旅は続くよ、むしろこれから・三
「こちらにかけて、少し待っていてくれ」
奥まった一室で、王嘉は楊鷹に席を勧めると、部屋から出ていってしまった。
言われるままに、楊鷹は椅子に腰かける。古びた椅子は、ぎしりと音を立てて軋んだ。
昨日の失態は未だ記憶に新しく、楊鷹はちらりと振り向いて背中に声をかけた。
「大人しくしてろよ」
「おう。寝たふりでもしている」
ささやき声で毛翠は答えると、早速小さな寝息を立て始めた。
楊鷹は部屋を見回した。狭く、古ぼけた部屋だ。少しかび臭く、ほこりっぽい。外垣と同じ煉瓦造りの壁は、所々表面が剥げていた。楊鷹の目の前にある小さな紫檀の机にも、染みや傷がある。遠い昔に、置いてけぼりにされてしまったような切なさが漂う。
当の本人がどう思っているのかは分かりかねるが、それにしたって王嘉ほどの人物が暮らすにはさびしい家である。彼は朱柳県の出身だったはずだ。故郷に帰ると言っていたが、どうして実家に戻らなかったのか疑問である。何か訳があるとしたら、王嘉が禁軍を辞めた理由と何か関係があるのか。
間もなく、王嘉が戻ってきた。手には何か包みを抱えている。彼は楊鷹の対面の席に着くと、包みを机上に置いた。その花鳥文が描かれた白色の生地に、楊鷹は見覚えがあった。
「あまり綺麗な家でなくて、すまないね」
そう言う王嘉の口調はからっとしており、そこに貧しさや苦悩は感じられない。
楊鷹は率直に尋ねた。
「この様なところに住んでいらっしゃるのは、意外でした。朱柳県のご出身だと伺っておりましたが、ご実家には戻られなかったのですか?」
「廂軍(地方軍)といえど、父はまだ軍で働く身。一度実家に戻ったんだが、やはり私のことで迷惑をかけるわけにもいかないと思ってね。伝を頼って、この家を借りることにしたんだよ」
「そうでしたか……」
己の考えが間違っていなかったことを知った楊鷹は、苦々しい気持ちを噛みしめながら答えた。
王嘉が禁軍師範という職を辞し都を去ったのは、彼も楊鷹と似たような状況に陥ったためだ。枢密使の反感を買ってしまったのだ。
王嘉はその高い実力ゆえに禁軍内では一目置かれ、多くの人に慕われていた。だが、そんな彼も完璧ではなかった。楊鷹は欠点のない立派な人物だと思っていたが、高官たちはそう思っていなかった。王嘉は不正を嫌い、媚びへつらうことをしない。その公明正大な彼の気質は、宮廷を牛耳る高官たちからしてみれば、間違いなく短所であった。
昨年、禁軍の総司令官にどこの馬の骨とも知れない人物が任命された。名のある武人でもなんでもない、ぽっと出の得体の知れないその人物において一つはっきりしていたことは、枢密院の長官である枢密使のお気に入りであるということ。この出来事に対して、王嘉は真っ向から意を唱えた。しかし、聞き入れられることはなかった。
以来、王嘉は禁軍ひいては宮廷に失望。加えて、この出来事がきっかけで、枢密使やその周辺の官吏に煙たがられるようになってしまった。その権力者たちがかもす不穏な空気を王嘉は機敏に察知し、己の身に災難が降りかかってくる前に円寧府を脱したのだった。
そして、軍とつながりのある家族のことを慮って、わざわざこんなにも年季の入った家に暮らしている、というのだ。
楊鷹は改めて口惜しい気持ちになる。王嘉から「職を辞して故郷に帰る」という話を聞いた時も、ひどく残念でたまらなかった。やはり、王嘉が逃げねばならなかったことが、納得いかない。王嘉に落ち度はまったくない。意見したことを落ち度だとする輩の方が、どうかしている。どうかしている奴らは都で甘い暮らしを続けているのに、片や王嘉はこんなところでひっそりと暮らしている。彼は尊い武人だ。凛とした佇まいも神がかった弓の腕も、全く衰えていない。宝の持ち腐れどころか、自ずから宝を壊している。
楊鷹の心に怒りがにじむ。何度思い返しても胸くそ悪い。
しかし、王嘉の表情は朗らかなままだった。
一人いきり立っても仕方がないと気がついて、楊鷹は息を吐いて気持ちを静める。
「暮らしぶりは、落ち着いていらっしゃるのですか?」
「おかげさまで。山賊たちと懇意にするくらいには」
朗らかを通りこした、不敵な物言いであった。慎重に家族のことを気遣う王嘉だが、彼は決して繊細ではない。むしろ己の気持ちを貫くためならば、どこまでも豪胆だ。
やはり王嘉は、「不正を働く連中しか狙わない」という銭秀たちの矜持に強く共鳴したのだろう。もしかしたら、彼らの仲間になることまで考えているのか。「家族に迷惑をかける」というのは、そういうことなのか。
少なくとも、先日の挑戦的な視線を思い返せば、王嘉は山賊との付き合いを止めはしない。楊鷹も銭秀の信念には惹かれる部分がある。だから、王嘉を止めはしない。ただ、彼の身は心配であった。
出すぎた真似かもしれないが、楊鷹は言わずにはいられなかった。
「銭秀たちが悪人でないことは分かります。ですが、あまり無茶はしないでください」
「ありがとう。肝に命じておくよ」
王嘉はにこやかに言うと、静かに手を組み、少々身を乗り出した。
「しかし、私よりも君の方が大変だろう」
王嘉の視線がわずかに揺れ、楊鷹の右頬へと向いた。
楊鷹は確信する。王嘉は、膏薬の下に隠れているものが何か、知っている。
楊鷹は声を潜めて尋ねた。
「春蘭殿から、俺に渡したいものがあると伺いました」
王嘉は頷くと、机に置いてあった布包みを引き寄せた。
「ああ。実は先日、月蓉殿が訪ねてきたんだ」
「月蓉が?」
楊鷹は目を見張った。今ここで月蓉の名前が出てくるとは思わなかった。
月蓉とは、楊鷹の家で住み込みで働いていた小間使いであり、王嘉とも数度面識があった。
王嘉が包みを楊鷹の前に差し出す。
「これを、君に渡すように頼まれた」
楊鷹はそっと包みを開いた。
中に入っていたのは、小さな位牌と黒い矢じりのような飾りがついた耳飾り。楊鷹はどきりとした。
位牌は母のもの。そして耳飾りも母の形見、――毛翠が持っている耳飾りの片割れ――であった。




