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小仙奇譚  作者: 平井みね
第二章
56/131

まさかの再開・二

※※※


 暗い水の中を漂っていた。動こうとしても、動けない。肌にまとわりついてくる水はどろどろとしてやけに重たい。水というよりも泥のようだった。漂っているのではなく、沈んでいっているのかもしれないと、楊鷹(ようおう)は気がついた。


(ここはどこだ……?)


 そう思っても、どこなのか確かめる気は起こらない。動かないのは体だけではなかった。頭もうまく働かない。意識がぼんやりとしている。


「すまぬ……すまぬ。お前が守り育ててくれた子を……」


 遠くから、謝罪の言葉が聞こえてきた。謝罪には似合わない、甲高く舌足らずな声は、楊鷹にとって今や馴染みのもの。だがその声には、これまでに聞いたことのない、痛切な響きが漂っていた。何かに縋りつき、こいねがうような、必死さを感じさせる。


「すまぬ。楊麗(ようれい)……(れい)


 母の名前が聞こえたところで、楊鷹の意識は急に覚醒した。一息で泥沼から引き揚げられる。


 目が覚めた。突然視界が明るくなって、目がくらむ。楊鷹は目をすがめつつ、辺りを見た。

 馬小屋のようなところに寝ていた。寝台はなく、地面に(むしろ)や布を敷いたところに寝かされている。周囲を囲む壁や天井は、黒ずんでいて傷が目立つ。馬はおらず、部屋の隅には壺や(かめ)(みの)や木箱が乱雑に置いてあった。馬小屋ではなく、納屋のようだ。少しかび臭い。

 泥や水は一滴もない。先ほどのあれは夢であったらしい。

 けれども、体が重たいのは夢ではなかった。全身が重く怠い。そして脇腹のあたりが痛い。


(何があったんだ……?)


 いきなり現実に放り出されて呆然とするのもつかの間、じわじわと記憶がよみがえってきた。

 荘炎魏(そうえんぎ)という神仙に斬られ、逃げて、追いつめられて、そして活路を探した結果、川に飛び込んだ。確か、だいぶ川に流されたはずだが、陸に上がった覚えはなかった。


「すまぬ……」


 また、聞き覚えのある声が謝っている。どうやら謝罪の声は、現実のものがもれ聞こえてきていたらしい。楊鷹は自らの体を見下ろした。

 腹のあたりに、毛翠(もうすい)が縋りつくようにして伏せっている。縋りついてうわ言のように謝っている。


「おい、何をしている……」


 楊鷹は呼びかけた。だが、その声は驚くほど掠れて、小さかった。しかも、その一言だけで息が途切れる。こんなの、まるで死にかけの人間だ。

 しかし、声になっていないような声であったにも関わらず、毛翠には聞こえたらしい。赤子ははっと顔を跳ね上げて楊鷹を見た。緑の瞳が丸々と見開かれる。


「楊鷹! 目が覚めたのか!」


 毛翠が喜々として声を上げる。

 楊鷹は顔をしかめた。甲高い声が耳障りだ。それから、そんな風に堂々としゃべってほしくない。


「おお、すまぬすまぬ」


 楊鷹の心情を察したのか、毛翠は声を潜めた。


「良かった。なかなか目覚めないから心配しておったんだ」

「何が……」


 そう言いかけて、楊鷹は咳き込んだ。やはり、声が上手く出ない。


「無理はするな」


 毛翠が眉をひそめた。あからさまに心配そうな表情だ。だが、楊鷹は取り合わず。ひとしきり咳き込んだあと、再度口を開いた。


「何が、あったんだ……」


 毛翠は真剣な表情になると、楊鷹の顔に近づいた。そして、ささやき声で話し出す。


「川に飛び込んで、しばらく流されただろう? それで、お前、途中で意識を失ったんだ。わしを木の上に置いて、そのまま流されていってしまった。これはまずいと思ってわしが大声を上げたら、どこからともなく男が泳いで来てわしらを助けてくれたんだ。それで、わしらを岸に引き揚げた後、その男は人を呼んできて、ここまで運んでくれた、と。そういうことだ」

「あー……」


 楊鷹は声をもらした。死にかけのような声しか出せないと思ったが、本当に死にかけていたらしい。死にかけたところを、誰かに助けてもらった。

 毛翠が、小さな手をきゅっと握った。その握りしめた手の隙間から、黒く光るものが覗いていた。あれは、母の耳飾りの片割れだ。彼が姿をくらます前に、母と分かち合ったもの。


