まさかの再開・二
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暗い水の中を漂っていた。動こうとしても、動けない。肌にまとわりついてくる水はどろどろとしてやけに重たい。水というよりも泥のようだった。漂っているのではなく、沈んでいっているのかもしれないと、楊鷹は気がついた。
(ここはどこだ……?)
そう思っても、どこなのか確かめる気は起こらない。動かないのは体だけではなかった。頭もうまく働かない。意識がぼんやりとしている。
「すまぬ……すまぬ。お前が守り育ててくれた子を……」
遠くから、謝罪の言葉が聞こえてきた。謝罪には似合わない、甲高く舌足らずな声は、楊鷹にとって今や馴染みのもの。だがその声には、これまでに聞いたことのない、痛切な響きが漂っていた。何かに縋りつき、こいねがうような、必死さを感じさせる。
「すまぬ。楊麗……麗」
母の名前が聞こえたところで、楊鷹の意識は急に覚醒した。一息で泥沼から引き揚げられる。
目が覚めた。突然視界が明るくなって、目がくらむ。楊鷹は目をすがめつつ、辺りを見た。
馬小屋のようなところに寝ていた。寝台はなく、地面に筵や布を敷いたところに寝かされている。周囲を囲む壁や天井は、黒ずんでいて傷が目立つ。馬はおらず、部屋の隅には壺や甕、蓑や木箱が乱雑に置いてあった。馬小屋ではなく、納屋のようだ。少しかび臭い。
泥や水は一滴もない。先ほどのあれは夢であったらしい。
けれども、体が重たいのは夢ではなかった。全身が重く怠い。そして脇腹のあたりが痛い。
(何があったんだ……?)
いきなり現実に放り出されて呆然とするのもつかの間、じわじわと記憶がよみがえってきた。
荘炎魏という神仙に斬られ、逃げて、追いつめられて、そして活路を探した結果、川に飛び込んだ。確か、だいぶ川に流されたはずだが、陸に上がった覚えはなかった。
「すまぬ……」
また、聞き覚えのある声が謝っている。どうやら謝罪の声は、現実のものがもれ聞こえてきていたらしい。楊鷹は自らの体を見下ろした。
腹のあたりに、毛翠が縋りつくようにして伏せっている。縋りついてうわ言のように謝っている。
「おい、何をしている……」
楊鷹は呼びかけた。だが、その声は驚くほど掠れて、小さかった。しかも、その一言だけで息が途切れる。こんなの、まるで死にかけの人間だ。
しかし、声になっていないような声であったにも関わらず、毛翠には聞こえたらしい。赤子ははっと顔を跳ね上げて楊鷹を見た。緑の瞳が丸々と見開かれる。
「楊鷹! 目が覚めたのか!」
毛翠が喜々として声を上げる。
楊鷹は顔をしかめた。甲高い声が耳障りだ。それから、そんな風に堂々としゃべってほしくない。
「おお、すまぬすまぬ」
楊鷹の心情を察したのか、毛翠は声を潜めた。
「良かった。なかなか目覚めないから心配しておったんだ」
「何が……」
そう言いかけて、楊鷹は咳き込んだ。やはり、声が上手く出ない。
「無理はするな」
毛翠が眉をひそめた。あからさまに心配そうな表情だ。だが、楊鷹は取り合わず。ひとしきり咳き込んだあと、再度口を開いた。
「何が、あったんだ……」
毛翠は真剣な表情になると、楊鷹の顔に近づいた。そして、ささやき声で話し出す。
「川に飛び込んで、しばらく流されただろう? それで、お前、途中で意識を失ったんだ。わしを木の上に置いて、そのまま流されていってしまった。これはまずいと思ってわしが大声を上げたら、どこからともなく男が泳いで来てわしらを助けてくれたんだ。それで、わしらを岸に引き揚げた後、その男は人を呼んできて、ここまで運んでくれた、と。そういうことだ」
「あー……」
楊鷹は声をもらした。死にかけのような声しか出せないと思ったが、本当に死にかけていたらしい。死にかけたところを、誰かに助けてもらった。
