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小仙奇譚  作者: 平井みね
第一章
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久方振りの父子二人・三

 階段を登り切ると、予想していた通り、こじんまりとした(びょう)が建っていた。しかし、老爺(ろうや)は廟には向かわずに、左手の方に反れてゆく。そうしてたどり着いたのは、奥まったところに建っている簡素な小屋だった。小屋の裏手からうっすらと煙が立ち昇っている。炊飯の良い香りはさらにはっきりしたものになり、楊鷹(ようおう)の鼻を心地よく刺激した。思わずよだれが垂れそうになったが、唇を舐めてどうにかごまかした。

 小屋の中に入ると、老爺は部屋の隅にある小ぶりな卓を示した。


「どうぞ、あちらにお座りください」


 老爺に言われるまま、楊鷹は椅子に座った。もちろん、毛翠(もうすい)を抱いたまま。

 落ち着いた楊鷹とは対照的に、老爺はその後もてきぱきと動き回った。まず、湯を持ってきてくれた。それから、なんと塗り薬に布と包帯まで用意してくれたのである。どうやら、楊鷹が足をひきずっていたことに気が付いていたらしい。得体の知れない赤の他人に対して、ここまで親切にしてくれるとは、どれほど人がよいのだろうか。申し訳なく思いつつも、楊鷹はその厚意に甘えることにした。


「ありがとうございます」


 明かりを卓上に置く老爺に向かって、楊鷹は深々と頭を下げる。すると、老爺はにこにこと笑いながら答えた。


「お気になさらずに。そろそろ(かゆ)も出来上がるでしょうから、今そちらも持ってきましょう」

「何から何まで、本当にすみません」

「いえいえ。たいしたことはありませんよ」


 老爺は軽やかにそう言うと、くるりと体を翻した。だが、小屋の戸口のところで「あ」と声を上げると、楊鷹の方へ振り返る。


「一つ伝え忘れました。その塗り薬なのですが、強い薬なのでお子さんに使う時は薄くぬってください」


 楊鷹は返す言葉に詰まった。せっかくの助言であったが話の内容に心当たりがない。薬を子供にぬる、とはなんの話だろうか。だが、呆けてる間はなかった。


「気遣い……」

「分かりました! ご助言ありがとうございます」


 毛翠が口を開くのとほぼ同時に楊鷹も言葉を発した。異様な幼い声を遮るために。先程ごまかした時よりもさらに素早い反応である。このおかしな状況に慣れてきているのかもしれない。そうであったら、不服である。

 そんな腹の内は隠しつつ、楊鷹は毛翠の頭をなでながら、老爺に対して笑いかけた。ひどく顔が突っ張っているように感じるので、うまく笑えていないかもしれない。

 だが、特段変な顔になっているということはなかったらしい。目の前の老爺は眉をひそめることなく、それどころかますます目尻を下げる。


「それでは、食事を持ってきますので、少しお待ちになってください」


 改めてそう言うと、老爺は外へと出て行った。ひょろりとした後姿が見えなくなると、楊鷹は毛翠を隣の椅子に座らせた。先程の老爺の言葉が引っかかったので、試しに毛翠の袖をめくってみる。あらわになった柔らかそうな白い肌。そこには、ところどころ細かい傷がついていた。裾をめくって足の方も見てみれば、そちらも同じく。血の跡も見て取れた。楊鷹の胸が痛む。まだ赤ん坊と言っても通じるような子供が、一人で荒れ野にいたのだ。無傷ですむわけがない。どうして気が付かなかったのか。

 楊鷹は湯の入った桶と明かりを引き寄せた。


「さっきからわしにしゃべらせないのはどういうつもりだ?」


 不服そうな声が聞こえたので視線を向ければ、眉を吊り上げた毛翠がじっと楊鷹を見つめていた。その言動に、胸のうずきがかき消える。代わりにわき上がったのは腹立たしさ、というよりも呆れであった。楊鷹は無言のまま湯に布を浸すと、そっと毛翠の体をふいた。


「おい、聞いているのか?」


 再度聞こえてくる、不満げな声。やはりすぐには答えずに、楊鷹はただただ手を動かす。傷の周りなど、めぼしい部分を一通りふき終えると、次は塗り薬に手を伸ばす。老爺が教えてくれた通り、少量を指先にとって、一番目立つ腕の傷口にぬった。