「本当に良かった……。もし目覚めなかったら、わしは……」


 毛翠が口をつぐむ。彼の瞳は潤んでいた。楊鷹はそっと目を逸らす。

 そのとき、がたりと大きな音がして、納屋の扉が開いた。

 大柄な女性が中に入ってくる。けが人が寝ているところに、大股でどすどすと踏み入って来る様は、随分と不躾であった。

 女性は楊鷹(ようおう)を認めると、目を見開いた。


「おや、気がついたのかい」


 その声はさも意外という風で、驚きに満ちていた。あまり情を感じさせない声だ。

 楊鷹は黙って女性を見つめた。全く見覚えのない人物である。


「あんた、わたしの言葉分かってるかい?」


 楊鷹が何も言わないためだろう。女性は訝しむように眉をひそめた。

 楊鷹はおもむろに頷くと、口を開いた。


「貴方は、どなたでしょうか?」

「この家の人間だよ。あんたの世話をしてやってるんだ」

「そう、でしたか。助けていただき……ありがとうございます」


 楊鷹は声をしぼり出すも、最後の方の言葉はほとんど掠れていた。どうしたって、しゃべるのが辛い。息が続かない。毛翠(もうすい)がくしゃりと顔をゆがませ、心配そうに楊鷹の顔を覗き込む。

 女性が盛大に鼻を鳴らした。


「けが人やら赤ん坊やらの世話をしている余裕なんか、ないんだけどね」


 やはり情のない声と言葉だ。

 赤子の不安そうな表情が一転し、きっと眉を吊り上げる。楊鷹はさっと毛翠の手を掴んだ。怒りに任せて変なことをされては、たまったものではない。

 女性は仁王立ちで立ちすくみ、じっと楊鷹を見下ろしている。


「それは、本当に申し訳ありません」


 がさつく声で言いながら、楊鷹は女性を見つめ返した。

 老人というには若すぎるが、女性の髪は白く枯れていた。身につけている衣も、色がくすみ至るところに継ぎが当ててある。

 そして、瞳の色がやけに(くら)い。どんな光も届かない、地底の果てのような深い闇がそこにはあった。

 

 潮騒に似た耳鳴りが聞こえる。楊鷹は、泣いている母の後ろ姿を思い出した。あの打ちのめされた姿が、目の前の女性と重なった。


 女性は不機嫌そうにかちかちと数度歯を鳴らすと、口を開いた。


「さっさと……」

「おばさん、食事の用意ができました。冷めないうちに召し上がってください」


 戸外から飛んできた声が、女性の言葉を遮った。

 楊鷹は視線を動かして扉を見た。壁越しでだいぶくぐもっていたが、外から聞こえてきた声に、どことなく聞き覚えがあった。

 女性は一度舌打ちすると、乱暴に扉を開けて外へと出てゆく。

 そして、入れ替わりに別の人影が入ってくる。その人物を見て、今度は楊鷹の方が驚いた。思い切り目を見開く。体の辛さすら、一瞬忘れた。


月蓉(げつよう)……?」


 思わず、その名前を呼ぶ。信じられなかったが、信じるしかなかった。目の前の年若い女性は、明らかに見知った人物だ。

 丸みを帯びた顔に穏やかな目元、顎には小さな黒子(ほくろ)。ひっつめた黒い髪にかんざしを一つだけ刺した、控えめな髪型。柄のない素朴な茶色い上衣に男が履くような(はかま)という格好は以前と異なれど、見間違えるわけがない。

 都暮らしをしていた頃、小間使いとして家で働いてくれていた彼女だ。

 楊鷹は、呆然ともう一度名前を呼ぶ。


「月蓉……」

「はい。月蓉です。楊兄(ようにい)さん」

 

 そう返事をすると、月蓉は楊鷹のそばにひざまずき、柔らかく微笑んだ。

 楊鷹の目頭が熱くなる。別れてまだ一月(ひとつき)程度。それなのにその声と笑顔がやけに懐かしくて、泣きそうになってしまう。

 毛翠が落ち着きなく視線を動かし、楊鷹と月蓉の顔を交互に見やる。


「どうして……」


 楊鷹は起き上がろうと身じろいだ。だが、体はついてゆかない。腹に痛みが走り、顔をしかめた。

 押し止めるように、月蓉がそっと楊鷹の手に触れた。そして、優しい声で言う。


「詳しいことはまた今度お話します。今は体を治してください」

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