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小仙奇譚  作者: 平井みね
第二章
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決死の逃走・三

 翌日、楊鷹(ようおう)は早々に宿を発った。風雨は夜半にはだいぶ弱まり、朝にはすっかり止んでいた。

 このあたりは玉水岡(ぎょくすいこう)と呼ばれる場所であり、谷を一つ越えた山向こうにも小さな村があると宿の主人は話していた。楊鷹は次の目的地をその村に定め、山中を突っ切ることにした。宿の店主から街道へと下る道もあると聞いたが、迂回するのもまどろっこしいうえ、明るい道を大手を振って歩くことはできない身分。雨上がりの山道は悪路だろうが、そちらを選ぶだけの理由が楊鷹にはあった。


 薄い雲に太陽が透けている。ほのかな陽光を浴びながら歩いてゆけば、早速道は鬱蒼とした山道に変わる。

 雨上がりの山には、濃密な木々の香りが立ち込めていた。心が静まるような香りだ。少し遠くからは、ごうごうと激しい水の流れが聞こえる。昨夜の雨で、谷の水が増しているのだろう。

 毛翠(もうすい)をおぶって、楊鷹は歩く。人気のない山中を、ひたすらに、黙々と。


「雨が上がって良かったな」

「そうだな」


 毛翠に声をかけられても適当にあしらい、決して足は止めない。

 まだ神仙たちが追いかけて来ないと言うのであれば、平穏なうちに距離を稼いでおきたい。その静けさはやはり不気味であったが、間違いなく好機であった。 


 そうして、十刻(=約二時間半)ほど歩いただろうか。

 どこかから、きゅうと可愛らしい音が鳴った。この音は毛翠の腹の音だ。

 楊鷹はちらと背後を一瞥する。相も変わらず、よく鳴る腹である。朝、宿でてんこ盛りの(めし)と鶏を蒸したものを食べたはずだが、もう腹が減ったらしい。

 楊鷹が歩くたび、きゅうきゅうきゅうと、鳴る。なんらかの獣が、後をついて来ているかのようだった。


「の、のう楊鷹……」


 案の定というべきか、毛翠が呼びかける。

 楊鷹は歩きながら答えた。


「なんだ」

「少し、休まぬか?」

「まだだ。もう少し我慢しろ」


 楊鷹は容赦なく切り捨てた。


「いや、しかし腹が……」


 往生際悪く言い返した毛翠であったが、その甲高い声がはたと途切れる。それから彼は、背中を掴んでぐらりと体を横に倒した。

 楊鷹の脇からにょっきり頭をつきだして、毛翠は前方を凝視している。


「どうした?」


 楊鷹が問いかけると、赤子は鼻をしきりにひくつかせた。

 何か気配でも感じているのだろうか。


「……酒」


 可愛らしい小さな口からこぼれた声は、確かに「酒」と、そう言った。

 楊鷹は目をすがめて、傾いた毛翠の体をもとに戻す。


「酒のにおいがするぞ」


 再び毛翠がこそこそと言った。しかし、楊鷹は一切取り合わず、無言で歩き続ける。

 こんな人気のない山道で、酒のにおいなどするわけがない。仮に酒があったとしたって、拾って飲むわけがない。もしや、酔っ払いでも倒れているのだろうか。だが、人影はどこにもない。


 と、ずんずんと歩き続けた楊鷹であったが、しばらく進んだところで足を止めた。木陰に転がった岩に、誰かが座っている。動きやすそうな筒袖の衣に丈の短い(はかま)を着こみ、笠をかぶっている。おそらく男だ。笠の下には厳つい髭面が覗いていた。彼の近くには、桶の下がった天秤棒がある。あの格好と荷物、油売りだろうか。それとも酒売り、だろうか。毛翠の先ほどの言葉を思い返せば、酒売りなのか。


 ただ、どうであれ商売人がこんな辺鄙(へんぴ)な道端に佇んでいる光景には違和感がある。まさか、こんなところで商売をしているわけではあるまい。どこか、町まで売りに行く、その途中で休憩をしているのだろうか。

 この辺りの道に詳しい訳ではないが、しかし雨上がりのぬかるんだ山道にはどうにも不釣り合いに思える。楊鷹は警戒しながら、再び歩き始めた。歩みを再開させて数歩も行かないうちに、男が楊鷹に気がついた。彼は気さくな様子で、片手を上げた。


