消えた仙器・四
外に踏み出したとたん、ぱっと光が広がった。色濃い青空には、太陽がきりりと白む。明かりの乏しい納屋にこもっていた楊鷹にとって、この夏の光はまぶしすぎた。思わず目をすがめ、片手でひさしを作った。
前方に、軒の低い家が建っていた。あの家が主屋であり、月蓉と李白蓮が寝起きしている場所なのだろう。茅葺き屋根の小ぢんまりとした家は、素朴というにしても粗が目立つ。屋根を覆う茅は先端がぼさぼさとしており整っていない。壁には所々ひびが入っている。
「こちらです」
そう言って、月蓉が歩き出す。楊鷹はその後に続いた。
主屋の脇を通り抜け、正面へと回り込む。茅が飛び出る軒の下、木箱や壺が並ぶ合間に李白蓮がいた。椅子に腰かけ、手にしたうちわで気だるげに仰いでいる。
そこに月蓉が近づいて、声をかけた。
「李おばさん、兄さんと少し出かけてきます」
月蓉が視線で楊鷹を示す。楊鷹は静かに目礼した。
李白蓮は二人を一瞥すると、盛大に鼻を鳴らした。
「もう、帰ってこなくてもいいけどね」
盛大な嫌味だった。楊鷹の腕の中で、毛翠がむずがるように体を動かす。本当にむずがっているのではなく、おそらく何か言い返したいのだろう。楊鷹は毛翠をそっと押さえると、月蓉の隣に並ぶ。それから、李白蓮に向かって頭を下げた。
「大変お世話になってしまい、申し訳ありません。ところで、ひとつお伺いしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「……なんだい?」
李白蓮は唇を曲げながら、無愛想な声で答える。
彼女はいつも通り不機嫌だ。だが、楊鷹は怯まずに尋ねた。
「昨日、月蓉がお尋ねしたと思いますが、私の荷物から剣が消えてしまいました。本当に小さなことでも構わないので、何か覚えていたら教えていただきたいのですが」
月蓉は、まともに取り合ってくれないだろうと言っていた。彼女の言葉を疑っているつもりはないが、しかし実際に聞いてみなければどうなるかは分からない。もしかしたら、とそんな一縷の望みを抱いて尋ねた楊鷹であったが、早速その希望にひびが入る。
李白蓮がきっと目をつり上げた。
「うるさいねぇ。知らないって言っただろうが。わたしゃ、これっぽっちも見てないよ!」
「ですが……」
「ああもう、知らないって言ったら知らないよ!」
すがりつこうとした楊鷹の言葉を、李白蓮はぴしゃりと遮った。
「ほら、出かけるんだろう! さっさと行った、行った!」
李白蓮は羽虫でも追い払うように、うちわを振る。
まるで取りつく島もない。希望はあっさり打ち砕かれた。やはり彼女はまともに取り合ってくれない。
楊鷹は「失礼いたしました」と再度頭を下げる。それから月蓉を促して、彼女と共に朽ちかけた家の門をくぐった。
案内役の月蓉が数歩先を進み、その後ろに毛翠を抱いた楊鷹が続く。
健全な夏空から陽光が降り注いでいるにも関わらず、北汀村はどこかどんよりとしていた。漂う空気が重たく暗い。少し呼吸がしにくいような、そんな感覚に陥る。
ぽつりぽつりと建つ家は、李白蓮の家と同じように、どれもこれも粗末なつくりだ。中には掘っ立て小屋のような家もある。当然、道は整えられているわけがない。石がごろごろと転がる道端で、鶏が数羽地面をついばんでいる。といっても、くちばしの先には貧相な細い草しかなかった。その貧弱な緑を、懸命につついている。鶏たちのすぐそばに建つ家の軒先には、蛙が吊るされていた。すっかり干からびた蛙は、風が吹くたびにわびしく揺れた。
ふと視線を感じ、楊鷹は足を止めた。ぱっと振り返ってみれば、崩れた垣の間から覗きこむようにして、一人の子供が楊鷹をじっと見つめている。垢じみた衣をまとった子供の瞳は、薄暗く虚ろだ。けれども、瞬きせずに視線を注ぐ様は、熱心でもあった。熱心というより貪欲というのが正しいか。あらゆるものに飢える熱が、炭が燃えるようにじわじわとくすぶっている。楊鷹は、胸がひりつくような感覚を覚えた。
