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小仙奇譚  作者: 平井みね
第二章
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決死の逃走・五

 下生えを踏みしだき、青々とした草のにおいを散らしながら、ひた走る。そうして進むこと間もなく、前方に毛翠(もうすい)の姿が見えた。必死に這っている。しかし、山道は彼にとって難路のようであった。地面に張り出した木の根を飛びこえた後、ごつごつとした岩が段になっているところで立ち往生している。決して大きな岩ではないが、赤子の体格では壁に等しい。

 楊鷹(ようおう)は素早く毛翠のところまで行くと、ひょいとその小さな体を抱き上げた。


「いや、お前傷が……」

「平気だから黙ってろ」


 毛翠の心配を一蹴しつつ、楊鷹は岩場を駆け上がる。そして再び走り出す。

 楊鷹の足取りは、先ほどよりも慎重であった。あまり痕跡を残したくない、ということもある。だが、それよりも何よりも、言葉とは裏腹にあまり平気ではなかったのだ。

 傷は相変わらず痛むうえ、出血も止まっていないようだった。だらだらと血が流れ続けているせいか、頭も体も重い。立ち止まって休みたい。そんな衝動が心の底で、這いずり回る。

 しかし、未だ逃げ延びたとは言えない。今ここで止まってしまったら、追いつかれて殺される。確信めいたそんな予感が、傷付いた体を突き動かした。


 しかし、楊鷹はすぐに足を止める羽目になった。

 水流の音が近くなってきたと思えば、深い谷に出た。そこで、道が途切れた。谷にかかる吊り橋が壊れていたのだ。以前から壊れていたのかそれとも昨夜の悪天によるものなのか、それは定かではないが、橋は捻じれ踏み板はほとんど崩落していた。かろうじて向こう側まで繋がってはいるが、到底渡れる状態ではない。

 谷底には、濁流と化した川が走る。


「最悪だな……」


 毛翠が呟く。彼の言う通り、本当にまぎれもなく最悪だ。最悪だが、どうにか進まねばならない。

 楊鷹は辺りを見た。谷の向こう側までは距離がある。飛び移るのは無理だ。縄で上手いことできないだろうか。しかし、荷の中にある縄は、あまり長くない。おそらく使い物にならない。

 どうにもできず、楊鷹は毛翠を抱えたまま立ち尽くす。ごうごうと、激しい水音が響き渡る。

 毛翠が鼻をひくつかせた。


「近づいて来ておる。ひい、ふう、みい……烈熾狼(れっしろう)を放ちおったな」

「烈熾狼……とは一番最初に襲ってきた獣か?」


 楊鷹が尋ねると、毛翠「そうだ」と頷いた。

 楊鷹はさらに訊いた。


「あれは一体なんだ?」

「烈熾狼は荘炎魏(そうえんぎ)……白い剣を持っていた奴が仙術で生み出す獣だ。烈熾狼は鼻が利く。もたもたしていたら、追いつかれるぞ」

「やっかいだな」


 楊鷹は吐き捨てるように言った。

 引き返して迂回路を探す暇はないようだ。どこかに身を潜めてやり過ごす、ということもできない。相手は鼻が利く獣。血生臭い体のままでは、隠れたところで無意味だ。

 かくなるうえは、道は一つしかなかった。


 楊鷹(ようおう)毛翠(もうすい)を地面に降ろす。それから帯をほどいて上衣を脱ぐと、その衣を剣で二つに裂いた。


「お、おい、何をしている」


 毛翠の問いかけには答えずに、楊鷹は剣を鞘に納める。次に、荷物の中から花鳥文(かちょうもん)の包みを取り出す。この包みには母親の位牌と遺品が入っている。どうしても失くせない貴重品は、これと仙器(せんき)の剣くらいか。

 残りの荷物はそのままに、楊鷹は荷袋で脇腹の傷口をぬぐい、袋にべっとりと己の血をつけた。そうしてから、今度は裂いて二つにした衣の袖と袖を固く結わえて、一枚の長い布を作る。その布をきつく腹に巻きつけて、傷口を覆う。ひどく雑な手当てだが、何もしないよりはましだろう。


