仙器を求めて・四
部屋を出て中庭に行ってみれば、そこはきれいさっぱり片づけられていた。
卓や椅子、酒壺に食器、それから祝い事の飾りや灯燭も何もなく、やけにがらんとしている。昨夜の宴の形跡は、何ひとつとして残っていない。山賊たちや王嘉、春全と春蘭の姿もなく、箒を手にした使用人が一人いるだけだ。
楊鷹は庭掃除をしている使用人に軽く会釈をすると、主屋の方へ向かった。中に入り、声をかける。
「おはようございます」
広間に楊鷹の声が響く。返事はない。
広間の突き当りに設えられた祭壇には、位牌が並んでいる。そこに気配を感じつつも、当然声は返ってこない。楊鷹は位牌に対して黙礼すると、その場で静かに待った。
しばらくすると、春蘭がやって来た。彼女は楊鷹に気が付くと、ふわりと笑みを浮かべた。
「おはようございます。もうご気分はよろしいのですか?」
「ええ、まぁ」
答えながら楊鷹は恥ずかしくなってきた。春蘭の口ぶりは昨晩の醜態を知っているようであった。気まずくなって目を伏せれば、腕の中で毛翠が鼻を鳴らす。皮肉のつもりだろうか。
しかし、春蘭は柔らかく微笑んだままだった。
「それは良かったです」
そう言うと、春蘭は体を捻って奥に見える扉を示す。
「どうぞ、あちらへ。すぐに朝食を用意しますね。それからお湯も沸かしますから、使ってください」
春蘭は笑みを崩さない。その表情といい心遣いと言い、本当に女神のような女性である。
楊鷹は心底からありがたいと思いつつ、「いや」と断った。そう言った瞬間、腕の中で毛翠がもぞもぞと大きく身じろいだが、腕に力を込めて抑え込む。
「そこまで世話になる訳にはいきません。ところで、お聞きしたことがあるのですが」
「何でしょうか?」
春蘭は少しばかり眉尻を下げつつも、応じてくれた。
「昨夜の山賊たちと王嘉殿はすでに帰ってしまったのでしょうか?」
「ええ。朝、庭の片づけを済ませると帰って行きましたけれど」
楊鷹は言葉を失った。己が寝入っていた一方で、王嘉と山賊たちは昨夜の騒ぎの後片づけをしていたとは。楊鷹はさらに恥ずかしくなった。
と言うか、王嘉と山賊たちは一体どのような体をしているのだろうか。王嘉も山賊たちもしこたま飲んだはずだ。それなのに王嘉は全く酔っていなかったらしいし、山賊たちだって朝には難なく動けたわけだ。楊鷹からしてみれば、化け物としか思えない。
「劉三さん、どうかされました?」
「ああ、いや、なんでもありません」
楊鷹は気を取り直して言った。
「昨夜騒いだうえに、こんなにも寝過ごして申し訳ありません」
「いえ、いいんですよ。気にしないでください」
にこやかに春蘭はそう言ってくれるが、楊鷹は逆にいたたまれなくなってくる。春蘭と視線を合わせるのが辛くなってきて、何となしに毛翠を見る。
毛翠はじっと春蘭を見つめていた。相変わらずである。
春蘭も毛翠の視線に気が付いたのか、赤子に視線を合わせると笑いかけた。応えるように、毛翠も愛らしく笑う。春蘭が小さく手を振る。毛翠も小さな手を振って応える。
見かけ上は微笑ましい戯れである。口出しするのが憚られるが、楊鷹は二人を止めたくて仕方なくなってくる。
こらえきれなくなって楊鷹が声をかけようとしたら、春蘭の方が先に「あ」と声を上げた。
「そういえば、王嘉さんから伝言を預かっていました。今はお隣の沁富県の菁雲というところにいらっしゃるとのことでぜひ訪ねて来てほしい、とおっしゃってましたよ。なんでも、劉三さんにお渡ししたいものがあるとか」
楊鷹は目を瞬いた。
はて、渡したいものとは一体なんだろう。全く心当たりがない。
「渡したいもの?」
「ええ。それから、劉三さんの旅の話を聞かせてほしい、ともおっしゃっていました」
