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小仙奇譚  作者: 平井みね
第一章
39/131

黒い嵐の再来・八

 真っ赤な水たまりが、てらてらと光っている。残っているのはそれだけで、少女の上も下も斧も、何もない。

 一瞬の突風の間に、一体何が起こったというのか。


「あーあ。まーた、ものの見事にやられたじゃねぇか。だから無理すんなって言っただろう」


 聞き覚えのない男の声が背後から聞こえて、楊鷹(ようおう)は慌てて振り返った。

 門の屋根の上に男が立っていた。丸襟(まるえり)(ほう)に頭巾という出で立ちの痩身の男だ。その姿、まるで役人のようである。

 しかし、彼は右手で黎颫(りふ)の上半身の着物の襟を持ち、反対の左脇には黎颫の下半身を抱えていた。どうしたって、人間ではなかった。


施鵬(しほう)!」

「施鵬か!」


 黎颫と毛翠(もうすい)が同時に声を上げた。

 施鵬と呼ばれた男は、右手に持っている黎颫を見下ろす。


「撤退だな。分ってると思うが、薬は前回でなくなっちまったからな。もう治せねぇ」

「えー! やだやだやだ! まだあのでかい兄ちゃんやっつけてない! やり返さなきゃ気がすまない!」

「わがまま言うな。それ以上何か言ったらおしおきな」

「え! 施鵬のおしおき嫌だ!」


 悲壮な声音でそう言うと、黎颫はうつむいて大人しくなった。「おしおき」が何をするのかは知らないが、相当恐れているらしい。

 好戦的な黎颫をあっという間に萎れさせ、さらには彼女が恐怖するおしおきを行なう。この施鵬という男、侮れない。

 楊鷹は施鵬を鋭くにらみつけ、さっと剣を突きつけた。


「黎颫の仲間か」


 施鵬は楊鷹に視線を向けると、困ったように眉をひそめながら笑った。なんだか、やけに人間らしい表情であった。


「物騒なもんを向けるな。俺はこいつを迎えに来ただけで、やり合うつもりはない」


 そう言った施鵬であったが、楊鷹は剣を降ろさない。

 施鵬は一つ息を吐くと、人好きのする笑みを浮かべた。


「お前と会うのは初めてだな。俺は施鵬と言うんだ。お前の名は?」


 やけに気さくな雰囲気で、施鵬は尋ねる。

 しかし、楊鷹は答えない。

 施鵬が黎颫の仲間であるのは間違いない。明確な殺意をもって襲い掛かってきた少女の仲間に名前を教えるのは、どう考えたって得策ではなかった。


「だんまりかい。賢明な判断だ」


 そう言うと、施鵬は楊鷹から目を離し階段の方を見やる。その視線の先には、莫志隆(ばくしりゅう)に抱えられた毛翠の姿があった。


「おい、今桃李虚(とうりきょ)に戻ってくれば、そう悪いことにはならんかもしれん。どうだ? 戻って来る気はないか?」

「本気で言っているのか、施鵬。わしはこっちに追放されたんだろう? どうして戻れる」

「そうなんだが、思いもよらずしぶといからなぁ、お前。赤ん坊の姿とはいえ、このままこっちでのうのうと生きられちゃあ、それはそれで芳しくない」

「それならば、戻ってどうなる。ますます悪いようにしかならないのではないか?」

「そうだなぁ。俺は処分を決める立場にはねぇから、お前の言葉を否定することはできないな」


 なんとも無責任に、あっけらかんとした口調で施鵬は言った。それから、彼はちらりと楊鷹を一瞥する。

 何か仕掛ける気か。楊鷹は気を引き締め、さっと辺りに視線を走らせる。だが、これといって異変はなかった。何もなさそうだが、相手を間合いの内に捕らえておきたくて、楊鷹は門の方に一歩にじり寄る。すると、その動きを牽制するように、再度施鵬は楊鷹へと視線を向けた。


「だから、やり合う気はないよ。少し話をするだけだ」

 

 そう言うと、施鵬は毛翠に対して問いかけた。


「それじゃ、お前はこのまま人の世に留まると、そういうことかい?」


 毛翠は答えない。代わりとばかりに、彼は背筋を伸ばして真剣な眼差しを施鵬に向ける。その様子、赤子とは思えぬほどやけに凛としていた。

 沈黙が訪れる。やがて風が一つ過ぎ去った後、毛翠はおもむろに口を開いた。


「……そうだ。戻れぬ」

「そうかい。となると、それ相応のことは覚悟しておくんだな」


 施鵬がため息交じりに言うと、毛翠はすかさず叫ぶ。


「何もお前たちを害そうとしているのではない! 少し待ってくれ。やることをすませたら、どんな罰でも受ける!」


 施鵬はまた人間らしい困ったような笑みを浮かべると、黎颫の下半身を揺すりあげた。


「お前の意思は分かった。伝達係として、しかと伝えるよ。それじゃあな」


 そう言うやいなや、施鵬は黎颫を抱えたまま軽々と跳んだ。最早、飛んだというのが正しい大きな跳躍で門の近くの木の天辺に跳び移った彼は、そこからさらに素早くもう一飛び、山の茂みの中に姿を消してしまった。施鵬が姿を消すまでたった数瞬、楊鷹は彼のその動きを目で追うことしかできなかった。