 黙々と手を動かす楊鷹の一挙一動を、毛翠はせわしなく目で追っていた。明らかに、戸惑っている。


「お前、何をする気だ」


 今一度毛翠が尋ねる。

 血のついた荷袋を持ちあげながら、楊鷹は淡々と答えた。


「川に飛び込む」

「ふぁっ? お前、正気か?」

「もう逃げ道はそこしかないだろう」

「いやいやいや。確かに上手い手かもしれんが、いくらお前でも無茶がすぎる。高さもあるし、流れも早い。しかも、お前手負いじゃないか。死ぬ気か?」


 小さな声だが、焦った調子であくせくと毛翠が言う。

 だが楊鷹は全く取り合わずに、手にした荷物をやぶに向かって思い切り放り投げた。血まみれの荷物はおとりだ。血のにおいを手掛かりに追ってくるのであれば、おそらくあの荷物に引き寄せられるはず。何処へ逃げたか、少しはかく乱できるだろう。

 続けて楊鷹は笠と長靴(ちょうか)を脱ぐと、それらを谷に放り捨てた。


 とんでもないことをしようとしている自覚はあった。だが楊鷹に迷いはなかった。

 手負いの状態で動きが鈍ってきている今、敵が跋扈(ばっこ)する山中に引き返したら、確実にやられる。においを辿ってくるのであれば、なおさら逃げ切るのは難しい。だが、川に飛び込めば。そのまま激流に身を任せて流れてゆけば、一気に距離を稼いで引き離すことができる。また、水に入ってしまえば、においだって紛れるのではないか。

 懸念があるとすれば。


「神仙には空を飛べる者もいるらしいが、さっきの奴らはどうなんだ」


 楊鷹は問いかけた。川の上空には遮るものは何もない。空から探されてしまえば、見つかってしまうかもしれない。

 困ったような表情を浮かべながら、毛翠は言う。


「どちらも飛べない。ただ、桃李虚(とうりきょ)には空を飛ぶための道具がある。それを持って来ているなら話は別だ」

「そうか」


 楊鷹は短く答えた。

 ほとほと厄介な相手に追われてしまっている。こうなったら、その空を飛ぶための道具とやらを持っていないことを祈るしかない。もしくは、上空から見られても、気がつかないか。下方の川はだいぶ濁っているうえ、波立っている。また、流木なども流れていた。人が流れていても、案外分からない可能性はある。

 あとは、何よりも己の体力が持つかどうか。

 もう、その辺りのことは賭けるしかない。この状況、どんな行動をとっても博打であろう。ただ、これが一番勝つ可能性が高い賭けだ。


 楊鷹は、手当てをした腹に帯を重ねる。そして、きつく締めた帯の間に、包みと仙器を挟み入れる。

 これで準備は整った。

 楊鷹は毛翠を抱き上げると、谷の方へと歩き出す。


「待て待て待て、だから死ぬ気か!」


 こそこそとした声だが語気は強く、小さな手は楊鷹の胸をぺちぺちと叩く。どうにかして、毛翠は止めようとしている。

 だが、楊鷹には死地に向かうような悲壮さはなかった。


「死なない。生きるためだ」


 はっきりと答えて、谷底を覗き込む。

 真下に濁流が見えた。荒ぶる水流は、まるで龍がのたうち回っているようだ。逆巻く白い波はたてがみ、飛び散る飛沫は鱗の輝き、ごうごうと轟く音は唸り声。飛び込んだら、食われるか。否、そうはさせない。何がなんでも乗りこなす。


「絶対に手を離すなよ」


 楊鷹は両手でしっかりと毛翠を抱え込む。意思を決めたからだろうか、先ほどまで重たく感じていた体が、幾分軽くなっていた。心も冴えわたっている。恐怖も何も感じない。


「お、お前、莫志隆(ばくしりゅう)のところの崖は、飛び降りるのためらったではないか……」


 固く抱かれて身動きの取れなくなった毛翠が、切実な声で言う。なんとしてでも川に飛び込むのを止めたいようだが、澄みきった決意はもはや変わらない。


「本当に、なんでこうも何度も崖から飛び降りなければならないんだろうな」


 そう言い返すと、楊鷹は谷の縁を蹴った。

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