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小仙奇譚  作者: 平井みね
第二章
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凶炎の一夜・六

 しかし、いくら風が吹けども、炎の勢いは衰えない。烈熾狼(れっしろう)の波は止まらず、怒涛の勢いで次々とわいてくる。

 しかも、問題はそれだけではなかった。火だるまとなった人間からか、それとも壊れた灯籠(とうろう)から燃え移ったのか、庭木にまで火の手が回っていた。このまま戦い続けていれば、いずれ焼け死ぬ。それに、火の手が屋敷全体に回れば、(せん)(たい)の身も危うい。超慈(ちょうじ)との約束が果たせなくなる。

 もう逃げるべきか。だが、未だ烈熾狼の数は多い。これだけの獣を捨て置いてしまっては、さらなる惨劇が起こるのではないか。

 楊鷹(ようおう)の心の水面が揺れる。

 四方八方からむせ返るような熱気が襲ってくる。じりじりと肌がけた。


(くそ……!)


 毒づきながらも迷いを振り切り、楊鷹は引き際だと決断した。行く手に見える烈熾狼をできる限り斬り捨てながら庭を駆け抜け、御殿の裏へと回り込む。

 そこも、真っ赤に染まっていた。炎色の獣はすでに屋敷中に及んでいたようだ。あちらこちらに死体が転がり、そこに烈熾狼が群がっている。

 楊鷹の背筋が凍りつく。全身が冷たくなる一方で、腹の底はじわりと熱を帯びていた。やるせない。それでも、どうしようもない。楊鷹は血がにじむほど強く唇をかみしめると、足を速めた。もう、冷酷になるしかなかった。どんなに惨たらしい光景を目の当たりにしても、顧みてはならない。凍りつくほど極限まで、心を研ぎ澄ます。息苦しさを覚えたが、構っていたら気持ちが折れる。


 そうしてひた走ると、軒の低い建物が見えた。建物の正面には井戸があり、その周辺には蕪や葉物などの野菜やたきぎが散乱していた。それから、包丁を握りしめた手――胴体はおろか腕すらない――が転がっている。おそらく、ここが厨房だ。と、いうことは。

 楊鷹は周囲に視線を走らせる。厨房の奥にもう一棟、背の高い建物が見えた。あれが喬徳の手下が言っていた(くら)に違いない。楊鷹はすかさず、そちらへ足を向けた。

 倉は無残な有り様だった。屋根が崩れ、木の扉は木っ端みじんに吹き飛び、大きな穴が空いている。その穴から、煌々とした光がもれていた。

 嫌な予感がはちきれんばかりに膨らむ。辺りに烈熾狼の姿はない。それがまた、不吉な予感を掻き立てる。楊鷹は倉までの残りの距離を一足飛びに駆けぬけると、勢いよくまばゆい穴へ飛び込んだ。


 広々とした倉の中は、明るかった。大量の米や麦粉が散らばっており、そこら中が薄雪をかぶったように白くなっている。その白の中に、赤と黒が散っている。

 一匹の烈熾狼が鸕鷀ろじを喰らっていた。獣の足元には、血だまりと大量の黒い羽根が落ちていた。

 炎をまとう異形の獣が、超慈の家族を喰っている。大きく裂けた口の端から、だらりと鸕鷀の長い首が垂れている。


 楊鷹の腹の底にわだかまっていた熱が爆ぜた。全身がかっと熱くなる。叫びたい衝動にかられたが、しかし声にはならず、楊鷹はただ烈熾狼に飛びかかると、一刀のもとに切り捨てた。

 獣が煙となり、月影に溶けてゆく。鸕鷀がぼとりと地面に落ちた。鸕鷀はぐったりと翼を広げたまま、ぴくりとも動かない。楊鷹は剣を鞘に収めると、生気を失った鳥の体をそっと抱き上げた。かろうじて首と体はつながっている。だが、温もりはない。残酷なほどに冷たく重かった。やけに全身が湿っぽいのは、水鳥だからというわけではない。おびただしい出血があったことの証だ。その血がまだ乾いていないのだ。

 もう、助からないことは明白だった。


 楊鷹は足元を見下ろす。黒い羽毛がこびりついた赤い肉塊が転がっていた。おそらく、もう一羽の鸕鷀だろう。彼もしくは彼女は、すでに鳥の形ではなくなっていた。

 さめざめと泣くように、月の光が降り注ぐ。楊鷹はじっと立ちつくし、その淡い月の涙を一身に浴びていた。激情が冷め、代わりに虚しさがわいてくる。


「すまない……」


 楊鷹はそう呟くと、腕の中の鸕鷀の頭を優しくかいた。


 感傷に浸るのも一時、楊鷹(ようおう)鸕鷀(ろじ)遺骸(いがい)を抱いて、喬徳(きょうとく)の屋敷を出た。

 開心林(かいしんりん)の街中も、阿鼻叫喚(あびきょうかん)のありさまだった。喬徳の屋敷と同じようにそこかしこで火事が起こっている。炎と黒煙の合間に、烈熾狼(れっしろう)の影が躍る。人の姿はない。通りには千々となった死体が転がるのみ、である。ぼろぼろの(はかま)をまとった下半身、女性ものと思しき花柄の(くつ)を履いた足に耳飾りのついた耳、どろりとした(はらわた)、と誰も彼も欠片しか残っていない。光も影も一緒くたになり、きらびやかな花の街は朽ち果てようとしていた。

