仙器を求めて・一
遠くから、女性の声が聞こえる。何を言っているのか聞き取れないが、楊鷹は誰の声かすぐに分かった。これは、母の声だ。懐かしさを感じ、楊鷹はじっと耳を澄ました。その声はしだいに大きくなり、はっきりと言葉が聞き取れるようになる。
「申し訳ありません! どうかお許しください!」
母の言葉が謝罪のそれだと分かった瞬間、突如として視界いっぱいに風景が広がった。
いくつもの家屋が連なる立派な屋敷だ。季節は春だろうか。中庭では桃の花が咲き誇っている。
その庭の中央、ひと際大きなの家屋の前に、丸襟の袍を着た男が立っていた。背が高く色黒で、ひん曲がった薄い唇が意地の悪そうな印象を抱かせる。男は薄情そうな三白眼で、深々と頭を下げる母を見下ろしていた。
その母の隣に立ちつくす楊鷹は、随分と背が低かった。これは幼い頃の自分だと楊鷹は気が付いた。
(ああ、これは夢か)
ぼんやりと思う。だとしたら、嫌な夢だ。幼い頃の嫌な記憶の一端を、わざわざ掘り起こさずともよいだろうに。夢ならばもう少し快い思いをさせてほしい。
「ほら、あんたも謝りなさい!」
下方から母の手が伸びてきて、楊鷹を強引に地面に引きずり下ろす。されるがままに楊鷹がひざまずけば、今度は頭をつかまれて無理やりお辞儀をさせられた。額が砂利に触れ、ざらざらする。
「……申し訳ありませんでした」
楊鷹は声を振りしぼる。口では謝ったが、胸の内には悔しさが渦巻く。
自分はそれほど悪いことをしたのだろうか。母に至っては、何もしていない。それなのに、どうしてこんな風に頭を垂れなけばならないのだろう。
誰かが鼻を鳴らした。視界には石粒しか見えずとも、その嘲りの仕草が誰の行いかなど分かり切っている。
「もういい。謝罪の言葉は聞き飽きた。とっとと失せてくれ」
居丈高な男の声が降ってきた。思わずむっとして、楊鷹は顔を上げようとした。だが、すぐさま母の手が伸びてきて、顔を地面にこすりつける羽目になった。
楊鷹の頭を押さえつけながら、母が言う。
「許していただけるまでは帰れません」
「もういいと言っただろう。今回に限り、水に流そう」
「……ありがとうございます」
母が頭をつかむ手に力を込めた。母の意図をすぐさま受け取った楊鷹は、ゆっくりと口を開いた。
「ありがとうございます」
言いながら楊鷹は思う。悔しいけれど、こうして頭を下げていてよかった、と。このひどいしかめっ面を、見られずにすんだのだから。
隣で砂利を踏む音がした。恐らく、母が立ち上がったのだろう。間もなく、「行くよ」と少し硬い母の声が降ってくる。楊鷹は一度ゆっくりと深呼吸をした。そうして心を落ち着けてから、立ち上がる。
眼前の男の不愉快そうな歪んだ顔つきが目に入った。楊鷹はすぐさま踵を返す。背後で、唾を吐くような音がした。かっと胸が熱くなった楊鷹であったが、ぐっと我慢する。振り返ることはせず、母に手を引かれるまま屋敷を後にした。
しばらく、無言で歩き続けた。男の屋敷からずっと離れ、うらぶれた路地に入ったところで母が口を開く。
「まったく、あれだけ気をつけなさいと言ったでしょう。あなたは他の子よりもずっと力が強いんだから」
「でも、目の色が変だとか人間じゃないとか馬鹿にしてきて、石を投げてきたんだ」
「そうだとしても。貴方が人を傷つけたことは事実でしょう」
厳しい口調で母が言う。楊鷹はびくりと肩を震わせてうつむいた。
「……ごめんなさい」
