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小仙奇譚  作者: 平井みね
第二章
47/131

序 不変の桃園にて・一

いつもお読みいただき、ありがとうございます。

第二章は、週一回(毎週金曜日)更新とさせていただきます。ご了承ください。

 白い(ひれ)が翻り、水面が揺れた。曇りない水面に波紋を描いたのは、五色(ごしき)の鯉だ。青、黄、赤、白、黒をまとうその魚は大きく、五尺(約150cm)はあろうか。おおよそ尋常ではない、霊験あらたかな様子の鯉である。


 五色の鯉が悠々と泳ぐ池には、水亭が建っている。今、その水亭には人影が二つあった。一つは深衣(しんい)に身を包み、赤茶色の長髪を頭頂で緩やかに束ねた青年、もう一つは紅い絹地に金糸の鳳凰が舞う、なんとも豪奢な上着をまとった女性である。二人は、(へり)に龍文が彫られた机に、向かい合って座っていた。


 青年――慧牙(けいが)は、ちらりとかたわらを見下ろす。高台にある池の縁に建つ水亭からは、眼下に広がる桃園が一望できた。白と淡紅が混じり合った花の海。並ぶ(すもも)や桃はどれも咲きこぼれ、風が吹けば甘い香りが漂った。『桃李虚(とうりきょ)』という名に恥じぬ、壮麗な花園だ。


 けれども、退屈でもあった。この花園は永遠だ。神仙たちが住まう地、桃李虚では季節が移ろうことはない。花々は枯れずに、可憐にほころび続ける。風光明媚な桃花の海原は、まさしく海。決して干上がることはない。だからこそ退屈なのである。花は散るからこそ、趣がある。


 目まぐるしく変わる人の世に飛び出したくなってしまうのも、よく分かる。慧牙はそのようなことを思った。

 神仙たる己も、いつまでも青年然としたままで、もう千年は生きているはずなのに、肌には皺一つなく赤みがかった茶色い長髪もまったく色褪せない。時にそれすらもつまらなく感じてしまう。


「どうした、慧牙」


 玲隴(れいろう)な声が呼ぶ。青年ははっとして、すぐさま桃園から対面へと視線を移した。

 射干玉(ぬばたま)の黒髪を高々と結い上げた佳人が、微笑んでいた。彼女は赤い袖をさばき机上を示すと、


「お前の番だぞ」


 と、誘うようにわずかに首を傾けた。(かんざし)から垂れる玉が、清らかな音を立てて揺れる。


「失礼いたしました」


 慧牙は微笑みながら、机上を見た。

 机の上には盤があり、その上には「将」や「卒」「馬」といった文字の書かれた白と黒の駒が、不規則に並んでいる。この雅やかな水亭で、慧牙は佳人と象棋(しょうぎ)に興じている最中であった。

 盤面にさっと視線を走らせた慧牙は、はたと気づいた。

 勝負は既に着いていた。詰んでいる。「将」の駒を相手に取られたら決着が着くが、その己の黒い将の駒の行く手には、相手の白い駒が待ち構えている。もう逃げ場はない。

 慧牙はすっと目を細めた。


「おや、これはこれは……」


 佳人は、ゆったりと椅子の背にもたれた。


「らしくないな慧牙。出掛けている間に、呆けてしまったか」

「そうかもしれませんね」


 そう答えた直後、慧牙は吹き出した。そのまま、ほっそりとした肩を震わせながら、彼は笑う。


「どうした」

「いえいえ、なんだかとてもおかしくなってきてしまいまして」


 慧牙はようやっと笑いを収めると、顔にかかった髪を耳にかける。それから、対面に座する佳人を真っすぐ見つめた。


「ところで、私が留守にしている最中、こちらで大変なことが起こったとお聞きいたしましたよ、玄素元君(げんそげんくん)?」


 玄素元君。それは、桃李虚を統べる女仙の名である。慧牙はその玄素元君にそば仕える神仙であった。

 対面の佳人、すなわち玄素元君は、その切れ長の瞳をつと細めた。


「聞いたのか」

「はい」

「ほんに、あれには困ったものよ」


 玄素元君は天を仰ぐと、息をもらした。

 慧牙(けいが)が留守の間に、桃李虚(とうりきょ)で起こったこと。それは、「(すい)」と呼ばれる神仙がしでかした出来事である。

 この神仙、過去に大罪――人間との間に子をもうけるという罪――を犯し、牢獄に閉じ込めていたのだが、なんと牢番の目をかいくぐって脱走してしまったのだ。どうにか捕まえたものの、奴は声高に懇願した。