「覚えてろよくそ野郎!」


 そんな黎颫の叫びが山間に木霊して、やがて消え去る。

 嵐は去った。

 楊鷹はのろのろと剣を降ろす。安堵感と同時に、疲れがどっとのしかかってきた。

 黎颫とは一度対峙したことのあった楊鷹である。神仙がとんでもない存在だとは分かっていた。仙器を取りに行くと決めた時、またその神仙と刃を交える可能性があることも覚悟はしていた。

 だが、疲れたものは疲れた。黎颫は相変わらず凶暴で、後から出てきた施鵬とかいう輩も身のこなしが尋常ではない。

 今後もあんな人間離れした存在に追い回されて、時に一戦交えるかもしれない。そのことを思うと気が滅入ってきて、楊鷹は虚ろに空を仰いだ。そして、ぼんやりと思う。


(やっぱり、もう辞めるか……)


 今朝もよぎったその気持ち。毛翠とさっさと別れ、藍耀海(らんようかい)行きを辞める。たった三日で投げだすのは気が引けるが、己の命を大切にするならばむしろさっさと止めた方がいいに決まっている。逃げるのではなく、戻る。今ならば、きっとまだ引き返せる。

 そもそも、毛翠が神仙に襲われるのは自業自得だ。彼は出会った当初、自分は人望がないだのと言っていた。そして、先ほどの黎颫とのやり取りを思い返せば、毛翠が黎颫を騙したらしい。そしてさらにもとをただせば、赤子の姿になったのだって、何かしてはいけないことをやらかした故だ。


(あいつに付き合う義理なんてない。あいつは俺と母上を捨てたんだ。どうなったところで……)


 胸が痛いほどざわついて、楊鷹は唇を噛んだ。その時。


(おう)!」


 幼い頃を彷彿とさせる懐かしい呼び方で呼ばれ、楊鷹はとっさに声のした方へ振り返った。翠玉のような瞳と目が合う。楊鷹ははっと息を飲んだ。


「大丈夫か? 怪我は?」


 莫志隆(ばくしりゅう)に抱かれた毛翠が、慌ただしく身を乗り出す。たじろいだ楊鷹は、ついそっぽを向いてしまった。


「別に……なんともない」

「本当か? なんだか辛そうな顔をしているぞ?」


 変わらない心配そうな声が、楊鷹を刺す。辛そうな顔をしているというなら、それは黎颫との戦闘は関係ない。

 楊鷹は一度ゆっくりと瞬きをして、心を整える。


「大丈夫だ。どこも痛くない」


 努めてきっぱりと答え、楊鷹は毛翠に向きなおる。すると、毛翠はほっと息を吐いて、「それならよかったと」柔らかく微笑んだ。

 そんな赤子らしからぬ温もりから逃げたくて、楊鷹はさっさと己から話題を逸らす。


「それよりも、さっきの施鵬という男、黎颫の仲間で間違いないな?」

「ああそうだ。桃李虚の神仙だ。あいつは物凄く速く走ったり跳んだりすることができてな。その力を買われて、桃李虚や時にこちらの人の世を駆け回っている。伝令みたいな奴でな、わしも……」


 表情を引き締めて語り出した毛翠であったが、突然彼は口をつぐんだ。


「わしも、なんだ?」


 楊鷹が問い掛ければ、毛翠は笑った。先ほどの温かい笑みとは異なる、(こわ)くぎこちない笑みである。


「あ、いや……。あいつとは割と仲が良くてわしもいろいろ世話になったのだが、ついに見限られたのかと思うと、な……」


 そう言ってさらに口の端を引き上げた赤子だが、いかんせんそのふっくらとした頬は不自然に引きつっている。と、そこに莫志隆の骨ばった手が迫り、懸命に笑みを取り繕う頬をつまんだ。

 毛翠が猿の鳴き声のような、変な声を出す。


「あー、俺も愛想をつかしてぇなあ!」


 語気を強めて言い切ると同時に、莫志隆はぱっと頬から手を離した。

 毛翠は頬をさすりながら莫志隆をねめあげる。


「なんだと? お前、まさかさっきの話はなかったことにするのか?」

「……“つかす”とは言ってねぇだろうが」


 莫志隆は楊鷹を見ると、翡翠(ひすい)の仙器を指差した。


「その剣、お前にやるよ」


 少し前まで仙器を渡すことを渋っていた莫志隆だが、そんなことはまるでなかったかのように、彼はさっぱりと言いきった。

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