序 不変の桃園にて・二
五色の鯉が跳ねた。大きな音が静謐を破り、水しぶきが舞い上がる。
そのしぶきの向こう、池にかかる橋を渡って誰かがやって来る。玄素元君の侍女だ。侍女は玄素元君の前までやって来ると恭しくひざまずき、告げた。
「施鵬殿がお目通りを希望されております。どうやら急ぎの御用があるようです」
「通せ」
主人の許しを得た侍女はもう一度頭を下げると、素早く去ってゆく。彼女が立ち去ってしばらく、今度は一人の男が現れた。簡素な袍に頭巾という、まるで人界の役人のような出で立ちの男だ。彼、施鵬は足早に橋を渡り、水亭までやって来る。
施鵬は卓の真ん前で足を止めると、さっと膝をついて拱手の礼をした。
「おくつろぎのところ申し訳ありません」
「どうした」
「私はいない方がよいでしょうか?」
慧牙が問いかけると、玄素元君は「構わん」と一言告げる。施鵬はちらりと慧牙を一瞥した。
「構わんと言っただろう。急ぎの報せがあるから、わざわざここまで来たのではないのか? さっさと話せ」
玄素元君の声には、有無を言わせぬ強さがあった。そも、その堂々たる佇まいからして、相手を圧倒する威厳がある。
施鵬は短く「はっ」と返事をしながら、もう一度手を合わせて頭を下げた。
「黎颫のことです」
施鵬は従順に言った。
彼は、怒りのままに桃李虚を飛び出した黎颫の後を、追いかけていった神仙である。黎颫は腕は立つものの、感情的だ。怒りのあまり、人の世界で面倒事を起こしてしまうかもしれない。例えば、人を殺すだとか。人界でむやみに殺生を行なうことは、桃李虚の神仙にとって禁忌だ。そのような懸念があるため、施鵬は黎颫のお目付け役として、人の世へと向かったのだった。
「人間を一人……殺しました」
「ほう。それはいけないな。おしおきだ」
神妙な口ぶりで施鵬が告げると、玄素元君は涼やかに言いのける。懸念していたことが起こってしまったというのに、桃李虚を統べる女君は悠然としていた。
「おしおきですか。どうかお手柔らかに」
慧牙がしずしずと頭を下げると、玄素元君は笑いをこぼす。
「どうかな。黎颫もなかなかの問題児だ。ここできつく灸を据えたほうがいいかもしれん」
頬杖をついて、玄素元君は盤の隅を指先で叩いた。
施鵬はまだ頭を下げている。玄素元君の冴えた瞳が、おもむろに施鵬を見た。施鵬の体が微かに震えたことに、慧牙は気がついた。
「して、人を殺したその問題児は、目的を果たしたのか?」
「それは……」
「犬はどうなった」
一層厳かな口調で、玄素元君は尋ねる。施鵬は答えない。
沈黙が流れる。玄素元君が盤を叩く微かな音だけが、規則正しく響く。慧牙が数え始めて四十九回目、ようやっと施鵬は口を開いた。
「翠は、自身と同じ緑色の瞳を持つ男と一緒におりました。稟国に緑の瞳の人間は、そうそうおりません。おそらく、共にいた男は奴の息子と思われます。……そして、その息子のような男は、仙器を持っておりました。そのため、黎颫は彼らに敵わず、腹から真っ二つにされたところを、私が連れ帰りました」
慧牙は僅かに目を見開いた。
翠の息子、半人半仙たる存在が仙器を持ち、神仙を斬った。それは、桃李虚において重たい意味を持つ。その昔、仙器を持った半人半仙が桃李虚に乗り込んできては暴れまわり、多くの神仙を害するという事件があった。それは人の世においては、すっかり忘れ去られた遥か昔の出来事であったが、永劫不変の桃李虚では未だに色褪せることのない凶事である。そのために、桃李虚では神仙が人と結ばれ子を成すことを、罪としているのだ。
盤を叩く手が止まる。一切の音が消え、完全な静寂となる。寒々とした静けさが、場を満たす。玄素元君も慧牙も施鵬も、凍り付いたかのようにぴくりとも動かない。
やがて、その氷を割ったのは、慧牙の笑い声だった。彼は突然吹き出し、盛大に声を上げて笑う。
ちらりと、玄素元君が目だけで慧牙を見る。
「思った以上に、がぶりと噛みついてきたようですね」
笑い混じりに慧牙は言った。
玄素元君も薄く笑う。
「笑い事ではないぞ」
玄素元君は白い将の駒の前に置かれた黒い卒を、人差し指で押さえた。
「本当に運の良い奴よ。こうなったら、徹底的に潰すしかないか」
「荘炎魏に声をかけますか?」
慧牙が問うと、玄素元君は頷いた。
「そうだな」
細い指の下で、黒い卒の駒がぱきりと嫌な音を立てて割れた。施鵬の体がわずかに跳ねる。玄素元君はそれをしっかりと見咎める。
「どうした施鵬。何かあるか?」
ためらうように唇をなめてから、施鵬は答えた。
「お言葉ですが、荘炎魏を向かわせるのは、やり過ぎなのでは? 翠は我々を害することはない、と言っていました。ならば……」
