まさかの再開・一
楊鷹にとって、母は強い女性だ。
そんな母が泣いているところを、一度だけ見たことがある。
父親が突然姿を消して、七年が過ぎた頃、楊鷹が十二歳の時だったか。
当時、楊鷹と母は街から街を旅する流民であった。定住するための金もなければ頼れる親戚もいないため、商隊の護衛や荷運びなどの仕事で小金を稼ぎながら稟の各地を渡り歩く、という暮らしをしていた。
母の涙を見たのは、北東部にある海沿いの街に滞在しているときだ。その街で仮住まいとしていた安宿での出来事だ。
朝早くに目覚めたら、母が泣いていたのだ。粗末な椅子に座り、小さな机に頭を抱え込むようにして突っ伏していた。母の背中はやけに小さく見え、その細い肩は小刻みに震えている。そして、嗚咽混じりに「翠」と父の名を呼んでいた。「翠、私は貴方だけのものなのよ。だからどうか、戻ってきて」と、切々と涙声で訴えていた。
清々しい朝の光が、母の悲しみをまざまざと照らし出していた。きっと、それまでひた隠しにしていただろうすべてが、露わになっていた。
恐らく限界だったのだ。
母も楊鷹も、髪の色が灰色だ。それは、隣国の鏤の人間の特徴であった。稟国の人々とは異なる容姿の母子二人は、周囲から奇異の目で見られる。殊に楊鷹は、瞳も珍しい色をしているために余計に目立つ。何もしていないのに気味悪がられ、邪険にされることも多かった。
昨日だって、散々な目に合った。
一つ用心棒の仕事を終えたが、まともに報酬が貰えなかったのだ。初めに約束した金額の半分もなかった。話が違うと、訴えてもまったく取り合ってもらえなかった。
このままでは、滞在している宿の代金すら払えない。そこで、少しでも身銭を稼ぐため、街角で演武を披露することにした。しかし、演武を始めてまもなく、提轄(=軍の隊長、治安警察などの職務も行う)だという男がやって来て「異国民が勝手に何をしているんだ」と、いちゃもんをつけられた。始めたばかりの演武は中断。一銭も稼げずに終わった。
その後、「代金は後で必ず払う」と宿の主人に頼み込み、どうにか追い出されずには済んだ。しかし、食事にまわす金など当然ない。何かないかと街を探してみたものの、奇異な見た目の親子に食べ物を恵む人間などそういない。売れ残りの冷たくて硬い饅頭を、一つ譲ってもらうのが精いっぱいだった。
大して温かくない安宿の一室で、明日どうなるかもわからない不安を抱えながら、冷たい饅頭をかじる。
もうすっかりおなじみの、貧しくみじめな日常。
幾度と繰り返されるそのみじめな日々は、常に凛としている母の胸の内にしんしんと降りそそぎ、そして今、深く積もった哀しみに心が押しつぶされてしまったのだ。
悲嘆にくれる母の姿を目の当たりにした楊鷹は戸惑った。声をかけようかと思ったが、かけてはいけないような気もした。母が呼んでいるのは父であり、自分ではない。
しばらく呆然と見守っていたが、母の嗚咽は止まらない。おそらく、楊鷹が起きていることに気がついていないのだ。
痛々しい後ろ姿を見ているのが辛くなってきた楊鷹は、そっと寝台から降りると、恐る恐る母を呼んだ。
「母上……」
母はびくりと全身を震わせると、素早く体を翻す。涙にぬれた瞳は赤く、腫れぼったい。灰色の髪も乱れていた。
ますますいたたまれなくなった楊鷹は、母に近づいた。一瞬逡巡して唇を引き結ぶも、思い切って言う。
「俺はここにいるよ」
「父上は帰ってくるよ」とは、言えなかった。
父が姿を消して、そろそろ八年。何か事情を知っているのか、母は「きっと戻ってくる」と言っていた。だが、未だにまるで消息不明、音沙汰は一切ない。
もう、戻ってくることはないのではないか。かねてより感じていた楊鷹の予感は、確信めいたものになっていた。それどころか、二度と会えないのではないかと、思ってしまう。
楊鷹は、真っ直ぐ母の目を見つめながら言った。
「俺はどこにも行かない」
母はがたりと椅子から滑り落ちると、楊鷹を抱きしめた。衣かそれとも体に染みついているのか、母の胸からは酒と脂の混じったにおいがした。
「そうね。ごめんなさい。貴方がいるわね、鷹。ありがとう」
母は言った。涙混じりの声は、震えていた。母は、まだ泣いていた。遠い潮騒の音に重なって、鼻をすする音が響く。
朝日が冷たい。
楊鷹は急に寂しくなった。母の言葉に嘘はない。己のことを愛してくれているのは、間違いない。いくら他人に疎まれても、時に「化け物」などと罵声を浴びせられても、母はいつも味方でいてくれる。人とは違う自分が上手く生きられるよう、教え導いてくれる。そんな母の力になりたい。
だからこそ、自分は父の代わりになれないのだと思うと、心に穴が空いたような気分だった。
楊鷹は拳を握りしめた。
ぽっかりと空いた寂しさの穴から、ふつふつと怒りが沸き上がり、広がってゆく。
どうして父は今いないのか。どうして、いなくなったのか。母はこんなにも想っているというのに。どうして、こんなにも辛い思いをさせているのか。
楊鷹はちらりと机を見た。小さな袋がある。少し口が開き、銀子が覗いている。
あれは、昨夜母が入手した金だろう。昨夜、母は一人で出かけていった。たった一晩で、あれだけ稼いできたのだ。
一体何をしたのか、楊鷹には分からなかった。だが、分からないなりに、どこか薄暗いものを感じた。きっと、母は何か辛いことを行ったのだ。それがきっかけとなって、哀しみが限界に達してしまったのかもしれない。凛とした母を折るほど、それほど辛いこと。
怒りがますます大きくなる。父だけでなく、無力な己も腹立たしい。
楊鷹はそっと母の背中に腕を回し、抱きしめた。
「俺は、どこにも行かない。絶対に行かない」
父のようには、あんな奴のようにはならない。そう決意しながら、楊鷹は同じ言葉を繰り返す。
「鷹……ありがとう。それから、本当にごめんなさい」
かすれた声でそうささやくと、母は楊鷹を抱く腕に力を込めた。
母の涙を見たこの日。楊鷹の心の中から、父――かつての、優しくて頼りになる父――は消えた。