楊鷹は口を引き結んだ。
王嘉はわざわざ伝言を頼んでまで、楊鷹の話を聞きたいと言っている。彼は勘づいている。楊鷹の身の上に起こったことに関して。昨夜偽名を使ったこともあるので、気がついて当然といえば当然か。となると、渡したい物についても気になってくる楊鷹である。
先を急いでいる以上、あまり回り道はしたくなかった。先ほど、毛翠とのやり取りの中でそう思ったばかりだ。だが、王嘉の事は無下にできない。
楊鷹はちらと毛翠を見た。とにもかくにも、とりあえずさっさと出発した方がよさそうである。
「ご伝言、ありがとうございます。そうとなれば、早速出立しようと思います」
改めて楊鷹がそう言うと、春蘭の表情がかげる。笑みはそのままだが、ますます眉尻を下げてどこか困った様相である。
楊鷹は罪悪感を感じた。これでは春蘭に対して悪いこと言ってしまったようではないか。どうして春蘭は困り顔なのだろう。朝食を作りすぎてしまったがために、どうしても楊鷹に食事をしていってほしい、などという事情でもあるのだろうか。
しかし、急いでいるのは事実だ。それに、すでに十分世話になったのだから、これ以上厄介になる訳にはいかない。
持ち金に余裕はないが、お礼として少々の銀子を手渡して失礼しよう。罪悪感を押しやって楊鷹はそう決意する。そうして、体を捻って荷物へと手を伸ばした。
だが、途中で動きが止まる。春蘭が楊鷹の袖を掴んだのだ。
袖をつまむ白魚のような手を見つめること幾ばく。
「何か?」
楊鷹が問いかけると、春蘭は「ごめんなさい」と慌てて手を離した。それから、ぱっと笑う。
「たくさんお世話になったのに、お礼の一つもしていないんですもの。朝食くらい召し上がっていってください」
やはり朝食を作り過ぎたのだろうか。そんな風に思いながら、楊鷹は答える。
「いや、世話になったのはこちらの方です。これ以上のお心遣いは無用です」
「そんな、何も食べないのも体に障りますよ。少しくらい召し上がってください。お子さんだって、お腹が空いてるでしょうし」
「ね?」と春蘭が再度毛翠に微笑みかけたとたん、鳥の鳴き声のような可愛らしい音が響いた。出所は毛翠、間違いなく腹の音である。なんとまあ、絶妙なところで鳴るのだろうか。言葉なくとも、十分すぎる答えであった。
春蘭は満足そうに笑みを深めると、踵を返して部屋の奥へと姿を消してしまった。
とり残される楊鷹と毛翠。もう一度鳴る腹の虫。
楊鷹は毛翠の黒々とした頭をねめつけた。対する毛翠は、春蘭が去っていた方を凝視している。
「のう」
唐突に、毛翠が小さな声で呼びかけてくる。楊鷹は眉をひそめる。だが、そんな楊鷹に構うことなく、毛翠はさらに口を開いた。
「蘭ちゃん、お前に気があるんじゃないか?」
楊鷹は眉間のしわをさらに深くする。
「どうしてそうなる」
「いや、だってやたらと甲斐甲斐しいし、お前が行こうとしたら止めたし」
「だからなんだ。それで俺に気があるとか、思い込みも甚だしい」
楊鷹は毛翠の言葉が一切合切理解できなかった。春蘭が親切なのはその性格ゆえだろう。礼節を大切にする女性なのだ。恐らく彼女は、誰にでも優しく気を遣う。
ところが、毛翠の方も楊鷹の言葉が分からないらしい。薄い眉をきっと吊り上げる。
「そんなことなかろう!」
毛翠の声は小さいものの、語気が荒かった。
楊鷹は盛大にため息を吐く。
「行くぞ。食事がしたいなら黙ってろ」
そう言うと、毛翠は開きかけた口を引き結んだ。けれども、何か言いたそうにむずむずと唇を動かしている。
春蘭が再び姿を見せる。楊鷹はどきりとした。とっさに毛翠の口元を手で覆う。
「劉三さん、どうぞこちらに」
「ええ。今行きます」
そう答えると、楊鷹はいそいそと春蘭の後を追った。




