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小仙奇譚  作者: 平井みね
第一章
46/131

旅は続くよ、むしろこれから・六

 春蘭(しゅんらん)は、はにかんで目を伏せた。長いまつげが、目元に影を落とす。やはり言いづらそうな様子の春蘭であったが、それでも彼女はぽつぽつと語りだした。


「私は沁富県(しんふけん)に住むその従兄のことを、影ながらずっと慕っておりました。ただ、このような気持ちを女の方から告げるのは、はしたないと思っていたのです。ですが、昨日の山賊の一件で、気がついたのです。待っているだけでは、いけないと。この恋しい気持ちを、しっかり伝えなければ、と。そう思ったとたん、いても立ってもいられなくなってしまい、それで急遽従兄に会いに行くことにしたんです」


 そこまで言うと、春蘭は一息ついて視線を上げた。彼女は、真っすぐ楊鷹を見つめると、柳眉をひそめた。


「実は県城までの護衛を、(りゅう)さんに頼もうと思ったのです。ですが、昨日の朝の時点では、まだ決心がつかずに迷っておりました。それでずるずるとお引き留めるするような真似をしてしまったうえ、結局護衛のお話も言い出せず……」


 その話を聞いて、楊鷹(ようおう)は得心する。

 昨日の春蘭のもてなしはいささか過剰なところがあったが、それは意図があってのことだったのか。


「なるほど。それで、いろいろとお食事を用意してくれたり、お湯まで使わせてくれたのですね」

「……はい。お急ぎのご様子だったのにしつこくしてしまい、申し訳ありませんでした」


 春蘭はそう言って頭を下げた。

 丁寧な物腰の謝罪であったが、楊鷹からしてみれば謝ることではない。

 確かに急いでいたが、食事も浴湯も決して迷惑ではなかった。

 

「お気になさらずに。こちらこそ、いろいろとお世話になりました」


 楊鷹も礼を返す。すると、突如背中の赤子が咳き込んだ。

 春蘭が目を見張る。


「大丈夫ですか?」

「ええ、大丈夫です」


 楊鷹は腕を回して、咳き込む毛翠(もうすい)を軽く叩く。空咳とは異なる少々濁った音はしばらく続いた。

 やがて咳は止まったものの、春蘭はわずかに体を傾けて、楊鷹の背中を覗きこもうとしている。彼女の気を逸らしたくて、楊鷹は尋ねた。


「護衛は別に見つかったのですか?」


 春蘭がさっと姿勢を正した。楊鷹は毛翠から手を離す。


「あ、いえ、丁度よい方が見つからなくて、結局父と使用人について来てもらうことで、話はまとまりました。父に正直に気持ちを話すのは恥ずかしかったですし、初めは反対されたのですけれど、どうにか説き伏せました」

「そうでしたか」

 

 楊鷹は相槌を打つと、春蘭をじっと見つめた。

「護衛がいないのでしたら、私が県城までお送りしましょうか」と、そんな風に言いたくなってしまう。だから、そんなことをしている場合ではないというのに。

 春蘭たちにはだいぶ世話になってしまったので、もし困っているならば力を貸したいのが本音。義理に背くことはしたくない。しかし、人助けもほどほどにしなければ、目的地は遠ざかるばかり。

