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小仙奇譚  作者: 平井みね
第二章
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決死の逃走・一

 ぽつりぽつりと控えめに降り始めた雨であったが、一刻も経たぬうちに土砂降りになった。瀑布のような轟音を響かせながら、大きな雨粒は縦横無尽に降り注ぐ。激しい雨が体に当たると、少々痛い。地面はぬかるみ、足を奪う。視界だって悪い。幾重にも重なってすだれのようになった雨が、山の風景を覆ってしまっていた。

 それでも、楊鷹(ようおう)はできるだけ早く歩いた。辺りは暗くなり始めている。日暮れが迫っていた。このまま、豪雨に打たれながら山中で野宿をするのも、夜通し歩き通すのも避けたい。


 背後から、小さなくしゃみが聞こえた。

 先ほど、背負っている毛翠(もうすい)を一旦下ろし、頭を布で覆ってやった。しかし大して意味はなかっただろう。あまり様子は見ていないが、間違いなくずぶ濡れだ。いくら普通の赤子でなかろうともこの状況、熱を出してしまっても文句は言えまい。だが、具合を悪くされるのは困る。そんな不都合が起こってほしくないこともあり、楊鷹は急いでいた。


「今日は宿に泊まろう」

「そのつもりだ」


 背中から聞こえた細い声に、楊鷹は手短に答えた。

 そうそう、宿に泊まれる身分ではない。だが、今回ばかりは仕方がなかった。

 そうして急いで歩くこと間もなく、徐々に道は開け、やがて前方に門が見えた。石造りの門の向こうには、いくつか人家が覗いている。間違いなく、集落だ。楊鷹は一層足を速め、門をくぐった。そして、さっさと宿を探し、その扉を叩いた。


「いらっしゃい。この大雨の中、大変でしたね」


 宿に入るなり、店主の男はにこやかに迎えてくれた。

 小ぢんまりとした帳場には、店主と楊鷹たちの他に、人の気配は無い。この悪天だ、客は少ないに違いない。

 店主が首にかけていた布を楊鷹に差し出した。


「どうぞ」

「かたじけない」


 布を受け取ると、楊鷹は笠を脱ぎ、体や荷をぬぐった。だが、全身びしょ濡れだ。拭いた程度では、ほぼほぼ無意味。早く脱いで乾かさなければ。


「一晩でよいですか?」

「はい。よろしくお願いします」


 店主の問い掛けに答えると、楊鷹は体を拭く手を止めた。それから、布を返そうと手を伸ばしたとき、店主と目が合った。男の丸々とした瞳が、じっと楊鷹を見つめている。

 楊鷹はわずかに肌がひりつくのを感じた。かすかに緊張を覚える。顔を背けたくなったが、そんなことをしては()()()怪しまれる。楊鷹は一度そっと右頬を掻きつつ、真っすぐ注がれる視線を至って静かに受け止めた。


「何か、顔についていますか?」


 落ち着いた声で尋ねる。


「ああ、いや。どこかでお見かけしたお顔のような気がしまして」


 楊鷹は視線を逸らして考えるふりをした。そうして一拍間を空けてから答える。


「貴方とお会いした記憶はありませんが」

「そう、だと思うのですが……」


 どうも店主は歯切れが悪い。口元は笑っているが、眉尻は下がっており、困った風情が漂っている。納得がいっていない様子だ。

 楊鷹は、事前に考えていた文言を口にする。


「もしかして、最近出回っている人相書きではないですか?」


 店主が眉を跳ね上げた。心当たりがあるらしい。

 楊鷹はさらに言った。


「最近街に出回っている手配書に書かれている人相書きと、顔が似ているのです。先日この目で見て、本当に驚きました」


 店主は「ああ」と、得心した様子で頷いた。


「そうです。この間、県城まで行ったときに人相書きが出てまして、おっしゃる通りお客さんに似ていました」


 墓穴を掘ったか、と楊鷹は一瞬どきりとした。言葉が喉の奥で詰まる。その楊鷹を見透かすように、背中が少し痛んだ。つねられた。

 気を取り直して、楊鷹はわざとらしく息を吐いた。


「そうでしたか。ええ、本当によく似ているんですよ。あの罪人が何をやったかまでは詳しく見ていないので知らないのですが、まったくとんだ迷惑です」


 そう言いきると、頃合いを見計らったかのように、背中の毛翠がぐずり始める。ふぎゃふぎゃと、いかにも赤子らしい声を上げている。楊鷹もそれらしく、赤子を揺すった。


「失礼」


 顔がひきつりそうになるのを堪えながら、楊鷹は必死に赤子をあやす。体を揺すりながら、「泣くな、泣くな」とそれらしく声をかけた。


「ああ、すみません。濡れたままで気持ち悪いですよね」


 店主がさっと腕を伸ばして、階段の方を示す。


「部屋は二階の一番奥を使ってください。それから、すぐにお湯と着替えを持っていきます」

「ありがとうございます。お願いします」


 楊鷹が小さく頭を下げれば、店主は慌ただしく奥の部屋へと引っ込んだ。その姿が見えなくなると、面白いほどぴたりと赤子は泣き止む。店主の気を充分に逸らしたので、お役ごめんといったところか。


