旅は続くよ、むしろこれから・五
王嘉の「渡したいもの」をしかと受け取った楊鷹は、彼に暇を告げると、菁雲村を後にした。
露草が揺れる道を進む楊鷹の足取りは、相変わらず速い。一心不乱に足を動かし、次々と土を蹴り上げてゆく。
しかし、迷いない足取りとは裏腹に、楊鷹は悶々としていた。むしろ、その薄暗い気持ちをごまかしたいがために、がむしゃらに足を動かしていた。
家と家財を失ったこと。母の遺品のこと、月蓉のこと。それらについて、どうしても考えてしまう。記憶の底に追いやっても、またふっと浮かび上がってきてしまうのだ。
特に、住む場所を失ってしまった月蓉のことが気がかりでたまらない。彼女は湍幽県に向かったらしいが、果してそこで無事に身を落ち着けられるのか。
(湍幽県か……。都でないならば、会いにゆける、か?)
楊鷹はそんなことを思ってしまう。しかし、あっという間にその気持ちは崩れ去る。楊鷹はどんなに惨めであろうとも、現実をしっかりと理解していた。《《そんなこと》》は、不可能なのだ。
湍幽県は、藍耀海へ向かう道筋から少し離れている。立ち寄れば、それだけ遠回りをすることになる。それに何より、逃亡している罪人でありながら赤子になった父親を連れていてさらに神仙に追われている、という具合に、やたらめったら厄介なものを背負い込んでいるこの状況、月蓉に会いに行ったところで、彼女のためにできることは皆無である。むしろ迷惑をかけるに決まっていた。
だから、彼女が息災であるように、楊鷹は祈るしかなかった。それしか、できることはないのだった。また、無力さに打ちひしがれてしまいそうになる。
楊鷹はかぶりを振ると、前を見据えた。
陽射しは盛り、ゆらゆらと熱気がくゆる。楊鷹の全身から、汗が吹き出る。じっとりと衣が濡れる。額から流れた汗が、時折目に入る。けれども構わずに、楊鷹はただひたすらに道を急いだ。
そうして歩くことに注力していると、楊鷹の心は次第に落ち着いてきた。
平坦な道が、緩やかな上りに変わる。間もなく、山のふもとに家が並んでいるのが見えてきた。そのうちの一軒の軒先には、旗が翻っていた。どうやら酒店のようだ。
「腹が減った……」
ずっと静かだった背中から、力ない小さな声が聞こえた。
楊鷹も少々空腹を感じていた。朝、毛翠と共に塞で饅頭をご馳走になったが、それ以降は水しか口にしていなかった。
青空に浮かぶ白い雲は、山のようにうずたかい。そのふっくらとした白峰の天辺で、太陽は意気揚々と輝いていた。あの太陽、すでに昇りきったか。どうやら、もう昼時のようだ。
王嘉の家に立ち寄ったとはいえ、ゆっくりしたわけではない。楊鷹は朝から今まで、ほとんど歩きっぱなしだ。
体感にしても時間にしても、一息ついて良い頃合いかもしれない。
別れ際の王嘉の言では、「まだ手配書は回っていない」とのこと。しかし、だからと言って油断はできない。何か食べるにしても、麺か何かをさっと食べて、店を出る。長居は無用だ。
楊鷹は顔の汗をぬぐうと、右頬にそっと触れた。指先は、目の粗い布を引っ掻く。貼りつけた膏薬はそのままだ。刺青はしっかりと隠れている。
楊鷹は酒店へと足先を向けた。と、その時、店から客とおぼしき人影が出てきた。数は三人。
楊鷹は目をすがめて、じっとその客を見つめた。なんだか、見覚えのあるで姿形である。
客の一人が、不意に楊鷹の方に振り返り、ぱっと声を上げた。
「劉三さん!」
呼び掛けられて、楊鷹は面食らった。
なんと、声を上げたのは春蘭であった。彼女の声につられて、他の人影もくるりと楊鷹へ振り向く。その二人は、春全と春家の使用人であった。
春蘭が小走りで楊鷹の方へやって来る。どういうわけか、毛翠が楊鷹の背中をつねる。
春蘭は楊鷹の目の前で足を止めた。
彼女は、昨日よりもすっきりとした格好をしていた。襦裙の袖は細く、下衣の裾も短く靴がのぞいている。上着は着ておらず、動きやすそうな出で立ちだ。簡素な服装だからこそ、彼女本来の美しさが一層際立つ。
春蘭が恭しく一礼する。
「またお会いできるだなんて、思ってもみませんでした」
随分とにこやかな春蘭に対して、楊鷹は戸惑うばかり。すぐに言葉を返せない。
「劉さん、どうされました?」
春蘭が小首をかしげる。その不思議そうな表情を見て、楊鷹はようやっと口を開いた。
「……いえ、こちらこそお会いできるとは思っておりませんでした。こんなところで、どうしたのですか?」
「従兄に会いに、沁富県の県城まで出掛けるところなんです」
「そうでしたか」
そう頷きつつも、楊鷹は違和感を覚えた。
春家村から沁富県の県城までは、それなりに距離があるはずだ。しかし、春家に滞在している間に、遠出の準備をしている様子はなかった。それに、山賊の一件があったばかりで未だ落ち着かないだろうに、それなのにこうして出掛けるとは少々不思議である。
「何か急なご用事ですか?」
「ええ、その……」
楊鷹が尋ねると、春蘭はうつむいて言いよどむ。
他人が踏み込んではいけない私事なのかもしれないと、自身の迂闊さに気が付いた楊鷹は、さっと手を振った。
「失礼。言いにくいことでしたら、無理におっしゃらなくて結構です」
春蘭がぱっと顔を上げる。彼女の頬は薄らと赤らんでいた。
「そ、そうではありません。むしろ、このことで劉三さんには謝らなければいけなくて……」
口早にそう言われたものの、楊鷹には心当たりがなかった。
甲斐甲斐しく、あれこれもてなしてくれた春蘭である。感謝こそすれ、謝ってほしいと思うことは、まるでない。
春蘭を見つめ返してみても、彼女の黒い瞳から読み取れるものはない。どうしようもなくて、楊鷹は尋ねた。
「……謝らなければいけないこととは?」




