凶炎の一夜・二
船を降りて歩くこと間もなく、開心林へとたどり着いた。
湖上から見えた明るさに偽りはなく、盛り場は夜とは思えぬ賑わいを見せていた。提灯や篝火のきらめきがあふれ、そこかしこから嬌声がこぼれる。通りに並ぶのは賭場や酒楼、それから妓楼などもあるのだろうか。酒のにおいにまじって、なにやら甘ったるい香りもする。通りを行く男たちの姿は様々だ。いかにも無頼といった風采の厳つい男に、はだけた胸元から牡丹の刺青が覗く洒落者。上等な絹の袍に身を包んだ、役人のような格好の者もいた。
煌々と綻ぶ花の街。しかし、時折聞こえてくる怒声が、その輝きに影を差す。明かりから離れた暗がりを見てみれば、項垂れて力なく座り込む年若い男の姿があった。虚空を見つめるその様は、まるで生気がない。じわりと滲む毒。やはり、ここはそういう場所なのだった。
超慈の先導で通りを抜け、たどり着いたのは一件の酒店であった。盛り場の顔役が居るとは思えないほど、小ぢんまりとした店構えである。それでも、超慈はためらいなく店に入ってゆくので、楊鷹は後に続いた。
卓と椅子が雑然と並ぶ店内は、がらんとしていた。客の姿はなく、店主と思しき老爺もぼんやりと椅子に腰掛けている。
「ここに喬徳がいるのか?」
この店の常連なのか、慣れた様子で席に着く超慈に対して、楊鷹は尋ねる。
「いいや」
「じゃあ、なんでここに?」
「飯だよ、飯」
ぶっきらぼうに超慈は答える。
戦いの前の腹ごしらえ、ということか。確かに腹が減っていては、力が出ない。しかし生憎、楊鷹には持ち金がなかった。超慈の対面に突っ立たまま、楊鷹は首を横に振る。
「すまないが、俺は今持ち合わせがない」
「うるせぇ、俺のおごりだよ」
「だが」
「ぐちぐち言うんじゃねぇ。俺のおごりって言ったらおごりなんだよ。てめぇだって腹減ってるだろうが。ほら、さっさと座れ」
断ろうとする楊鷹の言葉を、超慈は乱暴な口調で遮った。
しかし口調は荒いくせに、言っていることは親切だ。超兄弟は、弟のみならず兄の方も素直ではないのかもしれない。そして、おそらく弟と同じく兄も頑固なのだろう。断っても、聞く耳はなさそうである。楊鷹が大人しく席に着くと、超慈が尋ねる。
「てめぇ、嫌いなもんはあるか?」
「酒は苦手だ。他は特にない」
「そうか」
超慈は頷くと、早速店主を呼んだ。牛肉に飯、加えてお菜をいくつか。それから、お茶を持ってくるように頼む。随分といろいろ注文したので、超慈はそんなにも腹が減っているのかと、楊鷹はそう思ったのだが違った。どういうわけか、彼はやたらと楊鷹に食べるように勧めてくるのだった。
楊鷹が遠慮しても、案の定超慈は聞かない。全くもって聞かない。彼は「いいから黙って食え」の一点張りであった。仕方ないので、楊鷹はしっかりとご相伴に預かることとなってしまった。小さく地味な店構えであったが、料理の味は上々。柔らかく煮込まれた牛肉を噛みながら、
(ここまでご馳走になったからには、絶対に喬徳に勝たなければならないな……)
と、楊鷹は決意を新たにするのであった。
そうして、腹ごしらえを済ませると、超慈と楊鷹は改めて開心林へ繰り出した。
目指すは、喬徳である。超慈の話では、夜になると彼はたいてい開心林で一番の酒楼で、仲間と酒盛りをしているらしい。
だが、件の酒楼に行っても姿がなかった。店主に話を聞いたところ――正確には超慈が脅して強引に吐かせたのだが――、ここでないなら、おそらく喬徳は自身の屋敷にいるだろうとのこと。
そこで早速、楊鷹たちは喬徳の屋敷へと向かった。きらびやかな大路を抜けて、高台へと向かう坂道を上ってゆく。坂を上りきると、ひときわ立派な作りの門が見えてきた。空へと反り上がる角のような飾りのついた屋根、その軒下には雲の形の彫刻が施されている。堂々たる門構えからは、中の屋敷も相当豪奢であることが窺えた。この豪邸が目当ての場所、喬徳の屋敷であった。