「おい!」


 三度(みたび)響く呼びかけ。先ほどよりも語気が強い。楊鷹は手を動かしながら、仕方なく言った。


「よくそんな風に言えるものだな」

「どういうことだ?」


 毛翠が目を瞬かせながら答える。まるで楊鷹の言葉に心当たりがないらしい。呆れを通りこして、げんなりしてくる。一瞬、手当てを止めたくなった。


「だから、そんなぺらぺらしゃべる赤ん坊は普通じゃないんだよ」


 言いながら、よくあの老爺に怪しまれずにすんだとしみじみ思う。いや、内心怪しまれているのかもしれないのだが。

 楊鷹の指摘を受けて、さすがの毛翠もやっと思い当たったらしい。


「悪い悪い。どうもまだ慣れていなくてな」


 毛翠は笑いながら謝った。笑顔はかわいらしいが、態度がなっていない。そうやって己の失態をごまかそうなど、虫が良すぎる。楊鷹がじろりと(にら)みつければ、毛翠は口早に言葉を重ねた。


「すまぬ、本当にすまぬ。お前の言う通り、言葉を話す赤ん坊などおかしな話だな。お前も小さい頃はあーとかうーとか、そんな風にしかしゃべれなかったものな。ああそうか。あのようにすればいいのだな」

「そ、う……」


 楊鷹は言葉に詰まった。毛翠の言葉をすんなりと肯定できない。動かしていた手まで止まってしまった。毛翠が怪訝(けげん)そうに問いかけてくる。


「どうした?」

「なんでもない」


 そう不愛想に突っぱねると、楊鷹は包帯を手に取った。すると、眼前に小さな手の平が突き出される。


「この程度の傷ならもう十分だ。後は放っていてもすぐ治る。ありがとう」


 毛翠はちょこまかと着物の乱れを直す。傷だらけの柔肌が、隠れて見えなくなった。だが、楊鷹の頭の中には、毛翠の傷の有様がまだ残っていた。それから、毛翠の言葉もしつこくこだまする。()()傷の治りが早いらしい。


「ほら、さっさと自分の方もすませてしまえ」


 そう言われて、楊鷹は毛翠から体ごと向きを変えた。手を軽くすすぎ、そっと草鞋(わらじ)を脱ぐ。

 足の裏はひどい状態だった。ところどころ皮が破れて肉が見えている。それに、血や土がこびりついてかなり汚い。

 楊鷹は丁寧に足を洗った。汚れをすっかり落としたところで、塗り薬をぬってゆく。見た目はひどい。だが、しっかり手当をすればすぐに治るはずだ。この程度の傷であれば、すぐに。

 粛々と手当てを進めていたら、ふいに名を呼ばれた。


「ところで、楊鷹」


 あまりにも自然に名前を呼ばれ、もやもやとした気分になってしまう。答える口調が、ついぶっきらぼうになる。


「なんだ?」

「お前は、あんなところで何をしていたのだ?」


 楊鷹は手を止めて黙りこくった。


「また無視か?」

「……別に何をしていたっていいだろう」


 そう強引に話を切り上げて、手当てを再開させる。薬をぬり終わった楊鷹は足の裏に布を当てると、その上から包帯を巻いていった。

 ところが当然、毛翠は黙らなかった。


「そんな答えじゃ、無視と大して変わらんぞ」


 ちらりと横を窺えば、毛翠はぶすっと頬を膨らましていた。それでもだんまりを決め込んで、楊鷹は自分の足に視線を戻した。包帯をしっかり結んで、草鞋を履く。その場で軽く足踏みをしてみた。痛みは感じるが、この程度であれば普通に歩ける。ここにたどり着いた時よりも、ずっとましになった。


「大声でしゃべるぞ。今すぐしゃべるぞ」


 聞えてきた不穏な物言い。反射的に振り向けば、毛翠がわざとらしく息を吸う姿が見えた。さすがに放っておくことができず、不本意ながらも楊鷹は口を開く。


「分かったよ。話せばいいんだろう!」


 楊鷹はため息を吐くと、声を潜めて淡々と言葉を連ねた。


「都で暮らしていたが流罪になって、流刑地の槍山島(そうざんとう)まで行く途中だったんだよ」

「流罪? お前一体何をしたっていうんだ!」


 大声を上げた毛翠に対して楊鷹は眉をひそめる。結局大声でしゃべっているではないか。


「声が大きい」

「しかしだな……」

「別に、流罪になるようなことをした覚えはない。覚えはないが流罪になった。それだけだ」

「いやいやいや。そんなめちゃくちゃな話があるか」

「めちゃくちゃな話でも、まかり通る世の中なんだよ」


 突き放すように吐き捨てる。そもそも、あまり思い出したくない話である。それに、毛翠にはまるっきり関係のない話だ。

 またしても沈黙。気まずい空気が漂う。と、その時。毛翠がぽつりと言った。


「母は……楊麗(ようれい)はどうした」


 少し間をあけた後、楊鷹は振り向きもせずこれまた淡泊に言う。


「……春の終わりに、病気で死んだ」

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