凶炎の一夜・八
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桃李虚は美しいところだ。広大な桃園をはじめとした悠遠な景色の数々は素晴らしく、しかもそれらは変わらない。永遠に目を楽しませてくれる。
しかし、桃李虚は少々退屈なのが残念だ。
かつてはそれなりに自由であったのに、今は決まりごとが多い。殊更、人界に対してはその長い歴史の中で起こった数多の出来事の影響からか、何かと制約がある。神仙がむやみに人を殺めることも、今や禁令となってしまった。故に退屈だ。
だからこそ、久々の血の味は美酒のようにまろやかで、荘炎魏の心を愉悦で満たした。すでにその戯れの一時は終えてしまったが、未だに楽しくてたまらない。
荘炎魏は、にやりと口の端をあげながら、眼下を見やる。
今、荘炎魏が立っているのは盧湖の南側に位置する高台である。そこからは、湖のそばに広がる開心林が一望できた。
その遊興の街は、煌々と燃えていた。もとからだいぶ明るかったが、燃え広がった炎がさらに明るく町を染めている。立ちのぼる黒煙が夜空にくっきりと筋を作り、星月のきらめきを侵す。
荘炎魏は鼻で笑った。相変わらず、人間とはげに愚かなものである、と。
烈熾狼で人を食らったが、やったことはそれだけだ。だから、炎に包まれているあの有様は、人間たちが自らが引き起こした惨状である。逃げ惑う中で灯りでもひっくり返したか。まったくもって愚かしい。
反吐が出るほど、人間とは愚かで汚らわしい。だが、汚らわしいからこそ、いくら手にかけても罪の意識に苛まされることはなく、数も多いから少しくらい減らしたところで問題はない。しかも、すぐに増えるのだから、なおさらだ。
荘炎魏にとって、人間とは蛆ようなもの。そして、その蛆をぶちぶちと潰すのは、なかなかに楽しい。
荘炎魏は、先ほど感じた感覚を思い出す。烈熾狼を操り、人を食い殺したあの感覚。柔らかい肉の感触、血の温かさとにおい。それから、恐怖に慄く醜い表情に壮絶な叫び声。烈熾狼は荘炎魏の分身のようなもの、皆五感がつながっていた。だから、たとえ己がその場にいなくとも、感触や音などを十二分に感じることができた。
やはり、楽しい。一方的になぶり、蹂躙する。これほど気が昂ぶることも、他にないだろう。まさしく、血湧き肉躍る、至上の遊戯である。人間の存在価値は、この遊戯のためだけにある。それ以上のものはない。
荘炎魏は笑いをこぼすと、改めて燃える街を見下ろした。炎と煙に巻かれた街を、舐めるように眺める。
思い出したら、物足りなくなってしまった。今や人殺しは桃李虚では、御法度。だから、多少なりとも節度をわきまえたつもりである。だが、やはりどうにも物足りない。
こうも満たされないのは、邪魔が入ったからか。今宵は、本来の獲物は後回しにひたすら戯れに興じようと思っていたのに、その当の獲物が烈熾狼の多くを始末してしまった。しかも、思いのほか奮戦してくれたせいで、数人、取り逃してしまった。街にいる人間全員を食い殺してやろうと、考えていたというのに。
存在自体が不快でたまらないのに、さらにはこんな邪魔までしてくるとは、半人半仙風情が生意気だ。
腕の古傷がずきりと痛む。この傷は、桃李虚に乗り込んできた半人半仙に付けられたものであり、荘炎魏にしてみれば屈辱の証であった。
楽しかった気持ちが萎えてゆく。荘炎魏は苛立ちを覚えた。
この腹いせもかねて、もう少し潰そうか。この周辺にはまだいくつか、人の暮らす場所があったはずだ。
盧湖の湖面は闇に沈んでいる。明るくなったとき、あの水面が赤く染まっていたら、どうだろうか。朝日を受けて輝く、鮮やかな朱の湖水。それはもう心躍る景勝に違いない。
今さら、禁令を破ることに抵抗は無い。そも、やり過ぎなければおそらく大した問題にはならないと踏んでいる。獲物を仕留めようとした際の、不幸な出来事として済ませられる。あの女仙――玄素元君――は、案外ぬるい。
荘炎魏は目を閉じた。術を行使しようと、集中する。
「私の占いは当たっていましたか?」
ふと声を掛けられて、集中が途切れた。荘炎魏は盛大に舌打ちをしつつも、目を開けた。声の聞こえた方へ振り返る。
竹林の間から人影が現れる。深衣をまとった年若い男、慧牙である。彼は赤茶色の長髪をゆるく流しながら、粛々と歩いて来る。それはまるで絵のような光景だった。月影の淡い光の中、竹を背にして歩くたおやかな青年。
「大方当たっていた。だが、駄犬はいなかったな。子どもの方しかおらなんだ」
荘炎魏は不機嫌に答えると、すぐさま踵を返した。
慧牙が隣に並び、さらに問いかける。
「おや、そうでしたか。では、子どもだけでもやったのですか?」
「いいや。烈熾狼では相手にならなかった。手負いの身であるから、烈熾狼だけ十分かと思ったが、少し甘く見過ぎていたな」
「あらまぁ。それはそれは……」
含みのある口調で慧牙は言う。荘炎魏は盛大に鼻を鳴らした。
荘炎魏は、この士大夫のような神仙を好いていない。理由は二つある。一つは、常ににやにやと笑っており、何を考えているのか分からないところが気に食わない。もう一つは、かつて翠の処遇を巡って対立したためだ。