突然、玄素元君が立ち上がった。とっさに施鵬は口を閉ざす。
女君は目をすがめ、口出しした格下の神仙を睥睨する。その薄金の瞳には、烈しい光が宿っていた。太陽にも負けない強烈な月光は、玄素元君の意思の表れだ。黙しているが、彼女は明らかに施鵬を難じている。
「施鵬、随分と翠たちに肩入れしているようですね?」
玄素元君の心持ちを代弁するように、慧牙が尋ねる。すると、施鵬はその質問に答えることなく、「失礼いたしました」とただ深々と頭を下げた。
玄素元君が施鵬から視線を外した。
「今までの私が愚かであったのだ。ぬるくしすぎた。もはや、やり過ぎるくらいでなければ、あれには効かぬ」
凛然とした声には、薄らと怒りがにじんでいるようだった。怒れる厳かな声音を前に委縮してしまったのか、施鵬はすっかり黙り込んでしまった。彼は従順に頭を垂れたまま、ぴくりとも動かない。
「もはや抹殺も厭わない。荘炎魏を向かわせる」
そう朗々と宣言し、玄素元君は颯爽と歩き出す。彼女は沓音を響かせながら水亭を出ると、橋を渡って行ってしまった。
豪奢な紅の上着が見えなくなったところで、慧牙は口を開いた。
「いい加減、顔を上げたらいかがでしょう? 玄素元君はもういらっしゃいませんよ」
長々とため息を吐いた後、施鵬は顔を上げ、ゆっくりと立ち上がる。
「帰っていたんだな」
施鵬の口調が、だいぶくだけている。桃李虚での格は異なるが、施鵬と慧牙はすっかり気心の知れた仲なのであった。
慧牙はにこやかな笑みを浮かべ、盤上の駒を片付け始める。
「ええ。私がいない間に、翠がいろいろやってくれたようで」
「事情はあらかた聞いたのか」
「はい」
慧牙が頷くと、施鵬は眉をひそめた。
「いいのか? 荘炎魏が行くことになって。あいつがどれだけ翠を嫌っているか、知っているだろう。黎颫の比じゃないぞ。それにあいつは、酷薄だ。人の命をなんとも思っていない」
「だからこそ、ではないですか。親子に対する嫌悪に加えて、まるっきり容赦のない残忍さ。それらを有する荘炎魏であれば、黎颫のようなことにはならない。確実にやってくれます。なんなら、私も一緒に行きますし、ご安心を。サクッと終わらせてサクッと帰ってきますよ」
「……お前、本気でそんな風に考えているのか?」
施鵬はますます眉をひそめて、渋い表情になる。対する慧牙は笑みを崩さない。
「ええ、本気です。それが最善の手ですよ。先ほど一度占ったら、そのような結果が出ましたから」
そう言うと、慧牙は駒を片付ける手を止め、袖から小袋を取り出した。そして、袋の中身を自身の手の平の上にばらまく。零れ落ちたのは、白い銭が五枚と黒い銭が一枚。色は違えど、すべての銭の模様は同じ。表には龍が、裏には鯉が描かれていた。
「今一度、占ってみましょうか?」
慧牙には占いを用いた先見の力がある。占う方法も、易占いだろうが、人相占いだろうが式占だろうが、なんでもお手の物である。今回はお手軽に、銭で卦を出そうという魂胆だ。六枚の銭を並べて、その裏表の並びで吉凶を見るのだ。占いの方法としては簡便な方法ではあるが、慧牙の手にかかればかなり明確な結果が得られる。単なる吉凶だけでなく、起こり得る事象までも分かってしまうのだ。
施鵬は黙っている。それを肯定と受け止めた慧牙は、そっと銭を握りしめた。
「さて、何が見えるでしょうか」
そう声を弾ませてから、慧牙は目を閉じる。それから、深々と息を吐き、意識を集中させた。まるで地中深くへと潜ってゆくように、意識をひたすらに沈めてゆく。真っ暗な空間に、糸のように細い光がいくつも揺蕩っているのが見えた。それに、慧牙は問いかける。
翠とその息子。荘炎魏は彼らを殺せるか。
意識の底で何度も何度も問いかけながら、銭を握りしめた手を前後左右に振る。手中で銭がぶつかり合い、ちりちりと小さな金属音が鳴るたびに、光の糸はゆらゆらと大きく揺れる。一際大きく波打った次の瞬間、光が弾けた。
闇が凪ぐ。
慧牙はぴたりと銭を振る手を止めた。まっさらな闇を見つめながら、六枚の銭を象棋の盤上に並べてゆく。目を閉じているというのに、器用にも彼は真っすぐ縦一列に銭を置く。
最後の一枚を置くと、慧牙はおもむろに目を開けた。盤上にきっちりと並んだ六枚の銭が目に入る。刹那、白昼夢のように、慧牙の眼前にその光景がはっきりと浮かび上がる。
「ああ、ほら」
ほう、とため息交じりに、慧牙はうっとりとした声を漏らした。
「とても良い結果です。一路順風。なんの憂いもありません。翠もその子供もおしまいです」
白魚のような指で、愛おしむように銭をなぞりながら、占者はたおやかにほくそ笑む。
「この卦が示すのは、荘炎魏の勝利。私には親子が死ぬ光景が、はっきりと見えましたよ」




