表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
小仙奇譚  作者: 平井みね
第二章
54/131

決死の逃走・六

 二度目の飛び下りは、すぐに終わった。風を切ったのはほんの一瞬、楊鷹(ようおう)はあっという間に水面にたたきつけられた。だが、思ったよりも痛みは少なかった。水の冷たさもあまり感じない。生きようとする意志の固さが、そうさせているのだろうか。そんな高潔なことではなく、単に血を流し過ぎたせいで、感覚が麻痺してしまっただけかもしれない。


 深く潜った楊鷹はすぐさま浮上し、水面から顔を突き出した。

 抱いた赤子を見れば、彼もまた見上げてくる。当然びしょ濡れだが、緑の目は明るい。無事なようだ。

 水かさは多く、川面は楊鷹の胸元まで迫っている。楊鷹は赤子の尻の方を抱えて、肩へ担ぎ上げた。


「楊鷹、ぜっったいに離すなよ」

「分かってる」


 ぴったりと身を寄せる毛翠(もうすい)を、しかと抱く。

 それから、楊鷹は川の流れに身を任せた。というか、身を任せるしかなかった。轟く流れは、想像以上に速い。自由に泳ぐことなど、不可能である。

 急流に身を躍らせた楊鷹と毛翠は、ひたすらに川を下っていった。しかし、楊鷹にとって、ただただ流されるだけというのも重労働であった。そもそも、流されるという生易しいものではなく、急流にもまれると言った方が正しい。しかも手負いの状態で、赤子まで連れているのだ。楊鷹の体力は、みるみるうちに奪われていった。全身が重たくなってくる。ごうごうという川の音が、頭の中でやけに反響して気分が悪い。このまま、沈みたい衝動に駆られる。


 そうして、どれだけ流されただろうか。気がつけば川幅は広がり、流れも緩くなってきた。両岸にそびえる崖も、だいぶ低くなっている。そろそろ河原が現れても、良さそうな様子である。

 あともう少し。だが、楊鷹はすでに限界だった。

 毛翠を抱えているのが、辛くて仕方がない。腕を降ろしてしまいたい。指先の感覚は既になく、まともに抱けているかどうかもよく分からない。

 その様子を察したのか、毛翠が問いかける。


「おい、大丈夫か?」

「大丈夫だ」


 そう頷くやいなや、水の中で足が何か硬いものにぶつかった。水は濁っているためはっきりとは分からないが、おそらく岩だ。楊鷹はとっさに足を引っ込めた。その反動で姿勢が崩れ、毛翠を抱く手が滑る。赤子の小さな体もずるりと滑り、水に落ちる。


「わっ」


 小さな悲鳴を上げながら、毛翠は楊鷹の肩にしがみつく。しかし、赤子よりも押し寄せる水流の力が勝った。毛翠の手が離れ、体がふわりと水中に浮く。

 波にさらわれそうになった毛翠を、楊鷹は慌てて掻き抱いた。安心したかのような、細い吐息が胸にかかる。


「あ、危なかった……」

「悪い」


 楊鷹は毛翠を担ぎ直す。しかし、その小さな体は次第にずるずると落ちてくる。楊鷹としてはしっかり抱き締めて支えているつもりなのだが、どうやら上手く力が入っていないらしい。


「お、おい、本当に大丈夫か?」


 毛翠が不安そうに言う。楊鷹はもう一度毛翠を抱き直す。けれど、結局焼け石に水だった。赤子の体はすぐに水に浸ってしまう。


(くそ、何かないのか……)


 楊鷹は周囲を見た。すると、少し先に倒木が見えた。右手の崖際に生えている木々のうちの一本が、倒れて川にせり出している。

 力を振り絞って楊鷹は水を蹴り、倒木の方へと近づいた。倒れている木の幹は太く、枝ぶりも立派だ。必死の思いで、楊鷹はその木にすがりついた。


「ちょっと、こっちの木に乗ってくれ」


 そう言いながら、楊鷹がわずかに毛翠の体を持ち上げれば、赤子は自ら枝を掴んで幹の上に乗り移る。


「おい、楊鷹? お前、本当の本当に大丈夫か?」


 毛翠が呼びかける。赤子の方はまだ元気そうだった。安堵を覚えながら、楊鷹は言った。


「疲れた。休む。少し寝たい」

「はぁ!?」


 朦朧とする頭で楊鷹が言えば、毛翠は大声を上げた。


「いやいやいや、この状況で寝るとか意味が分からんぞ! っていうか、それすなわち死ぬぞ!」

「死ぬつもりはない」


 口早にまくしたてる毛翠に対して、楊鷹は弱々しい声で言い返す。説得力はまるでないが、しかし言葉そのものは本心だ。

 死ぬつもりは、さらさらない。だから、早く陸に上がらなければならないのは分かっている。それなのに、体が思うように動かない。どう動いているのかも、よく分からない。とにかく、疲れている。疲れて、眠い。寝たい。


 毛翠が楊鷹の顔を覗き込み、ぺちぺちと頭を叩く。


「だめだ、寝るな。ここにわしを置いてゆくつもりか!」


 毛翠が言う。

 楊鷹にはその声がずっと遠くに聞こえた。赤子の顔もかすんで見える。まぶたが下がってくる。抗えない。

 楊鷹は目を閉じた。

 そのとき、何か異様な気配を感じた。これは、一体何だろう。おそらく人間ではない。ならば、神仙だろうか。


(見つかったか……)


 そう思ったが、楊鷹の心は凪いだままだった。焦りも悔しさも恐怖も、何の感情も湧いてこない。

 死をすぐそばに感じた。意識が遠のく。木から手が離れた。

 ふいに母の背中が見えた。小さくて、小刻みに震えている。あれは、泣いているのだろうか。そうだとしたら、そばまで行かなければ。手を伸ばしたいが、体が動かない。

 おぼろげな母の背を追いかけながら、楊鷹は静かに闇の底へと沈んでいった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