のかたわらでは、紙銭が燃えていた。その焚火から立ち昇る煙が、朝焼けに吸い込まれてゆく。煙の溶ける淡い空は切なさを帯びて、楊鷹の胸に迫った。
誰にも朝は等しくやって来る。生きてさえいれば。死んでしまえば、夜明けも何もない。
楊鷹は、眼前の盛り土に対して、三礼した。深々と額づいて、一心に祈りを捧げる。煙のにおいが、鼻の奥にしみた。
楊鷹が祈りをささげる盛り土は、超慈の鸕鷀、泰の墓であった。
開心林を脱出した楊鷹と超慈は、船に乗って盧西村まで戻ってきた後、二人で泰を埋葬した。
血で汚れた泰の体を丁寧に清めてから箱に収め、超慈の家の鸕鷀小屋のそばに埋めた。それから、墓を作り、大好きだった餌――超慈が釣って来た鰻――を供え、紙銭を焼いた。
そうしていたら、夜が明けてしまった。
楊鷹はゆっくりと体を起こした。ちらりと脇を見やる。
超慈が背中を丸めて座っていた。彼は泰の遺品である黒い尾羽を手中で弄びながら、ぼんやりと虚空を見つめている。まるで抜け殻にでもなったかのような、虚ろな有様だ。昨夜、喬徳に対して見せた威勢のよさは、すっかり消え失せている。
「すまない」と、また謝罪の言葉が出そうになって、楊鷹はとっさに口をつぐんだ。何度謝ろうとも、泰も尖も戻って来ない。むしろ、また謝ってしまうと、彼を怒らせてしまう気すらした。
楊鷹は拳を握りしめると、立ち上がった。
「そろそろ戻る」
「ああ……」
答える超慈の声に、力はない。すっかり弱った彼を置いてゆくのは忍びなかったが、どうにかする手段を楊鷹は持ち合わせていない。
楊鷹は、母が亡くなった時のことを思い出した。その時が近いと覚悟をしたうえでの死でも辛かったのだ。突然家族を奪われる悲しみは、計り知れない。そう思えど、楊鷹はどうすればいいか分からなかった。どんな言葉を貰っても、そう簡単には悲しみが癒えないことを、身をもって知っているために。
「泰も尖も……安らかに眠れることをを祈ってる」
せめてもの気持ちでそう声をかけてから、楊鷹は踵を返して歩き出した。
体はひどく重たかったが、それでも楊鷹は急ぎに急いで、北汀村をめざした。待っている月蓉と毛翠が心配しているに違いなかった。それに、一刻も早くこの場所から逃げなければならない。神仙が、荘炎魏がすぐそばまで迫っているのだ。
生まれたばかりの陽光が楊鷹の背中を射る。その熱に追い立てられるようにして、楊鷹は一心不乱に足を動かした。
そうして、すっかり日が昇りきった頃、楊鷹は李白蓮の家へと到着した。そろりそろりと主屋の前を突っ切って、裏手にある納屋へと向かう。そうして、扉を開ければ、寝床のそばにいた月蓉がはっと振り返った。彼女の姿を見たとたん、楊鷹はほっと安堵した。まるで家に帰って来たような気分だ。緊張がほぐれたからか、疲れが全身にのしかかってくる。だが、そうそうのんびりとはしていられないので、楊鷹は足早に月蓉へと近づいた。彼女の方も、さっと立ち上がって楊鷹へと近寄った。
「楊兄さん、おかえりなさい。なかなか帰って来ないので、心配しておりました。剣はどうなりましたか?」
不安そうな表情の月蓉に対して、楊鷹は帯の間に差している剣を視線で示した。
「剣は取り返した。だが、まずいことになった」
「まずいこと、ですか?」
「ああ。毛翠は?」
楊鷹が尋ねると、月蓉はわずかに体を捻り視線で寝床を示した。そこには、寝っ転がる赤子の姿があった。
「夜中まで起きて待っていらっしゃたのですが、持たなかったみたいです」
楊鷹は後ろ手で扉を閉めると、寝床へと近づいた。
むしろと布を重ねた簡素な寝床で、毛翠はすやすやと寝息を立てている。小さな口の端からは、よだれが垂れていた。昨夜の出来事を何も知らないとはいえ、あまりにも暢気な寝姿である。微かないら立ちを覚えながら、楊鷹は膝をついて声をかける。
「おい、起きろ。寝ている場合じゃない」
狭い眉間がぴくりと動く。起きるのかと思いきや、
「楊麗……すまぬ」
と、目を閉じたまま呟いた。寝言だ。