「やあ、兄さん。旅人かい? どこへ行くんだい?」


 あまりにも朗らかな声で呼び止められて、楊鷹(ようおう)はつい足を止めてしまった。背中の方から、じゅる、とよだれをすする音が鳴る。楊鷹が内心でため息を吐く一方、男はにっこりと笑った。目尻にしわが寄ると、だいぶ優しい面差しになる。


「おや、子連れか。こりゃあ大変だ」


 男はこんこんと足元の桶を叩いた。


「どうだい。少し休んでこいつを飲んでいかないかい?」


 この口ぶりと様子、やっぱり彼は酒売りらしい。

 再び聞こえる、よだれをすするような水音。しかし、当然楊鷹はその音を無視した。


「いえ、急いでおりますので……」

「そう言わずに、まだしばらく村はないし、せっかくだから飲んでいきなよ」


 男は楊鷹の言葉を遮ると、桶の蓋を開け、大きな柄杓(ひしゃく)で手早く酒をすくった。

 楊鷹はかすかに目をすがめた。流れるような一連の手さばきの中に、余計な動作がちらりと見えた。


 男は、にこやかに楊鷹の目の前に柄杓を差し出す。透き通った液体は一見水のようだが、きりりとした香りが鼻の奥を刺激する。疑いようもない、ありふれた酒である。

 毛翠(もうすい)が忙しなく楊鷹の背中を叩いた。と思いきや、指でぐるぐると引っ掻き始める。それは「飲みたい」という意思表示か。それにしては、身を乗り出そうともせず、その態度は落ち着いている。よだれの音もしない。もしかしたら、彼も気付いたのかもしれない。

 楊鷹は言った。


「いえ、結構です」

「まぁまぁ、そう言わずに」


 男はしつこく、楊鷹の進路を遮るように立つ。その動作もかなり不自然だった。

 楊鷹はさっと辺りの気配を探る。男以外には物音も息遣いも聞こえない。


「……結構です」

「連れねぇ野郎だな」


 楊鷹が同じ言葉を繰り返せば、男は眉をひそめた。彼の本性がちらつく。しかし楊鷹は怯まない。


「何か盛られた酒など、飲みません」


 一瞬見えた、余計な動作。それは、男が袖からさっと小さな包みを取り出し、その中身を桶の中に入れる、という動きだった。

 柄杓の中の酒は、ただの酒ではないのだ。

 酒売り――果たして、単なる酒売りなのだろうか――は、驚いたように目を見開いた後、盛大に吹き出した。


「なあんだい。見えていたのかい」


 そう言うと、男はますます笑い出す。うつむいて、大きく肩を震わせる。手にした柄杓から酒が零れた。


「私も、落ち目になりましたかね」


 突然、酒売りの男の声と口調が変わった。楊鷹ははっとする。

 酒売りが顔を上げる。現れたのは、たおやかに微笑む若々しい優男。色白の肌はつるんと滑らか、髭など一本も生えていない。先ほどまでとは、すっかり別人の(おもて)であった。この変わり身、普通ではない。


「お前、慧牙(けいが)か!」


 毛翠が叫んだ。楊鷹の胸の内で緊張感が最大まで高まる。

 賊の類か何かだと思ったが、そうではなかった。一瞬で相貌が変わった様、毛翠の顔見知り。

 酒売りの男は、神仙だ。


「お久しぶりです。全く、貴方はどこを誰とほっつき歩いているんだか。玄素元君(げんそげんくん)もお怒りですよ。貴方たちのことはもう放っておけない、とね」


 穏やかな口調でそう言うやいなや、慧牙は持っていた酒を楊鷹めがけてぶちまけた。

 あまりにも脈絡のない突然の動きに楊鷹は少々遅れた。飛びすさったものの、酒が腹のあたりにかかってしまった。


「飲まなければ、さしてなんともありませんよ。まぁ、大切なのはにおいですので」


 手でくるくると柄杓を回しながら、にこやかに慧牙は言った。しかし、楊鷹は今一つ彼の言葉が理解できない。においが大切とは、一体なんのことなのか。だが、毛翠はそうではないようだった。


「楊鷹、逃げろ!」

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