(どうにかごまかせたか)


 楊鷹は安堵の息を吐くと、そそくさと部屋へ向かった。


 言葉通り、店主はすぐさまお湯と着替えを部屋まで持って来てくれた。楊鷹(ようおう)は湯で体を清めた後、店主が用意した寝衣(しんい)に着替える。その後、毛翠(もうすい)を残った湯に入れた。湯に入った赤子は、ひどくぎこちない手つきではあったが、己で己の体を洗う。普通の赤子ではない彼は、ある程度のことは自分でできる。ただし、できないこともある。


「おーい、おわったぞ」


 楊鷹が濡れた衣服を干し終えたちょうどそのとき、毛翠は言った。

 楊鷹は湯桶に近寄ると、毛翠を湯から引き揚げた。それから、体を拭いてやる。体を拭くことや着替えたりすることは、上手くできないことであった。だから、湯を浴びるとなると、楊鷹が手伝わねばならない。


 ふさふさとした黒髪を拭き、続けて体をぬぐう。こうして毛翠の世話をしなければならないとき、楊鷹はとにかく早く手を動かす。もたもたしていると、毛翠から文句を言われるわ、無性にいらいらしてくるわ、はたまたもやもやとした嫌悪感を感じてしまうわ、ろくなことがない。

 楊鷹は無心でてきぱきと体を拭くと、かたわらに置いておいた衣を取る。どうやら赤子にちょうど良い大きさの着替えはなかったようで、その衣は女児が着るような牡丹の刺繍の入った黄色い短衣だった。


 まったくもってぶかぶかだが、もとの着物が乾くまでの仮衣としては十分だ。

 楊鷹はやはり手際よく、ちょこんと座る毛翠に短衣を着せる。その際、手を動かしながら、ちらりと赤子の膝を見た。

 柔らかそうな膝頭には、傷跡があった。うっすらと赤くひきつれた肌が痛々しい。おそらく、出会った直後に手当てをした傷の名残だ。血がにじんで、一層ひどかった部分である。そこが、まだ癒えきっていないのだ。

 以前から気になっていた。毛翠は神仙である。だから、傷の治りは常人よりもずっと早いはずだ。


(もしかしたら、傷の治りも遅くなっているのか……?)


 神仙といえど、毛翠は赤子の姿に変えられてしまった。どうも、神仙らしい特別な力はだいぶ失ってしまっているようだった。とはいえ、この傷を手当てした際、彼は「この程度すぐに治る」と言っていなかったか。

 楊鷹の視線に気づいたのか、毛翠が尋ねる。


「どうした?」

「なんでもない」


 ぶっきらぼうな声で答えながら、楊鷹はさっと視線を逸らす。この旅において、楊鷹が自身で定めた掟。毛翠の事情をあまり気にしてはならない。気になってしまっても、深入りしない。無視である。無視して、「おそらく赤子になってしまったために、傷が治りにくくなった」のだと、勝手に決めつける。


 ところが、毛翠の方が放っておかなかった。彼ははだけた足を見下ろすと、


「もしかして、この膝の傷のことか?」


 と、言う。

 図星を突かれた楊鷹は、思わず黙る。

 すると、毛翠は眉尻を下げた。


「この傷、思った以上に深かったようでな。とはいえ、すぐにきれいさっぱり治ると思ったんだが」

「そうか」


 楊鷹は、興味なさそうに短く返事をすると、体を拭くのに使った布をたたむ。しかし、そんなつれない態度にも関わらず、毛翠は饒舌に語りだした。


「いや、一方的にこの姿にされて一切説明もなくこっちに追いやられたから、よく分かっていなかったんだが……。どうやらわし、この体になって傷の治りも遅くなったらしい。体のどこもかしこもあっさり傷つくし、いやはや本当にただの赤子だな」


 自嘲なのか恥ずかしいのか、毛翠はへらりと笑った。とたん、楊鷹は苛立ちを覚えた。想像通りの代わり映えしない答えであったのに、無性に腹立たしくなってくる。どうやら、時間をかけすぎてしまったようだ。


「わざわざ教えてくれてどうも」


 楊鷹は口先だけで礼を言うと、毛翠を抱き上げて寝台へと移動させる。心持ちその姿が隠れるよう、帳の影に毛翠を下ろしたら、自身はかたわらの椅子に腰掛け、そっと赤子に背を向けた。

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