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小仙奇譚  作者: 平井みね
第二章
72/131

凶炎の一夜・一

 超慈(ちょうじ)曰く。喬徳(きょうとく)は、開心林(かいしんりん)と呼ばれる盛り場を取り仕切っている男であるという。年の頃は三十ほどの長身痩躯(ちょうしんそうく)の男。細身の見た目とは裏腹に腕が立つ彼は、商才や人望ではなく腕力によってその一帯を仕切っているという。喬徳のもとでは力こそ全て。そして当然、喬徳も自身が敷いたそのしきたりに則っている。

 つまり、喬徳のもとへゆき、正々堂々勝負を挑み勝利すれば、剣も鸕鷀(ろじ)たちも返してもらえる、ということらしい。


 薄闇を割るように魚が跳ね、飛沫が散った。

 船はしずしずと、湖面に澪を刻みながら進んでいた。舳先に下げた提灯が薄暗い水面を照らし、光のさざ波を作り出す。

 すでに太陽は山の向こうに姿を消していた。代わりに現れたるは、満月には少し足りない花梨(かりん)のような月。生まれたばかりの夜が、山水を瞑色に染めていた。


 開心林は、盧湖(ろこ)の南側に位置する。

 超慈の船に乗って、楊鷹はその開心林に向かっていた。舳先に立って(さお)でかじを取るのは、もちろん超慈である。船は鸕鷀漁の時に使う(いかだ)のようなものとは異なり、随分と立派なつくりの川舟であった。なんでも、この船はもともと超亮(ちょうりょう)が使っていたものらしい。超亮は漁の手伝いをすることもあったが、船頭としても働いていた、とのことだった。

 荒々しい気性とは裏腹に、超慈は弟の形見の船を丁寧に操っていた。揺れは少なく、急ぐような素振りもない。その操船ぶりからは、兄の慈愛が透けて見えるようだった。


 毛翠(もうすい)月蓉(げつよう)は留守番である。二人とも心配そうな表情を見せたものの、彼女たちを荒事の現場に連れてゆくわけにもいかず、一旦李白蓮(りはくれん)の家に戻ってもらった。李白蓮のもとに戻るのは気まずかったが、しかし月蓉の今の住み処はそこなので仕方がない。事実、月蓉は家仕事のために一度帰りたいと言っていた。なんでも、今は月蓉がほとんどの家事をこなしているらしい。加えて、毛翠が盛大に腹を空かせていたので、二人には北汀村(ほくていそん)に帰ってもらったのだった。


「喬徳は腕が立つのですか?」


 超慈の背中に向かって、楊鷹は尋ねた。

 (はや)る超慈に急かされるままにばたばたと準備を整えて出立したので、あまり喬徳について聞けていなかった。

 超慈は前を見据えたまま、不機嫌な声で答える。


「噂じゃあ、一時期高名な先生から技を習ってたらしいぜ。ただ、破門になったらしい」

「そうですか」


 楊鷹は静かな声で答えた。

 破門になり、しっかりと武芸を治めていないのであればそこまで脅威ではない、だろうか。しかし、油断も過信もあってはならない。相手がどんなに弱かろうと強かろうと、全力で挑むことには変わりない。開心林のしきたりを思えば、そうすることが誠意だ。

 超慈は一つ舌打ちすると、ぐっと大きく漕いだ。


「破門になったのは、その一度だけじゃねぇんだとよ。その後出家したらしいんだが、人妻に懸想(けそう)して、挙げ句その女の旦那を殺そうとしたらしい。それで結局、そっちの道でも破門になったんだとよ」


 楊鷹は絶句した。

 超慈はさらに続ける。


「んで、ここに流れ着いて、前に開心林を取り仕切っていた奴をぼこぼこにして、乗っ取った。まったく、ひでぇ野郎だぜ」

「……確かに、ひどいですね」


 楊鷹が同意すると、超慈は鼻を鳴らした。


「その腕っぷしに物をいわせてよ、好き放題やってやがんだ。例えば、今回みたく賭場でいかさまをしたとか言いがかりをつけて相手の財産を奪うとか、酒店でぼったくるとかな。歯向かえば、ぶん殴って黙らせる。そうやって荒稼ぎした金品を、お役所のお偉いさんに流しているらしいぜ」