むにゃむにゃと不明瞭な言葉であったが、確かに毛翠は母に対する謝罪の言葉をもらした。前にも、こんな風に謝っている彼の声を聞いた。
楊鷹の心がすうっと冷える。
(何度詫びているんだ。そもそも、母上の夢を見る資格なんかないだろうが……)
家族のことなど放り出して消えたくせに。まだ母のことを想っているのか。
冷えた心の端から、じわりじわりと嫌悪が染み出てくる。しかしその苦い気持ちは毛翠のみならず、己にも向いているように感じられた。ふいに、この場から消えて無くなりたいような、そんな衝動がよぎる。
楊鷹は、一度大きく深呼吸をした。それから、赤子の柔らかい頬を叩く。意識して軽く叩いたつもりだが、思いのほか力がこもっていたのか、はっきりとした乾いた音が鳴った。
「おい、起きろ」
そう言う声も、刺々しい。
しかも、毛翠は起きない。どこまでも暢気な赤子を、楊鷹はにらみつけた。
柔らかい朝日にくるまれて眠る赤子の姿が、無性に憎々しく思えてくる。さっさと起こしたいものの、先ほどよりも強い力を込めてしまいそうで、手が出せなくなる。
楊鷹が動けずにいると、月蓉が毛翠に手を差し伸べた。彼女は、赤子の腹を優しく叩きながら呼びかけた。
「毛翠さん、起きてください。楊兄さんが返ってきましたよ」
「ふぁっ?」
毛翠がおもむろにまぶたを引き上げる。ようやっと目を覚ました。
「お、おう、戻ったか……。すまぬな、待ち切れずに眠ってしまった」
毛翠は楊鷹を認めると、へらりと笑った。
楊鷹はふっと鋭く息を吐くと、わずかに視線を逸らしながら言った。
「寝ている場合じゃない。まずいことになった」
「仙器、取り戻せなかったのか」
「それは、取り戻した」
楊鷹は剣を一瞥すると、すぐさま「だが」と続ける。
「神仙に……おそらく荘炎魏に襲われた」
「なんだと!?」
獣もかくやと思わせる俊敏さで、毛翠が跳ねおきる。
「お前、奴とまたやり合ったのか!」
「いや、直には戦っていない。烈熾狼に襲われたんだ。喬徳の屋敷に行ったら、突然、烈熾狼の群れが現れた。人が食い殺されて、その混乱で火事が起こり、喬徳の屋敷どころか開心林自体がひどいことになった」
「なんと……」
呆然とした表情を浮かべながら、毛翠は絶句した。
楊鷹のいら立ちが募る。我関せずというような、あどけない表情が鼻につく。見た目が赤子だから、そんな表情になってしまうのは仕方がない。だが彼の中身は神仙なのだ。烈熾狼を引き寄せた原因なのだ。
「桃李虚の神仙は、無闇に人を殺してはならん、という決まりがあるのに……」
「そんな決まりがあるとは思えないような惨状だったがな」
ぽつりとつぶやいた毛翠に対して、楊鷹は吐き捨てるように言う。昨夜の惨状が、胸の内によみがえる。首のない死体、燃え盛る街、食い殺される鸕鷀たち。それらを置き去りにして、逃げてくるしかなかった自分。
心に渦巻く嫌悪といら立ちが、はっきりと己に向いた。爪が手のひらに食い込むほど、力一杯拳を握る。
(平常心……)
母の教えを唱える。だが、あまり効果は無かった。拳を握りしめたまま、楊鷹は口を開く。
「烈熾狼が出たってことは、使い手の荘炎魏だって近くまで来てるということだろう。早くここを離れた方が良い。俺たち自身だけでなく、さらに関係ない人を巻き込むことになるかもしれない」
幼い表情が強張った。
「そうだな。確かにそうだ」
そう言って、毛翠は唇を噛む。
楊鷹は月蓉へと振り向いた。
「そういうわけで、月蓉。今日中には、ここを発つ」
「あ、あの、楊兄さん」
月蓉が、問いかけるように呼びかけた。
「なんだ?」
楊鷹が応じると、月蓉はきゅっと眉間にしわを寄せた。随分と深刻そうな表情を浮かべながら、唇をなめる。物言いたげな様子だが、しかしその唇は閉じたまま。
「月蓉、どうした?」
楊鷹は努めて口調を和らげながら、再度尋ねる。
わずかな沈黙の後、彼女は今にも震え出しそうな、頼りない声で言った。
「……出発されるなら、私も一緒に行かせてください」
楊鷹は面食らった。思わぬ申し出であった。