 一時の俊巡の後、楊鷹は頭を下げた。


「できることなら県城までお送りしたいところですが、方向が異なっております故。申し訳ない」

「いえ、気になさらないでください。私たちなら大丈夫です。道も安全な道を選んで行きますから」


 春蘭の口振りはさわやかで、そこに含みはなかった。楊鷹は安堵した。

 その時、「お嬢さん」と遠くから声がかかった。春蘭が振り返る。楊鷹も声が聞こえた方をを見やる。

 春家の使用人と春全が、酒店の前で待っていた。いつの間にやら、二人のそばには荷を背負った灰色の驢馬(ろば)が一頭。その手綱は、使用人が握っている。


 「お嬢さん、そろそろ行きましょう。遅くなりますよ!」


 使用人が口元に片手を添えて、再度春蘭に向かって呼びかけた。

 春蘭は「今行きます」と応じると、くるりと体を翻して楊鷹に向き直る。


「それでは、そろそろ失礼します。劉さんもどうかご無事で」

「春蘭殿もお気をつけて。想いが実ること、祈っております」

「ありがとうございます」


 春蘭は頬を染め、笑う。それは(すもも)のような笑みであった。甘酸っぱい香りが漂ってきそうな、愛らしい笑顔である。

 楊鷹もつられて微笑んだ。彼女の想いが成就してほしいと、心から思った。

「坊ちゃんも元気でね」と、春蘭は手を振る。毛翠も「あいー」と言葉にならない声を上げながら、手を振った。

 毛翠との別れをすませると、春蘭は春全と使用人のもとに駆けてゆく。そして、一行はゆっくりとした足取りで去っていった。

 春蘭たちの姿が見えなくなると、毛翠がこそこそと口を開く。


「蘭ちゃん、想い人がいるわりには随分と思わせぶりだったな」

「は? 思わせぶり?」


 言われたことの意味が分からず、楊鷹は思わず聞き返した。

 

「いや、昨日の朝、お前の腕を掴んだろう。あれはちょっとやり過ぎだ」


 毛翠はそう言ったが、やはり楊鷹は今一つ合点がいかない。やり過ぎ、というのは何がやり過ぎなのか、分からない。

 楊鷹は首をひねって毛翠を見た。すると、毛翠は楊鷹の背中にしがみついて、身を乗り出す。必然的に、楊鷹の上体も少々前のめりになる。


「おい、危ない」


 楊鷹は注意するも、毛翠は聞かない。


「……お前、蘭ちゃんに対して、ほんっとうに何も思うところはないのか? 気持ちを弄ばれたようで悔しいとか、想い人がいて残念、だとか。好きまでいかなくても、少しくらい意識しただろう」


 毛翠に言われて、楊鷹は思い出す。

 そういえばこの赤子、「蘭ちゃんはお前に気があるのでは?」などどほざいていたな、と。

 どうして、毛翠は春蘭に関して色恋のことばかり言うのか、楊鷹にはさっぱりである。

 毛翠は横目で楊鷹をねめあげている。彼の緑の瞳には父の色が漂っていた。

 戯れ言を言っているくせに、どうしてそんな目をするのか。

 楊鷹は悔しくなりながら、さりげなく遠くを見た。


「その遠くを見る目、やはり残念がっているな?」


 毛翠は(さと)い。声音や表情の機微に、よく気がつく。

 楊鷹からしてみたら、本当に面倒極まりない鋭さだ。しかも、話している内容はとんちんかんなままなのだから、余計に煩わしい。付き合うのが馬鹿馬鹿しくなってきた楊鷹であったが、変な誤解をされるのも嫌だったので、渋々答えた。