大門の両端には、大振りの赤い提灯が二つ下がっている。そして、男が二人立っており、一人は棒を持っていた。見張りだろうか。なんとも物々しい雰囲気だ。
しかし、超慈も楊鷹も臆さずに、大門めがけて突き進む。
「おい、喬徳はいるか?」
早速超慈が尋ねれば、素手の男が振り返る。
「誰かと思えば超慈か」
そう言って、男はにやにやと笑う。どうやら超慈と顔見知りらしいが、全くもって親しみのない態度である。
男は腕を組み、顎を上げる。
「なんだ、いんちきで稼いだ金を返す気になったか?」
偉ぶった男に対して、超慈はまなじりを吊り上げると啖呵を切った。
「だから、いかさまも何もしてねぇって言ってるだろうが! 泥棒はそっちじゃねぇか! 鸕鷀を返せ!」
「泥棒じゃあねぇよ。正当な対価を貰っただけだ」
「ああ!」と超慈は悲鳴に似た声を上げると、男に一歩詰め寄った。
「中に入れろ。てめぇらじゃ話にならねぇ」
「入れるかよ! 金を返しに来たんじゃないなら、帰りな!」
唾を飛ばしながら男は言い返す。次の瞬間、超慈はぱっと拳を振り上げ、男の顔を殴りつけた。拳は骨に当たったのか、ごつんという鈍い音が鳴る。その動きは電光石火、あまりにも唐突で素早く、誰にも止める間がなかった。
「だから、てめぇらに話をしてるんじゃねぇよ!」
顔を押さえてうずくまる男に向かって、超慈が吠える。
すると、もう一人の見張りがさっと棒を構えた。
「てめぇ! 何しやがる!」
超慈に狙いを定め、男が棒を振るう。すかさず楊鷹は脇から手を伸ばし、振り下ろされた棒の先をはっしと掴んだ。男の一撃は超慈に届くことなく、中空でぴたりと止まる。男が横目で楊鷹を見る。その瞳を鋭く見返しながら、楊鷹は言った。
「俺たちは喬徳に用があるんだ」
言いながら、楊鷹は棒を掴む手に力を込める。男はすっかり怯んでいるのか、棒まで力が入っていない様子。あっさりと奪えそうである。だが、あえてそうはせず、静かに視線で圧をかける。
男がくぐもった悲鳴をあげて、わずかに足を後ろに下げた。それを見て、楊鷹は大きく弾みをつけて棒を離す。勢いよく解放された男は、数歩後ずさって尻餅をついた。痛そうに腰を押さえる男に、楊鷹が一歩二歩と詰め寄ると、彼は慌ただしく立ち上がった。
「喬徳様に知らせてまいりますぅ!」
そう言って棒を放り捨てると、「おい、開けろ!」とがなりながら門扉を叩く。そうして門が開くやいなや、男は転がり込むようにして敷居をまたぎ、屋敷めがけてすたこらと逃げ出した。
超慈に殴られた男の方も、立ち上がる。
「し、しばしお待ちください!」
やっぱり情けない声で言いながら、門の向こうへと走り去ってゆく。
脱兎のごとく逃げ去る見張りたちを、門扉の影から呆然と見つめる男が一人。恐らくこの男が門を開けたのだろう。彼も喬徳の手下なのだろうか。それにしては小柄で、なよなよとした男だ。荒くれ者とは程遠い、頼りない風体である。男が恐る恐るといった調子で、仁王立ちの超慈を見やる。超慈がきっとにらみ返す。案の定というべきか、男は「ひっ」と小さな悲鳴を上げると、あっさり逃げ出した。
突然、がらんとした門前。ただただ明々と照る提灯の光がかえって寒々しく、なんともわびしい。
楊鷹は、うち棄てられた棒をそっと塀に立てかけた。
「そんなご丁寧にする必要ねぇだろ。ほら、さっさと行くぞ」
吐き捨てるようにそう言って、超慈はずいと敷居をまたいで行ってしまう。
殴り込みを敢行している以上、自身も毒の一部である。礼儀も作法も、もはや要らない。「お待ちください」と言っていた手下の言葉に、従う必要だってないだろう。だが、同じ毒にはなりたくないと、楊鷹はそんな風に思う。そんな余裕を保てるような相手なのかどうか、分からないけれども。
静かに一礼をしてから、楊鷹は門をくぐった。




