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小仙奇譚  作者: 平井みね
第一章
33/131

黒い嵐の再来・二

 ひときわ強い突風が吹き上がった。落下が止まり、楊鷹(ようおう)の体はふわりと空に浮く。それと同時に霧が晴れた。下方には、河原のような白っぽい砂利が広がっている。

 風が弱まる。しかしそれでも不思議なことに、楊鷹の体は宙に浮いたままだった。そのままふわふわとゆっくり落下して、しっかりと足から着地する。軽かった全身が急激に重たくなった。

 毛翠(もうすい)が、ひょっこりと楊鷹の肩に顔を乗せた。


「ほれ、大丈夫だっただろう」

「あ、ああ……」


 呆然と頷きながら、楊鷹は手を数度握ったり開いたりを繰り返す。特に、体に異変はなさそうだ。それから、今しがたやって来た道程を振り仰いだ。

 白くごつごつとした岩肌が天めがけてそびえているが、上の方は霧に覆われており見えない。一体どれだけ高いと言うのか。そもそも、こんなに高さのある崖が、蒼香(そうきょう)山に存在するとは思えない。

 楊鷹は、崖から辺りへと視線を巡らせる。

 河原であった。一応そばに川のような水の流れがあるが、それは小川と呼ぶにもささやかで、砂利の表面に少量の水がちょろちょろと流れている程度である。一帯に広がる白っぽい砂利は、やけに艶やかだ。ほんのりと発光しているようでさえあった。そのせいなのかなんなのか、上空に霧の漂う谷底だというのに、やけに明るい。

 河原には草一本映えていないが、少し離れたところに柳が一本生えていた。すべての葉が、鮮やかな朱色だ。そして、その近くに小屋のような建物が一つ。

 楊鷹はどきりとする。あそこが、目指していた場所であるように思えた。


「いつまでぼんやりしている。さっさと行くぞ」


 毛翠がぺしりと楊鷹の後頭部を叩いた。

 その態度がやたらと偉ぶっているように思えて、楊鷹は苛ついた。押しやっていた怒りが再熱してくる。


「……おまえ、崖から突き落としたよな?」

「おう。押したというか体重をかけたというか、まぁやったな」


 毛翠の口ぶりは全く悪びれていない。楊鷹の腹の虫は収まるどころか、ますます荒ぶる。


「突然押すだなんて、何を考えてるんだ」

「いや、だってまごついていたではないか」

「あんな崖からおいそれと飛び降れるか!」


 楊鷹が語気強く言い返せば、毛翠は大げさに嘆息した。


「案外根性なしなんだな。酒癖も悪いし」

「酒癖は関係ないだろう!」

「というか、こちらは大丈夫だと言っているのに。お前はまったくわしの言葉を信用しないな。いつもそうやって歯向かう」


 楊鷹の内でふつふつと煮えていた怒りが、盛大に爆ぜる。もはや、平常心などと思う余裕もなかった。


「……よく、そんなことが言えたものだな」


 ひどく冷たく低い声が出ていることを自覚しながら、楊鷹はそのまま言葉を継ぐ。


「何も言わずに突然姿をくらませたくせに。そんな奴を信じると思ってるのか」


 背後で、ひゅっと息を吸い込む音が聞こえた。

 楊鷹はうつむいて、拳を握りしめる。

 ひどいことを言ったような気がしたが、しかし発した言葉に偽りはない。胸の内に、幼い頃の自分の姿がちらつく。とっくに心の奥にしまい込んだはずの寂しさと怒りが、よみがえってくる。

 先程まで軽やかに言い返していた毛翠であったが、すっかり黙ってしまった。

 楊鷹も何も言わない。口を開いたら、もっと酷い言葉が出てきそうだった。

 重い沈黙が垂れこめる。その場から動き出すことすらできず、楊鷹はじっと立ちつくす。

 その時、甲高い金属音が響いた。楊鷹ははっとして、音がした方向を見やる。

 音は(あか)い柳の方から聞こえた。また、金属がぶつかり合うような音が鳴る。やはり、あの小屋が目的の場所のようだ。

 楊鷹は一つ勢いよく息を吐いた。そうして、ぐるぐると渦巻いていた感情のすべてを、再度腹の底に押し込めて一歩踏み出した。


「おい」


 数歩進んだところで、毛翠が口を開く。

 足を止めることなく、楊鷹はぶっきらぼうに答えた。


「なんだ」

「おろせ。ここには人などおらぬし、たぶんわしの方が勝手が分かる」


 楊鷹は立ち止まって、周囲を見た。

 毛翠の言う通り、人影はなかった。あったとしても、恐らくそれは人ではないだろう。

 毛翠に対する気持ちを押し込めたとはいえ、未だに心はすっきりしない。重い空気のまま背負い続けるのも、ひどく気まずい。

 楊鷹はしゃがむと、帯をほどいて毛翠を下ろした。

 地面に下りたとたん、毛翠ははいはいで進みだす。彼は何も言わず、楊鷹を待つこともせず、どんどん行ってしまう。

 楊鷹も無言のまま、特に急ぎもせずに赤子の背中を追いかけた。


 小屋はあばら家と言っても差し支えないほど荒れていた。人が暮らしている気配がまるでない。しかし、金属同士をぶつけるような高い音は、未だに続いている。

 楊鷹は小屋の裏手へと回った。すると、歩みを止めた毛翠の後姿と、その向こうに四阿が見えた。楊鷹は少しばかり足を早めて、毛翠の隣に並ぶ。

 簡素な板葺きの屋根の下には、ごうごうと燃える炉と、その炉の前に粗末な身なりの痩身の男が一人座っていた。髪も髭もぼさぼさで見た目はかなり怪しい。男は(つち)を振り、鉄か鋼か何か金属を打ち続けている。刀か剣でも作っているのだろう。男の背後には、大量の槍やら剣やら刀やらが乱雑に置かれていた。