弱々しい謝罪の言葉が、楊鷹の口からこぼれ出る。しかし、謝ったものの楊鷹の内では悔しさがくすぶり続けていた。確かに、先ほど謝罪した男――彼は役人だった――の子供を力いっぱい殴ってしまった。だが、先に楊鷹を馬鹿にしてきたのは男の子供の方である。仲間たちと寄ってたかって、「目の色が変だ」だの「化け物だ」だのとののしり、石を投げてきたのだ。
しかも、彼らの侮辱は楊鷹だけにとどまらなかった。
思い返していたら、どうにも我慢ができなくなって、楊鷹は弱々しい声のまま言った。
「俺だけじゃなくて、母上や父上のことも馬鹿にしたんだ。母上も髪や目の色が変だって。だから父上も一緒で変なんだろうって。化け物一家だって言って、げらげら笑ったんだ」
つないだ母の手に、力がこめられるのを感じた。楊鷹が見上げると、母は一拍間を開けた後、おもむろに話し始めた。
「……そうだとしても、傷つけてしまったことはいけないことだったわ」
繰り返された母の言葉に、楊鷹は体をすくめた。
やはり、自分は間違ったことをしたのだ。しかし、楊鷹の気持ちから、「でも」という思いは消えない。
母が振り返り、楊鷹を見つめる。恐る恐る、楊鷹も母を見返した。
母の琥珀色の瞳には、強い光が宿っていた。
「いけないことだったけれど、あなたが怒った気持ちは間違っていないわ。あんな風に謝ったけれど、母さんも本当は嫌だった。だって悪いのは鷹よりもあっちだもの。あなたの気持ちは間違ってない」
きっぱりと、母はそう言った。
もやもやとしていた楊鷹の心が、一息に晴れた。つながれた手を握り返すと、母は楊鷹に柔らかな笑みを向ける。
「だから、もっとうまく力を扱えるように、練習しましょう。嫌なことを言われても怒らないでいられる練習もね。いつまでもこんな風にやられっぱなしで、悔しい思いはしたくないでしょう」
「うん」
楊鷹は勢いよく頷いた。その練習は、きっと厳しいものだろうけれど、頑張れる気がした。自分のためにも、そしていつも味方でいてくれる母のためにも、頑張りたかった。
その時、向かいから子供を背負った男性がやって来た。恐らく、父子であろう。男性は父親としては年若く、艶のある黒髪を頭のてっぺんでまとめていた。その父子に楊鷹の目は釘づけになる。すれ違いざま彼らの方に振り向いて、そのまま小さくなってゆく人影を目で追った。
「どうしたの?」
母に尋ねられてやっと、楊鷹は父子から視線を外した。
「えっと……」
母の問い対して、楊鷹は答えに窮した。素直に自分の気持ちを言っていいものか、迷いがあった。
しかし、母にはお見通しだったようだ。
「……お父さんがいなくて、寂しい?」
ずばり正鵠を射られて、胸がすくむ。楊鷹はうつむいた。
「別に、もう寂しくないよ……」
そう答えた楊鷹であったが、口から出てきた言葉に強さはなかった。そして案の定、母にはそのような強がりは通用しなかった。
「寂しいのね」
そう言われて、楊鷹は言葉に詰まる。詰まったまま上手いごまかしの言葉は思い浮かばず、しばしの無言の後、楊鷹は小さく頷いた。
「大丈夫よ。きっと戻って来るから」
「うん……」
楊鷹はそう答えたが、やはり声音は細かった。
父が突然姿を消して、もう三年が経つ。音沙汰は全くない。母はこうして「戻って来る」と言うけれど、一体いつ戻って来るのだろう。母の言葉を信じたいが、最近は父のことを考えるたび、不安になる。もう、戻ってくることはないのではないかと。
ふいに母が立ち止まった。楊鷹も足を止める。すると、母はしゃがみこみ、楊鷹の両肩を優しく掴んだ。
「大丈夫。また会えるわ。お父さんのこと、信じましょう」
