決死の逃走・六
二度目の飛び下りは、すぐに終わった。風を切ったのはほんの一瞬、楊鷹はあっという間に水面にたたきつけられた。だが、思ったよりも痛みは少なかった。水の冷たさもあまり感じない。生きようとする意志の固さが、そうさせているのだろうか。そんな高潔なことではなく、単に血を流し過ぎたせいで、感覚が麻痺してしまっただけかもしれない。
深く潜った楊鷹はすぐさま浮上し、水面から顔を突き出した。
抱いた赤子を見れば、彼もまた見上げてくる。当然びしょ濡れだが、緑の目は明るい。無事なようだ。
水かさは多く、川面は楊鷹の胸元まで迫っている。楊鷹は赤子の尻の方を抱えて、肩へ担ぎ上げた。
「楊鷹、ぜっったいに離すなよ」
「分かってる」
ぴったりと身を寄せる毛翠を、しかと抱く。
それから、楊鷹は川の流れに身を任せた。というか、身を任せるしかなかった。轟く流れは、想像以上に速い。自由に泳ぐことなど、不可能である。
急流に身を躍らせた楊鷹と毛翠は、ひたすらに川を下っていった。しかし、楊鷹にとって、ただただ流されるだけというのも重労働であった。そもそも、流されるという生易しいものではなく、急流にもまれると言った方が正しい。しかも手負いの状態で、赤子まで連れているのだ。楊鷹の体力は、みるみるうちに奪われていった。全身が重たくなってくる。ごうごうという川の音が、頭の中でやけに反響して気分が悪い。このまま、沈みたい衝動に駆られる。
そうして、どれだけ流されただろうか。気がつけば川幅は広がり、流れも緩くなってきた。両岸にそびえる崖も、だいぶ低くなっている。そろそろ河原が現れても、良さそうな様子である。
あともう少し。だが、楊鷹はすでに限界だった。
毛翠を抱えているのが、辛くて仕方がない。腕を降ろしてしまいたい。指先の感覚は既になく、まともに抱けているかどうかもよく分からない。
その様子を察したのか、毛翠が問いかける。
「おい、大丈夫か?」
「大丈夫だ」
そう頷くやいなや、水の中で足が何か硬いものにぶつかった。水は濁っているためはっきりとは分からないが、おそらく岩だ。楊鷹はとっさに足を引っ込めた。その反動で姿勢が崩れ、毛翠を抱く手が滑る。赤子の小さな体もずるりと滑り、水に落ちる。
「わっ」
小さな悲鳴を上げながら、毛翠は楊鷹の肩にしがみつく。しかし、赤子よりも押し寄せる水流の力が勝った。毛翠の手が離れ、体がふわりと水中に浮く。
波にさらわれそうになった毛翠を、楊鷹は慌てて掻き抱いた。安心したかのような、細い吐息が胸にかかる。
「あ、危なかった……」
「悪い」
楊鷹は毛翠を担ぎ直す。しかし、その小さな体は次第にずるずると落ちてくる。楊鷹としてはしっかり抱き締めて支えているつもりなのだが、どうやら上手く力が入っていないらしい。
「お、おい、本当に大丈夫か?」
毛翠が不安そうに言う。楊鷹はもう一度毛翠を抱き直す。けれど、結局焼け石に水だった。赤子の体はすぐに水に浸ってしまう。
(くそ、何かないのか……)
楊鷹は周囲を見た。すると、少し先に倒木が見えた。右手の崖際に生えている木々のうちの一本が、倒れて川にせり出している。
力を振り絞って楊鷹は水を蹴り、倒木の方へと近づいた。倒れている木の幹は太く、枝ぶりも立派だ。必死の思いで、楊鷹はその木にすがりついた。
「ちょっと、こっちの木に乗ってくれ」
そう言いながら、楊鷹がわずかに毛翠の体を持ち上げれば、赤子は自ら枝を掴んで幹の上に乗り移る。
「おい、楊鷹? お前、本当の本当に大丈夫か?」
毛翠が呼びかける。赤子の方はまだ元気そうだった。安堵を覚えながら、楊鷹は言った。
「疲れた。休む。少し寝たい」
「はぁ!?」
朦朧とする頭で楊鷹が言えば、毛翠は大声を上げた。
「いやいやいや、この状況で寝るとか意味が分からんぞ! っていうか、それすなわち死ぬぞ!」
「死ぬつもりはない」
口早にまくしたてる毛翠に対して、楊鷹は弱々しい声で言い返す。説得力はまるでないが、しかし言葉そのものは本心だ。
死ぬつもりは、さらさらない。だから、早く陸に上がらなければならないのは分かっている。それなのに、体が思うように動かない。どう動いているのかも、よく分からない。とにかく、疲れている。疲れて、眠い。寝たい。
毛翠が楊鷹の顔を覗き込み、ぺちぺちと頭を叩く。
「だめだ、寝るな。ここにわしを置いてゆくつもりか!」
毛翠が言う。
楊鷹にはその声がずっと遠くに聞こえた。赤子の顔もかすんで見える。まぶたが下がってくる。抗えない。
楊鷹は目を閉じた。
そのとき、何か異様な気配を感じた。これは、一体何だろう。おそらく人間ではない。ならば、神仙だろうか。
(見つかったか……)
そう思ったが、楊鷹の心は凪いだままだった。焦りも悔しさも恐怖も、何の感情も湧いてこない。
死をすぐそばに感じた。意識が遠のく。木から手が離れた。
ふいに母の背中が見えた。小さくて、小刻みに震えている。あれは、泣いているのだろうか。そうだとしたら、そばまで行かなければ。手を伸ばしたいが、体が動かない。
おぼろげな母の背を追いかけながら、楊鷹は静かに闇の底へと沈んでいった。