毛翠が、小さな手をきゅっと握った。その握りしめた手の隙間から、黒く光るものが覗いていた。あれは、母の耳飾りの片割れだ。彼が姿をくらます前に、母と分かち合ったもの。
「本当に良かった……。もし目覚めなかったら、わしは……」
毛翠が口をつぐむ。彼の瞳は潤んでいた。楊鷹はそっと目を逸らす。
そのとき、がたりと大きな音がして、納屋の扉が開いた。
大柄な女性が中に入ってくる。けが人が寝ているところに、大股でどすどすと踏み入って来る様は、随分と不躾であった。
女性は楊鷹を認めると、目を見開いた。
「おや、気がついたのかい」
その声はさも意外という風で、驚きに満ちていた。あまり情を感じさせない声だ。
楊鷹は黙って女性を見つめた。全く見覚えのない人物である。
「あんた、わたしの言葉分かってるかい?」
楊鷹が何も言わないためだろう。女性は訝しむように眉をひそめた。
楊鷹はおもむろに頷くと、口を開いた。
「貴方は、どなたでしょうか?」
「この家の人間だよ。あんたの世話をしてやってるんだ」
「そう、でしたか。助けていただき……ありがとうございます」
楊鷹は声をしぼり出すも、最後の方の言葉はほとんど掠れていた。どうしたって、しゃべるのが辛い。息が続かない。毛翠がくしゃりと顔をゆがませ、心配そうに楊鷹の顔を覗き込む。
女性が盛大に鼻を鳴らした。
「けが人やら赤ん坊やらの世話をしている余裕なんか、ないんだけどね」
やはり情のない声と言葉だ。
赤子の不安そうな表情が一転し、きっと眉を吊り上げる。楊鷹はさっと毛翠の手を掴んだ。怒りに任せて変なことをされては、たまったものではない。
女性は仁王立ちで立ちすくみ、じっと楊鷹を見下ろしている。
「それは、本当に申し訳ありません」
がさつく声で言いながら、楊鷹は女性を見つめ返した。
老人というには若すぎるが、女性の髪は白く枯れていた。身につけている衣も、色がくすみ至るところに継ぎが当ててある。
そして、瞳の色がやけに昏い。どんな光も届かない、地底の果てのような深い闇がそこにはあった。
潮騒に似た耳鳴りが聞こえる。楊鷹は、泣いている母の後ろ姿を思い出した。あの打ちのめされた姿が、目の前の女性と重なった。
女性は不機嫌そうにかちかちと数度歯を鳴らすと、口を開いた。
「さっさと……」
「おばさん、食事の用意ができました。冷めないうちに召し上がってください」
戸外から飛んできた声が、女性の言葉を遮った。
楊鷹は視線を動かして扉を見た。壁越しでだいぶくぐもっていたが、外から聞こえてきた声に、どことなく聞き覚えがあった。
女性は一度舌打ちすると、乱暴に扉を開けて外へと出てゆく。
そして、入れ替わりに別の人影が入ってくる。その人物を見て、今度は楊鷹の方が驚いた。思い切り目を見開く。体の辛さすら、一瞬忘れた。
「月蓉……?」
思わず、その名前を呼ぶ。信じられなかったが、信じるしかなかった。目の前の年若い女性は、明らかに見知った人物だ。
丸みを帯びた顔に穏やかな目元、顎には小さな黒子。ひっつめた黒い髪に簪を一つだけ刺した、控えめな髪型。柄のない素朴な茶色い上衣に男が履くような袴という格好は以前と異なれど、見間違えるわけがない。
都暮らしをしていた頃、小間使いとして家で働いてくれていた彼女だ。
楊鷹は、呆然ともう一度名前を呼ぶ。
「月蓉……」
「はい。月蓉です。楊兄さん」
そう返事をすると、月蓉は楊鷹のそばにひざまずき、柔らかく微笑んだ。
楊鷹の目頭が熱くなる。別れてまだ一月程度。それなのにその声と笑顔がやけに懐かしくて、泣きそうになってしまう。
毛翠が落ち着きなく視線を動かし、楊鷹と月蓉の顔を交互に見やる。
「どうして……」
楊鷹は起き上がろうと身じろいだ。だが、体はついてゆかない。腹に痛みが走り、顔をしかめた。
押し止めるように、月蓉がそっと楊鷹の手に触れた。そして、優しい声で言う。
「詳しいことはまた今度お話します。今は体を治してください」