母はそう言った。やけにはっきりと、強い口調で。しかし、楊鷹を見つめる瞳の光は揺らいでいた。少し、潤んでいるようにも見えた。
楊鷹は小さく頷いた。それは強がりだったけれども、母は何も言わずに静かに立ち上がった。再び、歩きはじめる。
少し先を歩く母の背中を見て、楊鷹は急に寂しくなった。今この時に父がいてくれればと、そんな気持ちが湧きあがる。だが同時に、もう父の話はしない方がいいのかもしれないと、どういうわけかそんな風に思った。
そこで、昔日の風景は見えなくなる。けれど、未だ夢を見ているようなぼんやりとした感覚のままである。夢と現のはざまで、楊鷹はふと思う。
(母上のあの言葉は、俺じゃなくて母上自身に向けられたものだったんだ……)
幼い頃は分からなかったけれど、今となってははっきりとそう思う。
母も楊鷹と同じく、寂しく、不安だった。父のことを信じようと、必死に自分自身に言い聞かせていたのだ。
※※※
楊鷹はゆっくりと目を開けた。
窓から差し込んでくる燦然とした光、愛らしい鳥の声、どこかひっそりとした空気。まぎれもなく、朝である。
楊鷹は寝台の上にいた。帳は開いたままだが、恐らくここで眠っていたのだろう。だが、この寝台に寝転がった覚えがまるでない。
辺りを見回してみる。あまり広くない部屋だ。窓や扉の位置、それから精緻な模様が刻まれた棚や衝立といった調度品には見覚えがあった。この部屋は、春全の屋敷の一室である。
徐々に、昨夜の記憶がよみがえって来る。なりゆきで、山賊達と久々に酒を飲んだのだった。勧められるまま飲んで、飲んで、飲んだ。相当どうしようもないことを話していた気がしなくもない。そして、いつこの部屋にやって来て寝入ったのか、覚えがない。頭の中に靄がかかっているかの如く、随分とぼんやりとしている。むしろ頭は痛い。飲み過ぎた、と体は雄弁に語っていた。
あまりのだるさにすぐに起きあがる気になれない楊鷹は、ごろりと寝返りを打って目を閉じた。
随分と昔の頃の夢を見た。十五年くらい前になるだろうか、母とまだ各地を放浪していた時のことだ。どこだったかはもうはっきりと覚えていないが、立ち寄った町で役人の子供にからかわれて、かっとなって手を出してしまったことがあった。その一件の後、楊鷹は母である楊麗にかなりしごかれた。人間離れした自身の力を、的確に操れるように。楊麗は女性でありながら一流の武人であり、力の扱い方に長けていた。
その母の鍛錬のおかげで、楊鷹は己の力を上手く制御できるようになった。それは確かだ。だが。
(まだまだ修行が足りないか……)
結局幼い頃と同じように、感情が昂って厄介な相手を殴ってしまった。それまで音沙汰なく立ち回っていたし、今回の件に関しては相当力の加減もした。だが、罪をでっちあげられて、罪人という身分に貶められた。これでは、幼い頃となんら変わっていないどころか、さらに酷いありさまだ。
楊鷹は右頬に触れた。上手い具合に隠しているが、ここには確かに罪人の証たる刺青が刻まれている。
(自分のことはいいんだ。自分のことは。ただ……)
物思いにふけりかけたその時。
「おーい、起きたのか?」
甲高い声が響く。二日酔いには堪える声だ。耳障りと感じるのはいくらなんでも失礼かもしれないが、そう思ってしまったのは事実。恐らく、振り向いたらいるのだろうが、応える気分になれなくて、楊鷹は無言を決め込む。
背後で小刻みに音がする。と思っていたら、重量のある物体が落っこちる、盛大な物音が響いた。思わず、楊鷹は跳ね起きた。




