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小仙奇譚  作者: 平井みね
第二章
52/131

決死の逃走・四

 毛翠(もうすい)が大声を上げた。次の瞬間、右手の茂みが大きく揺れ、一匹の獣が飛び出してきた。ぴんと立った耳を持つ獣は一見狼に似ているが、狼ではない。虎並みに体が大きい。そして、その巨体を覆う長い毛は、燃えるように赤く輝いている。まるで炎のようだ。獣はその炎毛をなびかせながら、真っすぐ楊鷹(ようおう)に突っ込んでくる。


 むき出しの太い牙と爪が、迫る。しかし、楊鷹は動じなかった。腰に差した剣をさっと引き抜き、振るう。風のように流れた翡翠の刃が、獣の首を切り裂いた。

 獣の肢体がどうと地に倒れて、その近くに頭が落ちる。不思議なことに血は一滴も流れず、死体は徐々に黒い煙へと変ずる。やはり、普通の狼ではない。

 黒い煙がすっかり風に溶け、消える。炎をまとう獣など最初からいなかったように、その姿形は跡形もなく果てた。

 ふいに、ゆったりとした調子の拍手が聞こえた。楊鷹は、音の聞こえる方向に視線を滑らせる。いつの間に後退したのか、酒の桶から離れたところで、慧牙(けいが)が手を打ち鳴らしていた。


「いやあ、お見事。お強いお強い」


 拍手のみならず、口調までもわざとらしい。


「仙術で生み出した獣も一刀両断! いやあ素晴らしい」


 慧牙は、芝居がかった動作で両手を広げた。人を馬鹿にするような、なんとも挑発的な態度である。

 だが、楊鷹は落ち着いて相手を見ていた。慧牙の言い分から察するに、先ほどの不可思議な獣は彼が生み出したものだろう。その「仙術」とやらを使うような素振りを見逃したら、あっという間に窮地に陥る。

 澄んだ水面の境地で見つめながら、楊鷹は静かに切っ先を慧牙に向ける。すると、毛翠がぎゅうと背中を掴んだ。


「楊鷹、逃げろ」


 切実な赤子の声が耳元をかすめる。また、どこからか獣が襲ってくるというのか。

 慧牙がゆるゆると首を振った。


「剣を向けないでください。さっきの獣は、私の仕業ではないですよ?」


 そのにこやかな言葉が終わるか終わらないか、というとき、楊鷹の背後で烈しい殺気が立ち昇った。身の毛がよだつ。楊鷹はとっさに振り返った。剣を手にした男が、襲いかかってくる。一瞬で迫った気迫に圧倒され、楊鷹はわずかに遅れた。かわそうと体を捻るも、間に合わない。

 朝日のような白光がひらめき、曇りない白刃が楊鷹の脇腹をかすめた。

 鋭い痛みが走る。それでも楊鷹は剣を返して、続けざまに繰り出された一刃をいなす。烈気に満ちた攻撃が途切れたそのわずかな隙に、素早く足をさばいて後退した。

 ずきりと腹が痛み、足から力が抜ける。堪えきれず、楊鷹はその場にくずおれた。


「楊鷹!」


 毛翠の悲痛な声が響く。

 楊鷹は脇腹を押さえた。べっとりと湿っている。嫌な感触だった。かすめた程度だと思ったが、予想以上に肉を(えぐ)られたようだ。

 しかし、その傷に構っている場合ではなかった。あの圧倒的な殺気は、未だ消えていない。楊鷹はぐっと顔を上げて、前方を見据える。


 木漏れ日の中に、法衣のようなゆったりとした赤い衣をまとった男が立っていた。楊鷹よりも上背があり、体格が良い。格好は方士(ほうし)(占い、医術、錬金術などの方術を行う人のこと)か僧侶、といったところだが、体つきは武人のそれである。右手に持つ剣は、白く燃えていた。白い炎のような(もや)が、剣身にまとわりついている。その白炎の合間に、真っ赤な鮮血がちらつく。