 おそらく、この男が目的としていた神仙だ。

 彼は楊鷹と毛翠のことなどまるで気に留めず、一心不乱に槌を振り続けている。男の表情は無である。真剣でもなければ迫力もない、なんの感情も載っていない空の顔だ。だからこそ、狂気を感じさせるあり様であった。

 楊鷹は唾を飲んだ。どう、声をかければいいのかさっぱり分からない。そもそも、声を出してはいけないような気すらする。

 

 「おい! 莫志隆(ばくしりゅう)! おーい!」


 毛翠が大声を出す。楊鷹はどきりとした。

 しかし、男――莫志隆という名前らしい――は、全く取り合わずに金属を打っている。

 楊鷹は拱手(こうしゅ)の礼をしながら、思い切って言った。


「突然の訪問、申し訳ありません」


 しかし、やはり莫志隆は見向きもしない。

 毛翠が数歩前に出て、叫ぶ。


「このクソ鍛冶屋! 返事をしろ!」


 再び楊鷹の心臓が跳ねる。それと同時に、不快な濁った金属音が響く。莫志隆の槌の音が乱れ、止まった。


「あー、うるさい! 刃が曇るだろうが!!」


 その細身の体のどこからそんな声が出るのかというほど大きな声で、莫志隆が叫んだ。楊鷹が呆然としていると、莫志隆はじろりと毛翠を見る。長髪の間からのぞく落ちくぼんだ目には、ありありと不快感が滲んでいた。

 楊鷹はすぐさま我に返り、再び拱手の礼をした。


「申し訳あり……」

「何がうるさいだ! 気づいていたくせに!」


 楊鷹の謝罪を、毛翠の声が台無しにした。

 莫志隆がまた吼えた。


「俺に赤ん坊の知り合いなど、おらぬわ!!」

「嘘つけ。お前、わしだって分っているだろう!」


 毛翠も負けじと声を荒らげる。

 しかし、莫志隆は毛翠から視線を逸らすと、ひらひらと手を振った。その態度、まったくもってつれない。


「あーもう、知らん。お前のことなど知らん」


 毛翠が、莫志隆めがけて突進する。

 莫志隆が慌てた様子で立ち上がろうとしたその直前、毛翠は鍛冶師の薄い腹にがっしりとしがみついた。


「白を切るな、志隆!」

「馴れ馴れしく呼ぶな触るな。離せ。犬っころ」

「やっぱり、わしだって分ってるじゃないか!」


 莫志隆は小さく舌打ちをした。

 毛翠はじっと莫志隆を睨む。しかし、彼はまったく毛翠の方は見ようとせずに、持っていた槌を手の中で弄ぶ。


「お前が話を聞くまで、離さないからな」


 毛翠が強い口調で言うと、莫志隆は深々とため息を吐きながら頭を掻きむしった。なんだか、非常に迷惑そうな様子である。知り合いであるはずの二人だが、あまり仲は良くないのかもしれない。

 莫志隆がようやっと毛翠を見た。


「……一体何の用だ?」


 莫子隆は器用に槌をくるりと一回転させてから、毛翠に突き付ける。


「俺に赤ん坊の知り合いがいないのは本当だぞ?」


 毛翠は上体を反らし、乾いた笑いをもらす。


「まぁ、それはなんだ、その。あー、察してくれ」


 先程までの勢いはどこへやら、毛翠の口調はぎこちない。

 しかも、赤子になった理由を「察してくれ」の一言で済ませるだなんて、どれだけいい加減なのだろう。二人のやり取りに、楊鷹はそんなことを思う。けれども、楊鷹は黙ったままでいた。まだ、毛翠に対して何か言う気持ちになれなかった。

 毛翠の言はいい加減であったが、莫志隆は本当に察しようとしているのか、彼は無言でまじまじと赤子を見つめる。しばらく見つめた後、ふいに楊鷹に視線を投げた。

 楊鷹は改めて丁寧に拱手の礼をした。

 莫志隆が毛翠に問いかける。


「あいつは誰だ?」

「わしの息子だ。名は楊鷹という」

「はー、あー、そうか、なるほどなぁ」


 顎に手を当ててしきりに首をひねった後、莫志隆は毛翠に視線を戻す。それから、怪しむように声を低くして尋ねた。


「お前、もしかして今頃俺に頼んだものを取りに来たのか?」

「おお、よく分かったな! その通りだ!」


 毛翠が声を弾ませる。しかし。


「断る」


 即答であった。

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