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小仙奇譚  作者: 平井みね
第二章
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決死の逃走・二

 赤子になった父親と共に旅を始めて、十日と少々。いたいけな父との道行にも慣れてきたつもりだが、心がざわつくことも少なくない。未だに楊鷹(ようおう)は、心のどこかで赤子になった神仙の父親、という面妖な存在を受け入れられていなかった。そもそも、父親そのものを拒んでいるのかもしれない。ある日突然姿を消してからおおよそ二十年、その間ずっと家族をほったらかしにしていた父である。そんな父親に対する情など、すっかり冷めている。

 関わりたくないと思いつつも、関わるしかないと腹を(くく)った楊鷹であったが、やはり心に堪えるものがある。特に、今日は大雨の中歩き通したこともあり、余計に疲れてしまった。体の疲労は心にも影響をきたす。


(本当に、どうしてこうなったんだろうな)


 と、ついついそんな風に思ってしまう。

 しかし、そう思いつつも、楊鷹は決意を捨てるつもりはない。というか、捨てられないのだ。情は冷めているはずなのに、父という存在をどうしても切り捨てられない、複雑怪奇な己の心情を悟ってしまった。


 楊鷹は目を閉じて、耳を澄ました。雨足は未だ激しく、ばちばちと油が跳ねるような雨音が聞こえてくる。毛翠(もうすい)は黙っている。

 雨音を聞きながら、楊鷹は思う。


(己の感情は省みるな。そして、あいつのためでもない。誰かのためというならば、これは母上のため……)


「お父さんのこと、あまり嫌いにならないで」という、母の声が頭の中によみがえってくる。

 雨の音に耳を傾けることしばらく、ざわつく心が落ち着いてきた。楊鷹は小さく息を吐いて目を開けると、ゆっくりと振り返る。寝台にちょこんと座る赤子が目に入っても、心は凪いだままだった。


「……宿屋があってよかったな?」


 探るような少々ぎこちない口調で、毛翠が尋ねる。


「そうだな」


 楊鷹は頷くも、すぐさま「だが」と言葉を続けた。


「今後は、あまり宿に泊まれないかもしれないな」


 楊鷹は、先ほどの店主の様子を思い出した。

 いいかげん、己の手配書が街に出回っていた。五日前に通り過ぎた県城の城門前で、楊鷹はそれをしっかり見ていた。罪は、反詩を書いたことに加えて護送役人を殺しての脱走。身に覚えのない罪に、さらに身に覚えのない罪が重なっていた。それでも、無実を証明する術がないため、楊鷹は罪人なのであった。捕まるわけにはいかない。神仙のみならず、人の目もできるだけ避けてゆかねばならない。まったく、難儀な旅である。楊鷹は、頬に貼った小さな膏薬(こうやく)をさすった。これでいつまでごまかせるかも、分からない。


「これからは野宿が増えると思う。そのつもりで頼む」


 楊鷹が言うと、毛翠は眉間にしわを寄せ、「えー」と不満そうな声を上げた。


「それは、あまり頼まれたくないな」

「仕方ないだろう。我慢しろ」


 そう言いつつも、楊鷹の胸はちくりと痛む。赤子に野宿を強いるのは、気が引けた。


「野宿でも、なるべく屋根のある場所を探すようにする」


 とっさにそう付け足したが、毛翠はさらにぶすくれる。


「別に泊まれないわけじゃあないだろう。さっきのように、ごまかせばいいじゃあないか」

「……ああやって嘘を言うのは、胸中穏やかじゃないんだよ」


 追われる立場になってから、ごまかしの言葉を事前に考え、必要な時は言うようにしている。そうするしかないのだが、楊鷹は毎回どこか緊張してしまう。何度口に乗せても、嘘は苦手だった。

 毛翠が唇を尖らせる。


「お前、戦いのときはわざと誘うように動いたりするじゃあないか」

「それとこれとは話が別だ」

「……まったく。悪事を働くのに向いていなさそうなのに。なんで罪人をやってるんだ?」

「あんたには関係ない。そもそも、話したくもないんだよ」


 嘆息する毛翠に対して、楊鷹は噛みつくように言った。流罪に至った経緯など、思い出したくもない。他人に嵌められた話など、何が楽しいのだ。

 楊鷹はさっさと話題を変える。


「それにしても、神仙の方はだいぶ平和だな。蒼香山(そうきょうざん)を出てから、まったく音沙汰がない」

「ん? ああ、確かにそうだな」


 毛翠は腕を組み、思案する風にうつむいた。


黎颫(りふ)施鵬(しほう)が一度桃李虚(とうりきょ)に戻ったのだとしたら、次の追手が来るまで多少時間がかかると思う。人の世界と桃李虚は、時間の流れ方が違うからな」

「時間の流れ方が違う?」

「うむ。桃李虚は人の世より時間の進みが遅い。桃李虚には三日程度しかいなかったのに、人界に戻ってみると一月(ひとつき)経ってたりする」


 つくづく、神仙の世界は人の世とは違うらしい。楊鷹には、桃李虚がどのような場所なのか、さっぱり想像がつかない。ただ、よく分からないものの、その違いが幸いしていることは確かであった。怪力であったり異常に速く動き回ったり神通力を使ったりする神仙の方が、人間よりも遥かに厄介だ。そんな神仙の追撃がないためか、旅路は至って順調だった。まるで、流れに乗って泳ぐ魚のように、すいすいと進んでいる。

 しかし、楊鷹はその順調な様が、かえって不気味に思えた。まるで、嵐の前の静けさのような。


「神仙の追っ手はもう来ない、という可能性はないのか?」


 楊鷹が問うと、毛翠は引きつった笑みを浮かべる。


「すまぬが、来ないということは無いと思う」

「そうか」


 手短に頷くと、楊鷹はかたわらの机を見た。

 机の上には、一振りの剣が置いてあった。柄から伸びる、金色の長い剣穂(けんすい)。鞘に収まるのは、翡翠かと見まがう刃。神仙が作った、美しい仙器(せんき)である。望むらくは、今後引き抜く機会は来ないでほしい。だが、そういう訳にはいかないようだ。


(戦いは避けられないのか……)


 ばちばちと激しく打ち付ける雨音の合間に、遠雷が聞こえる。風も強まってきたようで、がたがたと部屋が揺れている。

 嵐は、すぐそばまで迫っているのかもしれなかった。

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