小癪(こしゃく)にも速いな」


 低い声で男は言った。その圧のある声音には、ありありと嫌悪が滲む。

 男の存在感は圧倒的であった。その身が放つ覇気がすさまじい。強い、という言葉では足りないほど、この男は強い。

 楊鷹は、剣の柄を握りしめた。


「楊鷹、動けるか。動けるなら逃げろ」


 毛翠がやけに必死な様子で楊鷹を叩く。

 法衣の男――確実に彼も神仙だ――が、鼻で笑った。


「逃がすものか。秩序を乱す薄汚い輩は、さっさと始末せねばな」


 (あざけ)るやいなや、法衣の神仙は土を蹴る。

 そのがたいの良さとは裏腹に、速い。一瞬で、神仙は楊鷹に肉薄した。

 殺意で色めく瞳が、楊鷹(ようおう)を射る。

 うなりを上げながら、白刃がひるがえる。それもまた、風のように速い。否、風よりも速い。

 防ぐ間はなく、楊鷹はとっさに横に飛びのいた。神仙の剣は空を切るも、すぐさま追撃に移る。立ち上がったばかりの楊鷹に、再び刃が迫る。

 今度は自身の剣を繰り出した楊鷹、そのまま法衣の神仙と切り結ぶ。だが、十合もやりあわないうちに悟った。


 これは、敵わないと。


 手負いであることに加えて赤子を背負っているという不利な状況、というのもある。しかし、仮にそれらの枷がなかったとしても、敵うかどうか非常に怪しい。

 神仙の剣速に、ついていくので精いっぱいだ。時についていけず、剣が体をかすめて、血がにじむ。自ら攻め込む隙など、見いだせない。間合いを取っても、すぐに詰められる。せめて背中の重しを取り除きたいと思ったが、毛翠(もうすい)を放す機会もない。


 初めに傷ついた脇腹は、どんどん痛みが増している。楊鷹は歯を食いしばり、必死に四肢を動かした。だが、時に思うように体をさばけず、遅れが生じる。息が苦しくなってくる。血を流し過ぎてしまったようだ。


 神仙の剣戟を今一度弾き、後退しようと足をさばく。とたん、くらりとめまいを感じた。体が傾ぐ。

 その隙を見逃す相手ではなかった。大きな掌底が、がら空きになった楊鷹のみぞおちを打つ。鉄の塊が打ち込まれたような重い衝撃が走り、体が吹き飛ぶ。


「ぐっ……」


 楊鷹は呻きながらも、とっさに踏ん張った。しかし、堪えきれずに膝をつく。胸の辺りから、臭いものがせり上がってきてむせる。土に赤黒い雫が散った。


黎颫(りふ)はこれにやられたのか。やはり、大したことのない(わっぱ)よ」


 攻撃を止め、法衣の神仙が言った。傲慢な声は揺るぎない。


 心に焦りが滲む。凪いだ水面がさざめき立つ。揺らぐ、平常心。脈が早い。体が強ばっているのを感じる。楊鷹は、追いつめられていた。

 神仙が近づいて来る。勝利を確信したのか、ゆっくりとした歩調だ。


「さて、どちらにも死んでもらおう」

「待て、待ってくれ! 少し話を聞いて……」

「待たぬし聞かぬわ、たわけ! 一刻も早く貴様らを処分せねばと、玄素元君(げんそげんくん)もお決めになったのだ」


 毛翠の制止を、法衣の神仙はぴしゃりと遮った。


荘炎魏(そうえんぎ)、あまり苦しまないようにやってあげてくださいね」


 慧牙(けいが)が口元に手を添えて叫ぶ。法衣の神仙、荘炎魏は不満気に鼻を鳴らすと、足を止めて言い返す。


「貴様も黙っていろ」


 勝者の動きが止まった隙に、楊鷹は一度深呼吸をする。


(落ち着け。平常心だ)


 そう自身に言い聞かせ、ちらりと脇を見やる。茂みの間に細い獣道が伸びていた。


「先に逃げろ。俺も後から追う」


 ささやくような小さな声で言いながら、楊鷹はそっと赤子を縛る帯を緩める。はっと、毛翠は息を呑んだ。

 荘炎魏が歩みを再開させ、楊鷹に向かってくる。眼前まで来たところで、楊鷹は腰の帯をほどいた。かたわらの茂みめがけて、毛翠が跳ぶ。

 荘炎魏の視線が毛翠に向く。その一瞬の間に、楊鷹は帯を投げた。帯は風を受けて広がり、神仙の顔にまとわりつく。

 刹那、楊鷹は毛翠の後を追って走り出した。


「待て!!」


 怒号が響き、背後でおぞましい気配が立ち昇る。以前、黎颫と初めて立ち合ったときにもこのようなことがあったが、その時の非ではない。圧倒的な殺気に、身がすくむ。

 しかし、楊鷹は心を奮い立たせた。剣穂(けんすい)を掴むと、振り向きざまに大きく剣を払う。狙ったのは迫りくる敵ではなく、周囲の木々だ。翡翠の刃は背の高い白樫の幹を捉え、一息に斬り割った。傾ぐ白樫のすぐ下で、荘炎魏はぴたりと立ち止まる。その光景を尻目に、楊鷹は再度(きびす)を返して走り出た。

 背後で木が倒れる轟音が響く。殺気が遠のく。多少でも足止めになってくれることを祈りながら、楊鷹は歯を食いしばって走った。

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