「いや。想いが成就してほしいと思うだけだ」

「……もしや、お前にも心に決めた人がいるのか?」

「別に。いない」


 楊鷹が即答すれば、毛翠はぽかんとした表情を浮かべた。今にもこぼれ落ちそうなほどぱっちりと目を見開き、小さな口をあんぐりとさせている。


「……それなのに、蘭ちゃんに対して何も思わんとは、お前それでも男か」


 毛翠が言う。おののく高い声には、呆れというより軽蔑の色が滲んでいた。

 楊鷹の心がすっと冷える。

 楊鷹は毛翠の体を両手で支えながら上体を起こすと、歩みを再開させた。すたすたと足早に歩き、店先を見ることもせずに酒店の前を通り過ぎる。

 毛翠はぺちぺちと楊鷹の肩を叩く。


「お、おい、腹が減ったぞ。あの酒店で少し休もう」

「休まない。急いでいることを思い出した」


 それは、楊鷹にとって何よりも大切なことであった。休憩などしている暇はない。まだ日は高い。もうひと山越えてしまいたい。越えなければならない。


「それはそうかもしれぬが、腹が減ったままというのは辛い」


 あくせくと毛翠は訴える。

 だが、楊鷹は足を止めなければ振り返りもせずに、淡々と答えた。


「焼餅が一枚余ってる。もう少し行ったらそれをやる」

「あの焼餅もう三日前のだぞ。絶対硬い」

「そうだな。だが、石よりは食べられるだろ」

「いや、おま……」


 楊鷹は「しっ」と口元に指を立てて、毛翠を制した。

 前方から天秤棒を担いだ男がやって来る。その後ろにも、数人の人影が見えた。


「……食い物の恨みは恐ろしいぞ」


 楊鷹の耳元に恨み言を言い捨てると、毛翠は口を閉ざしてそっぽを向いた。

 

(今更、そんな恨みを恐れるか)


 楊鷹は内心で言い返す。神仙と比べたら、食べ物の恨みなどかわいいものだ。その程度で、足を止めるわけがなかった。


 まばらな家並みの田舎道を過ぎ、古びた木製の橋を渡ると、辺りの景色が鬱蒼としてきた。

 本格的な山道になる前に、楊鷹は少々休憩を取ることにした。道端の木陰に座り、毛翠を降ろす。赤子は未だにそっぽを向いたまま、大人しい。

 すっかり拗ねてしまった毛翠であるが、楊鷹は全く取り合わず、無言で焼餅の入った包みを取り出して、開く。

 刹那、小さな手が焼餅をかすめ取った。

 そして、それからはあっという間であった。焼餅をかっさらったのは毛翠である。彼は、優に自分の顔の半分はある焼餅を手早く丸めると、たったひとくちで食べてしまった。幻のごとく、最後の焼餅は瞬く間に消えた。

 楊鷹の腹の虫が鳴る。焼餅を毛翠と分けあって、お互いの腹を少しでも満たす算段だったが、大失敗である。

 ものの見事に食いっぱぐれた楊鷹は、じろりと毛翠をにらみつけた。


「俺の分はなしか」

「さっき、わしにくれると言ってたろうが」


 不機嫌な声でそう答えると、毛翠はまた顔を背けた。彼の薄い唇には、焼餅の欠片がついている。その幼い口元が、なんとも憎たらしい。

 しかし、いくら憎たらしくても、もう焼餅は戻ってこない。早速の意趣返しを、楊鷹はため息ひとつでやり過ごす。しかし、体はごまかせなかった。

 ぐう、と楊鷹の腹が鳴る。食べ物を見てしまったからだろうか、余計に腹が減って来た。楊鷹は水筒を手にすると、水をひとくち口に含む。もう少し飲みたいところだが、まだまだ歩くことを考えればそうもできない。

 少量の温い水で、満たされるわけがなかった。そして、この先に待ち受けるのは山。楊鷹は行く先を見つめた。緩く曲がる道の先は、青々とした茂みに覆われている。また、腹が鳴る。

 毛翠が鼻で笑った。

 ふいに、なめられたものだな、と楊鷹は思った。


(こっちはついこの間まで、ろくに飲み食いせずに炎天下を歩いていたんだよ)


 流罪という悲しい事実の一片が、奇妙な自信に変貌する。空腹で延々と歩くことなど慣れたもの。そのことを、楊鷹は思い出した。全身に気力がみなぎってくる。

 と、いうわけで、楊鷹はぐうぐうと腹の虫を響かせながらも歩きに歩き、あっという間に峠を越えたのであった。



〈小仙奇譚 第一章・おしまい〉

お読みくださいましてありがとうございます。

これにて第一章は終わりになります。

第二章開始まで、今しばらくお待ちください。

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