「頼むから、人界に行かせてくれ」と。


 それは、まったくもって己を省みていない願いであった。人の世界に行ったきり戻ってこないと思ったら、人間と恋に落ちて子供をもうけていた。だから牢に閉じ込められたというのに、懲りずに「人界に行きたい」と叫ぶ。

 この翠の様子に、玄素元君(げんそげんくん)はかっとなってしまった。そこまで言うならば、人界に行けばいい。ただし、ただでは行かせない。

 玄素元君は翠を赤子の姿に変えると、そのまま人界へと追いやったのであった。


 これが、慧牙が桃李虚をちょっと留守にしていた間に起こった出来事の顛末である。


「しかし、結局人の世にやってしまったようですが、それで良かったのですか?」

「構わん。あれはもう桃李虚には置いておかずとも良いだろう」

「そうではなく」


 慧牙は、表面に「卒」と書かれた黒い駒をつまみ上げると、玄素元君をねめつけた。


「もし、人の世で家族……妻や子供と再会してしまったら、どういたします?」


 おもむろに、玄素元君は慧牙を見つめた。月光のような淡い金色の瞳が、慧牙を射る。


「人の世は広い。しかも赤子の姿になっているのだぞ。そう簡単にゆくものか。仙術は封じた。体も大して普通の子供と変わらない、柔い体だ。何ができる。どうせ獣にでも食われて傷ついて、苦しんでいるだろうよ。それでも簡単には死ねぬから、とんだ生き地獄だ」


 そう言って、玄素元君は鼻で笑った。

 駒をもてあそびながら、慧牙は深く頷く。


「確かに、家族と再会することは非常に難しいでしょう。天上に輝く無数の星の中から、暗く小さい星を見つけ出すようなものです。しかし、あれは運が強くございます」

「そうか。そうかもしれんな。だが、黎颫(りふ)も追いかけていったのだぞ? 翠が逃げたとき、牢の番をしていたのはあいつだったからな。だまされたと、ひどく怒っていた。獣でなければ、黎颫がひき肉にでもしてしまうだろうさ。そうなれば、もう死んだも同然だ」

「そうですか。ええ、そうでしょうね」


 これまた、玄素元君の言う通りであった。特に、黎颫は翠を逃がした張本人とも言える。彼女が牢の番をしていたときに、翠は彼女を上手くだまして逃げおおせたのだ。故に、黎颫の怒りは甚だ激しく、力を封じられて追放された翠を追いかけていってしまった。

 慧牙の口から息がもれ、次第に笑い声へと変わる。

 玄素元君は唇を薄く引き上げ、優雅に微笑んだ。


「あれがひき肉になるのが、そんなにおかしいか?」


 慧牙は片手で額を押さえるとうつむく。笑いをこらえようとしている様子だが、弾む笑声はなかなか止まらない。


「お前は本当によく笑うな……」


 呆れのこもった声で、玄素元君が言う。皮肉めいた言葉を受けてやっと、慧牙の笑いは止まった。


「……失礼いたしました」


「はぁ」と深々と息を吐いてから、慧牙は改めて口を開く。


「ひき肉になってくれれば面白いですが、しかし奴は素直にひき肉になるでしょうか? もしかしたら、黎颫の手すらかいくぐって、星を見つけてしまうかもしれません」


 玄素元君の眉間がわずかに動いた。


「子犬といえども、案外しぶといものです」


 慧牙は今一度くすりと息をもらすと、手中の黒い卒の駒を、白い将の駒の前に置いた。


「ときに、噛みついてくることもありますゆえ」

「……貴様、何か見えているな?」


 玄素元君はわずかに身を乗り出し、慧牙を睨む。鋭い視線を注がれながらも青年は黙ったまま、ただ静かに微笑む。

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