 

 どれだけの人が逃げのびたのだろう。まだ生きている人間が、残されているのだろうか。だが、たとえ生き残りがいたとしても、結局楊鷹一人ではどうにもできない。何もかもが手遅れだ。もはや楊鷹には、抗う術も立ち向かおうという気力も、残っていなかった。己の無力さに打ちひしがれながら、楊鷹は一目散に街中を駆け抜ける。完膚なきまでに叩きのめされ、ただただ敗走する。そんな敗兵のような心持ちであった。

 全身煤まみれになりながら、脱兎のごとく逃げる。そして辿り着いたのは、盧湖(ろこ)(ほとり)であった。

 畔には、一隻(いっせき)の船が陸にあがっていた。(ちょう)兄弟の船である。先に逃げた超慈(ちょうじ)――というより超亮(ちょうりょう)である――が、無事に逃げおおせたのであれば、自身の船のところまで戻ってきているのではないか。そう思った楊鷹であったが、それらしき人影は見当たらない。


(まさか……)


 楊鷹は鸕鷀(ろじ)を抱く腕に力を込める。まさか、彼もこの腕の中の家族と同じ道を辿ってしまったのか。

 嫌な予感を覚えつつ、楊鷹は船へと近づいてその中を覗き込む。上衣が一枚、置いてある。これは、超慈が着ていたものだろうか。しかし、衣があるだけで、人の姿はない。


「超慈……? いや超亮殿?」


 楊鷹は小さな声で呼びかける。すると突然、船の向こうの水面が波立った。その波紋の間から、ぬっと人影が浮かび上がってきた。人影はすいすいと音もなく泳ぎ、あっというまに岸辺へ上がった。

 湖から現れたのは、茶色い髪に厳つい髭面の男であった。上半身は裸であるが、楊鷹の探していた人物で間違いない。しかし、超慈か超亮か、どちらかは定かではない。

 彼は濡れて乱れた髪をなでつけると、口を開いた。


「おかえりなさい。ご無事のようで何よりです」


 落ち着いた口調に丁寧な言葉づかい。どうやら、未だに超亮であるようだ。

 楊鷹は超亮をまじまじ見つめた。全身ずぶ濡れだが、けがをしている様子はなく、彼もまた無事なようであった。安堵しつつも楊鷹は疑問を抱く。何故湖に潜っていたのだろうか。ちらりと湖に視線を投げかける。月光を湛えた湖面は穏やかで、これといった異変は無い。

 その視線の動きから楊鷹の胸中を悟ったのか、超亮は言った。


「身を隠そうと思い、湖に潜んでおりました。私は長い時間、水の中に潜っていることができますから」

「そう、でしたか」

「私に対しても、(かしこ)まらないで結構ですよ」


 ぎこちなく返事をする楊鷹に対して、超亮は気さくな言葉を返す。

 楊鷹の胸がきしむ。約束が守れなかったことを思うと、その気安さが心苦しい。抱いた鸕鷀(ろじ)の冷たさが肌に()み、痺れるような痛みが走った。


「ところで(せん)(たい)は……」


 言いかけて、超亮はすぐに口をつぐんだ。その瞳は、真っすぐ楊鷹の腕の中を見つめていた。

 楊鷹はうつむいた。生気のない緑色の瞳を見つめながら、そっと口を開く。


「申し訳ない。助けられなかった……」

「もう一羽は?」

「獣に食い散らかされて、形を留めていなかった」

「……そうですか」


 超亮が手を伸ばし、鸕鷀の体をなでた。その手つきはひどく優しい。けれども、彼の真顔はわずかに歪んでいた。眉間にしわを寄せ、悲しみをこらえているようだ。

 生前、彼もまた鸕鷀たちを家族のように思い、扱っていたのだろうか。否、鸕鷀以上に兄のことを想っているに違いない。本当に一人になってしまった、兄のことを。


「……兄者は、また理不尽に家族を失ったのですね」


 寂し気な超亮の声が、重く楊鷹の胸にのし掛かる。弟の優しい手つきに、兄の姿が重なった。愛おしそうに鸕鷀をなでていた超慈を思い出す。楊鷹の胸が痛む。息苦しさを覚えて、喉がふさがる。もう、何も言えなかった。


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