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小仙奇譚  作者: 平井みね
第一章
32/131

黒い嵐の再来・一

 銭秀(せんしゅう)から(とりで)の周りの地形を大まかに教えてもらった後、楊鷹(ようおう)は御堂の裏手から蒼香(そうきょう)山の山中へと分け入った。

 獣道を進むことしばらく、塞がすっかり見えなくなったところで楊鷹は足を止めた。


「で、こうしてやって来たわけだが、どっちにいけば良いんだ」


 辺り一面、鬱蒼としている。木々や下草は方々に生い茂り、獣道の行く先を覆い隠していた。

闇雲に歩き回っても無駄に時間を食うだけなうえ、下手をしたら迷う。塞の周りで手下がそれらしき人物を見たと銭秀は言っていたが、今のところそのような人影はない。今や頼りになるのは、件の神仙と面識のある毛翠(もうすい)だけだ。

 しかし、背中から聞こえてきたのは、うなり声であった。


「どっち、だったかなぁ」


 散々うなった後、毛翠はそう言った。

 楊鷹はげんなりした。尋ねた己が馬鹿だった、と心底から悔いる。最早言い返す気力すら湧かず、楊鷹は何も言わずに歩みを再開させた。毛翠は何事かをごにょごにょと言っているが、当てにならないので無視をする。

 緩く降る荒道を行くことしばし、柳の木が一本、行く手を阻むように枝葉を垂らしているのが見えた。

 水辺でもないのに、どうしてこんなところに生えているのか。しかも、枝に茂る葉の一部分が赤くなっている。赤というより朱色に近いか。なんとも不思議な柳だが、何はともあれ邪魔くさい。楊鷹は葉をかき分けながら、柳の脇を通り過ぎた。

 その時、毛翠が「ああ!」と大声を上げた。


「柳! 柳だ!」


 背中で毛翠がじたばたともがく。さすがに無視できなくて、楊鷹は口を開く。


「柳がなんだ」


 楊鷹は振り返り、柳を見やる。すると、毛翠が短い腕を懸命に伸ばして、柳を指差した。


「あの柳、葉に赤いところがあるだろう。あの赤い葉を辿ってゆけばいいんだ」

「赤い葉を辿る?」


 いまひとつ要領を得ない楊鷹は、毛翠の言葉を繰り返した。

 毛翠の言う通り、柳の葉には一房朱色の部分がある。だが、それを辿るとはどういうことか。

 毛翠が指差した手をぶんぶんと振る。


「ええど、だから、あの赤い葉がなっている枝があるだろう。あの枝が伸びる方向に進めばいいんだ」


 朱の葉が垂れるている枝は、比較的幹の下の方から伸びていた。その枝先が向いている方向を、楊鷹は視線で追う。獣道からそれて、いっそう鬱蒼とした木々の中を指し示している。その(しるべ)の通りに試しに数歩進んでみる。少し地面は踏み均されているようだが、最早道と呼んでよいか怪しい細道だ。


「この道をずっと真っすぐ行けと?」

「そうだ。しばらくしたら、また柳がある。そしたら、同じように赤い葉がはえている枝が伸びる方に、真っすぐ進めばいい」


 神仙が住まう領域に入るために、特殊な手順を踏んだり道に示された目印を辿ったりするというのは、伝承やおとぎ話においてよくある展開だ。そのような物語を、楊鷹も聞いたことがあった。

 楊鷹は柳を見つめた。

 確かに、あの柳の木は不思議である。こんな山奥に一本だけ生えているのは不自然であるし、葉の一部分が朱色なのも変だ。秋に葉が黄色く染まった柳は見たことがあるが、こんな鮮やかな朱色は見たことがない。


「……それは確かだろうな」

「間違っていない。こんなところで嘘なんかつく訳なかろう」

「思い違いだった、とかいうのもないな?」


 楊鷹が尋ねると、毛翠はすぐには答えなかった。もしや、思い違いなのだろうか。

 楊鷹が柳へと手を伸ばすと、毛翠は慌ただしく口を開く。


「お、思い違いでもない! もし、間違っていたら、わしを煮るなり焼くなり好きにしていい!」

「赤子をいたぶる趣味はない」


 そう言いながら、楊鷹は柳の枝をつかんで引き寄せる。

 件の朱色の葉は、表も裏も綺麗に朱く染まっていた。緑色の部分は欠片もなく、かすれもない。ぷちりと一葉もぎ取って、千切ってみる。その断面を見てみれば、やはり朱色だ。中までしっかり色づいている。誰かがうわべだけを朱く塗りたくった、というわけではなさそうだ。

 毛翠の態度には少々怪しいところがあるが、他に手がかりもない。

 楊鷹は柳を手放すと、細道へと踏み出した。


 下草を蹴散らしながら、楊鷹は進んでゆく。しばらくすると、毛翠の言葉通り再び柳が見えてきた。また、葉に朱色の部分がある。

 毛翠がもぞもぞと動き、柳を指差した。


「ほら、また赤いところがあるだろう!」


 得意げに大声を上げる毛翠に、楊鷹は顔をしかめた。

 最初は忘れていたくせに、調子がいい。そして、声が大きい。耳が痛い。人目がないと言え、こんな大声でしゃべられてはたまらない。


「分かったから、そんな大声を上げるな」

「おお、つい興奮した。すまぬ、すまぬ」


 謝る毛翠の声は、やはり大きい。


(いかなる時も平常心だ、平常心……)