「兄さん。行きましょう」
少し遠くから、月蓉の声が飛んでくる。楊鷹ははっとした。見れば、月蓉はだいぶ先に立っていた。
「すまない。今行く」
楊鷹は踵を返し、歩みを再開させる。じりじりとした視線を背中に感じながらも、楊鷹は振り返らずに黙々と足を動かした。
それからすれ違った村人たち――通りかかりの老人も、洗濯物でいっぱいの桶を抱えた女性たちも、畑で働く青年も――皆、先頃の子供と同じだった。質素な衣服をまとい、じろじろとやたらと楊鷹を見つめてくる。
よそ者が気になる、ということもあるだろう。しかし、それだけではないようであった。おそらく、彼らは楊鷹に対して乞うている。金か食べ物か、求めるものが何かは判然としないが。
胸をひりつかせながらも、楊鷹はひたすら先を急いだ。
村を出て川沿いまでやって来ると、人影は無くなった。幾分空気も明るさを取り戻す。潤んだ涼しい風が吹き抜けたとき、楊鷹はようやっと人心地着いた気分になった。
「この川はなんと言うんだ?」
何気なく楊鷹が問い掛ければ、月蓉はくるりと振り返る。
「媚水と言います」
「媚水……というと、珝江の支流だったか?」
「はい。盧湖から流れ出て、やがて珝江と交わります」
言いながら、月蓉は川へと視線をやった。同じように楊鷹も足を止め、川を見下ろす。
きらめきを湛える水は悠々と流れ、川縁では葦がそよぐ。葦原の合間に、鸕鷀(=鵜)や鷺などの水鳥たちが、思い思いにくつろぐ姿が見えた。
ここから川を下ってゆけば、国一番の大河、珝江に至る。それすなわち、大河のかたわらにある円寧府に辿り着く道。そのことを思うと、楊鷹の胸がちくりと痛む。この川を下れば、都へ帰れる。しかし、それは叶わない。そもそも、もはや都には家も何もない。円寧府は今や、遥か彼方の地となってしまった。
「あの、楊兄さん」
おずおずと月蓉が楊鷹を呼ぶ。
「どうした?」
楊鷹が振り向けば、月蓉は萎縮したように肩をすぼめていた。
「あの、李おばさんのこと、ごめんなさい。怒ってばかりで聞く耳をもたず、嫌な思いをさせてしまって」
しおれた花のように、月蓉はうなだれた。
「月蓉が謝ることじゃない。昨日の話で取り合ってもらえないとは覚悟していたし、気にしないでくれ」
和やかに楊鷹は言うも、月蓉は顔を上げようとしない。足元に視線を注いだまま、彼女は言う。
「村の人たちも、ごめんなさい。楊兄さんのこと、じろじろと見すぎでしたよね」
「俺はよそ者だから、見られたって仕方ない。というか、それだって月蓉が謝ることじゃないだろう」
「そんなことはありません。まだここに来て日が浅くとも、私は北汀村の一員ですから。村の人間として、お詫びします」
そう言うと、月蓉は深々と頭を下げた。
彼女もまた北汀村の一員。その事実が、ずしりと楊鷹の心にのし掛かってくる。このまま月蓉も村で暮らし続ければ、あの村人たちと同じ暗い瞳になってしまうのだろうか。そう思うとますます心は重たくなり、臓腑を押し潰されるような息苦しさを覚えた。
「なあ、月蓉」
楊鷹の胸中とは裏腹の、あどけない赤子の声が月蓉を呼ぶ。
月蓉がそっと顔を上げた。
「はい。なんでしょう?」
「お前の住んでる村、やけに陰気だが大丈夫か?」
「おい」
無邪気な毛翠を、楊鷹は語気鋭くいさめた。確かに息がつまるほど暗い雰囲気は異様かもしれないが、そこに暮らす人間に対して率直に「陰気」と言ってしまうのは、不躾にもほどがある。
「すまない。嫌な聞き方をした」
楊鷹が言うと、月蓉は「いいえ」と控えめに首を横に振った。
「毛翠さんの仰るとおりです。陰気なのは、間違いありません」
寂しげな月蓉の声を掬いとるように風が吹き抜け、葦原がさざめいた。