 次から次へと、どうしようもない話が出てくる。喬徳は悪辣な話題に事欠かない、根っからの悪漢のようだ。

 しかも、外道は喬徳(きょうとく)だけではなさそうだ。超慈(ちょうじ)の語る《《お偉いさん》》も、相当臭い。


「それで、お役所の方も甘い汁を吸ってしまっているばかりに、喬徳を取り締まることができないと、そんな話ですか?」


 臭ったままに楊鷹(ようおう)が尋ねてみれば、超慈は「ああ、そうだ」と、大きく頷いた。

 案の定、である。喬徳の方もどうしようもないが、甘い汁を吸う方も吸う方だ。行く先々でこうもどうしようもない役人の話を聞くたびに、うんざりしてしまう。再度の絶句の果てに、楊鷹はため息を吐いた。


「あんな野郎、毒だよ毒。もういらねぇよ。今回のことだけじゃねぇ。喬徳の野郎、湖の方までのさばってきやがって、漁場まで狭くなったんだ」


 超慈が忌々しげに吐き捨てる。今回のことだけでなく、彼は前々から喬徳にうっぷんがたまっていたらしい。

 楊鷹はちらと超慈を見た。


(嫌な相手であるのに、それでも喬徳が仕切る賭場に出入りしているのか……)


 そんな呆れがよぎったが、すぐさま思いとどまる。

 嫌な相手の元だろうがなんだろうが、とにかく博打に興じていなければやっていられないほど、彼はまだ哀しみの底にいるのだろう。弟を喪ったという、哀しみの底に。

 急に、超慈の後姿が頼りなく感じられた。木肌が剥がれ今にも倒れてしまいそうな朽木のように、痛ましいほど(はかな)い。楊鷹はそっと目を逸らし、向こう岸を見やった。


 闇の中に、いくつもの明かりが見えた。宵闇とは無縁の、あのきらびやかな一帯が、おそらく開心林(かいしんりん)なのだろう。うるさいほど明々としている。

 まるで陰と陽だ。盧湖(ろこ)の北側、北汀村(ほくていそん)は貧困にあえぎ、その近くの盧西村(ろせいそん)の人々も漁場が狭まり困っている。しかし、開心林はあんなにもきらびやかな光に彩られている。光が強ければ強いほど、陰は色濃く膿んでゆく。眺めれば眺めるほどに、あの明るさが禍々しいもののように思えてくる。


「本当に、毒のような明るさですね……」


 楊鷹がぽつりとこぼすと、突然超慈が振り返った。


「お前さ、その敬語やめねぇ? 大して年変わんねぇだろ? いくつだよ?」

「二十三ですが」

「それじゃあ、一つ違いで俺のが上だな。だが敬語は止めろ。そういう丁寧な口調は聞きたくねぇ」


 暗がりに沈む超慈の顔つきは、よく見えない。だが、盛大に顔をしかめているようだった。

 もしかしたら、超亮のことを思い出してしまうのかもしれないと、楊鷹はそんなことを思った。彼の弟は、随分と落ち着いた口調であった。

 一呼吸の間じっと超慈を見つめてから、楊鷹は答えた。


「分かった。その言葉に甘えて、丁寧な話し方は辞めることにする」


 早速言葉を崩せば、超慈は「おう」と短く返事をして、再び前方を向く。と思いきや、すぐさままた首を回して楊鷹を見た。


「あとてめぇ、剣のことだけじゃなくて、俺の鸕鷀(ろじ)のことも忘れんなよ。つうか、てめぇの剣の方がついでなんだからな」

「分かっている」


 楊鷹はきっぱりと返事をした。超慈はふんと盛大に鼻を鳴らして、今度こそ前に向き直る。

 楊鷹は初めて超慈の家を訪ねたときの様子を思い出す。彼は鸕鷀に声をかけながら、くちばしの付け根の辺りを優しく掻いてやっていた。

 

(せん)(たい)、だったか。大切にしているんだな」


 なんとなしに楊鷹が言えば、超慈はぶっきらぼうな口調で答えた。


「あたりめぇだろ。あいつらは俺の家族なんだよ」


 そう言うならば、残った唯一の家族を盗まれたということか。

 楊鷹の胸がちくりと痛む。

 それきり超慈はすっかり黙りこんだ。それ以上の会話を拒むかのように、彼はじっと前を見据えて、ひたすらに竿を動かす。喬徳の話とは打って変わって、家族についてはあまり話したくないようである。

 楊鷹も口を閉ざす。

 憑きものとなった弟のことも少し聞きたいと思った楊鷹であったが、そうそう聞ける雰囲気ではない。一層(もろ)く見える男の背中は、まぎれもなく哀切に濡れていた。


 沈黙の中、竿は淡々と湖面を割く。かすかな波音を立てながら、船は滑るように進んでゆく。

 気がつけば、煌々とした灯りはすぐ近くまで迫っていた。


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