 そう心の中で念じながら、楊鷹は足を速めた。

 柳を見つけるたびに朱に染まった葉を確認し、その葉が茂る枝が伸びる方向へと進んでゆく。

 緩やかな下り坂だった道はいつの間にか登りになった。足場はどんどん悪くなり、加えて霧まで立ち込めてきて視界まで悪くなる。蝉の声も鳥の声も聞こえなくなった。いかにも怪しげな雰囲気が漂う中、楊鷹は律儀に朱色の葉を辿り続けた。

 岩が転がる急な坂を登りきり歩いてゆくと、立ち込める霧の中にまたぼんやりと柳が見えてくる。近づいて朱色の葉がどちらに茂っているか確認してみれば、さらに直進しろと、そう言っている。しかし、一歩踏み出したところで楊鷹は足を止めた。

 ひゅうひゅうと鋭い風の音がする。風の音が聞こえる方向は、下だ。楊鷹は目を凝らした。白霧の合間に薄く見えたのは、途切れた岩道。この先は、おそらく崖だ。

 もう一度、柳を振り仰ぐ。(あか)い葉は崖の方に突き出している。やはり、この先へ進めと言っている。


「どうした? 先に行かぬのか?」


 毛翠が軽く楊鷹の肩を叩く。

 楊鷹はじっと崖を見つめたまま言った。


「道がなくなった。この先は崖だ」

「おおそうか。それなら、崖の下に行けばいい」

「降りるのか? だが……」


 生憎、楊鷹は縄を持っていない。しかし、持っていたとしても降りるのはかなり難儀そうである。霧のせいでよく見えないが、この吹きすさぶ風の音からして、相当の高さがあるのではなかろうか。遠目にはなだらかな稜線を描いていた蒼香(そうきょう)山にこんな崖があるのも不思議だが、とにかく底知れない高さでありそうなのだ。

 楊鷹が動けないでいると、毛翠はあっけらかんと言った。


「降りるというか、跳べばいいんだ。ほれ、さっさと跳べ」

「跳ぶ?」


 楊鷹は盛大に眉をひそめた。この崖から身を投げろと、毛翠は言っているのか。狂気の沙汰だ。

 楊鷹はちらりと背後を振り返り、目をすがめる。


「人を殺す気か」

「何を言うか。大事な息子を殺すわけないだろう」


 即答して来た毛翠の言葉に、楊鷹は虚を突かれた。思わず黙り込む。しだいに、周囲の霧に負けないくらいもやもやとした気持ちが立ち込めてくる。

 何が大事な息子、なんだろうか。

 楊鷹は鼻を鳴らした。


「何が大事だ。こんなもの、絶対に死ぬだろう」

「だから死なぬ。だいたい、神仙に会うには一筋縄ではいかぬ。大概、その気骨を試されるものだ」


 楊鷹は前を向いた。

 神仙が出てくるおとぎ話によくある展開として、もう一つ。

 人間が神仙に会いにゆく時、何度も獣に遭遇したり、霧が立ち込めて道が分からなくなったり、とその道中は障害に溢れている。そのような数々の障害にもめげずに進み続けた者だけが、神仙に会えるのだ。

 そうだとしたら、この崖も尋ね人を試すものなのか。

 楊鷹はさらに一歩踏み出た。足先が小石を蹴りつけて、谷底へと落ちてゆく。音はない。崖の縁から、得体の知れない底を覗き込む。鋭い風が下から吹き付けてくる。心のうちに、薄らと恐怖がかげる。本当にこんな崖に飛び込んで、生きていられるのだろうか。


「大丈夫だ。死にはせぬ。ほれ、跳べ」

「はっ?」


 突如、ごん、と背中に衝撃が走はしり、楊鷹の体は大きく前に傾いだ。完全に不意を突かれた楊鷹は、踏ん張りがきかない。一歩前によろめいてしまう。しかし、そこに地面はなく。

 楊鷹は、意図せず崖から落ちた。

 一瞬何が起きたか訳が分からなかった楊鷹であったが、しかしすぐさま何がどうなったのか理解した。毛翠に押されたのだ。くすぶっていたもやもやとした気持ちが、明らかな怒りに変わる。

 ものすごい勢いで風を切りながら、楊鷹は叫んだ。


「おまえっ! 押す馬鹿があるか!」


 背後で毛翠が何事か言っているようだが、風の(とどろき)の方がずっと大きいため聞こえない。

 その風の音を聞いて、楊鷹は幾分冷静になった。今怒っていてもどうしようもない。文句は後回しだ。

 楊鷹は奥歯を噛みしめると、毛翠を固定している帯をがっしりと掴む。前方を見据えれば、未だ真っ白で何も見えない。

 風のうなりが耳をなぶり、冷たい白霧が肌を濡らす。どれだけ落ちると言うだろう。まさか、永遠に続くのではあるまいか。胸のうちに恐怖がゆらめく。

 楊鷹は、毛翠の「大丈夫だ」という言葉を思い出す。こうなっては、その言葉を真っ向から信じるしかなかった。


(大丈夫だ、死にはしない。神仙のところに辿りつく……!)


 自らに言い聞かせるように念じた、その時。

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