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小仙奇譚  作者: 平井みね
第一章
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朱柳県の県城にて・六

 叫び声はあっという間に大きくなって、悲鳴のようになった。時折混じる嗚咽らしき息の音。これは泣き声だ。楊鷹(ようおう)におぶわれている毛翠(もうすい)が、突然泣き始めたのだ。泣き始めたとはいえ、絶対に嘘泣きである。荒事の真っただ中だが、それで泣くような赤子ではない。そもそも、赤子ではない。

 毛翠は泣き声を上げながら、楊鷹の背中をぎゅうぎゅうとつねってくる。うるさいわは痛いわ、訳が分からない。楊鷹は顔が引きつるのを感じながら、必死に心を落ち着かせる。いかなる時も平常心、である。母の教えを心の中で繰り返しながら、懸命に思考をめぐらせた。


(今、突然泣き真似をやり出したということは……)


 恐らく、毛翠なりに相手をひるませようとしているのだ。これを機会に、(せい)を撃退しろということなのだ、きっと。もしくは、親子を連れて逃げ出すか。万が一そうでなかったら、本気で奴を捨て置くことを考えねばならない。


 正面の清は動揺しているらしく、忙しなくその場で足踏みをしていた。先ほどまでの勢いはどこへやら、すっかり鳴りを潜めている。

 楊鷹は毛翠の方へとちらちら視線を送りながら、その小さな体を何度か揺すりあげた。


「こら、泣くな。大人しくしろ」


 形ばかりの注意をしてみれば、毛翠はさらに激しく泣き叫ぶ。甲高い声が楊鷹の耳をつんざく。うるさいと思ったが、放り出してしまいたいと思ったが、楊鷹は諸々の衝動を抑え込み、前方に振り返って清を目いっぱいにらみつけた。


「ほら、怖い顔をして叫ぶから、子供が泣いてしまっただろ!」

「し、知るかよ! 俺のせいじゃねぇ! 勝手に顔を突っ込んできたてめぇが悪いんだろ!」


 負けじと清がわめく。

 変に冷静な思考がめぐり、楊鷹は言葉に詰まった。彼の言うことは最ものように聞こえた。確かに楊鷹が勝手に止めに入ったのだ。

 楊鷹が黙ったその隙に、清が半歩前に出る。


「ひっこ……」


 清に言葉は言わせまいとばかりに、毛翠がますます大声で泣きわめく。ひるんだのか清は口をつぐんで二の足を踏む。

 最早言葉は余計だ。楊鷹はひたすら毛翠あやしながら、時おり清を恨めし気に見やる。

 しかし、あやすと言っても子供の面倒を見る機会などあまりなかったので、自然にできているのか楊鷹自身よく分からない。しかも、しばらくもやらないうちに、やめたくなった。毛翠が父親であることを考えたら、いたたまれない気持ちになってきたのだ。


(こんな意味の分からないことをやらせやがって。こっちはさっさとやめたいんだから今すぐ立ち去れこのろくでなし……!)


 心の中で罵る楊鷹であったが、対する清はなかなかその場から動こうとしない。

 楊鷹は毛翠の様子を窺う振りをしながら、背後の親子に視線を投げる。この隙に逃げてくれ、とそんな思いを込めるが、しかし父親はなかなか立ち上がろうとせず、女性の方も呆然と立ち尽くしている。

 赤子の鳴き声が響く中、膠着(こうちゃく)した状態が続く。楊鷹は再度親子に視線を送る。すると、女性がきっと眉をつり上げた。意思が伝わったのかと思った楊鷹だったが、それも一瞬。彼女は清に向かって一歩踏み出した。


「もう、やめてください!」


 清を見据えながら、女性は声を張る。


「小さな子がこんなに怖がっているんです」


 清を見つめたまま女性は言う。先程よりも声音は落としていたが、きっぱりとした力のある声音であった。

 楊鷹は往来の端へと視線を投げた。見物人たちが清のことを指差して、ひそひそと何事かを言い交わしている。耳を澄ませば、けたたましい泣き声の合間に「子供を泣かせて」だの「本物の人でなしだね」だのという言葉が聞こえた。

 清がきょろきょろと周囲を見回す。これで彼にもはっきりと分かっただろう。完全に多勢に無勢、この状況清の方が不利だ。


「くそ、てめぇら……」


 清が不満げに小鼻を膨らませる。すかさず、楊鷹は清を睨み付けた。それはもう思い切り、気迫というより念を込めて、射抜くつもりで視線を送る。すると、悪辣な都頭は「ひっ」と小さな悲鳴を上げて、顔をこわばらせた。

 睨み付けたまま楊鷹が半歩前に出れば、清は一歩後ずさる。そして。


「ち、ちくしょう! 覚えてやがれ!」


 そんな台詞を吐き捨てると、清は(きびす)を返して逃げ出した。小さくなってゆく背中を見送りながら、楊鷹は思う。あんな奴さっさと職を辞めてしまった方が、この街の人間のためなのではないか、と。


 清の姿が見えなくなると、毛翠はぴたりと泣きやんだ。泣きやんで当然だ。嘘泣きなのだから。振り返れば、ほくそ笑む毛翠と目があった。

 都頭相手にやり合わずに済んだのは助かったが、素直にありがたいと思えない。どっと疲れがのしかかってくる。悶々とした気分を、楊鷹は目を閉じて噛みしめた。


「あの、ありがとうございます」


 ふいに声がかかり、楊鷹は目を開けて振り向いた。振り向いて、固まった。

 立っていたのは清に絡まれていた女性である。こうして落ち着いて対面してみれば、彼女はとんでもなく美しかった。品の良さを感じさせるたたずまいはもちろん、顔立ちも整っている。ふっくらとした頬に小ぶりだが形の良い鼻。艶やかな朱唇は微笑みを形作り、少し垂れた愛らしい瞳は真っすぐ楊鷹に向けられている。

 背中でもぞもぞと動く気配がして、楊鷹は我に返った。背後を覗けば、毛翠がじたばたともがいている。瞳は女性にくぎ付けになっていた。小さな唇が動く。楊鷹は慌てて背中に手を回し、帯ごと毛翠の着物を引っ張ったのだが。


「う、美しい……」


 ぽつりと声がこぼれ出た。楊鷹は静かに歯噛みした。頬が引きつりそうになるのをどうにかこらえる。

 女性は目を瞬かせながら、忙しなく周囲を見回す。


「あら、今何か声が聞えたような……」

「いや、何も聞こえません」


 楊鷹はきっぱりと言う。しかし、女性は背後の父親をうかがい見る。


「お父さん、今声が聞こえましたよね?」

「きっと気のせいです」


 父親が答えるよりも早く、楊鷹は言った。言いながらこっそりと、毛翠を引っ張る手に力を込めた。これ以上勝手にしゃべられたら、たまったものではない。現に眼前の娘はじっと楊鷹を見つめている。微かではあるが視線が痛いので、楊鷹は話題をそらした。


「怪我はしていませんか?」


 女性は頷いた。楊鷹の方へ近づいてきた彼女の父親も、「ええ、なんとか」と答える。


「それなら安心です。しかし、あまり無理は……」


 楊鷹は言いかけて、はたと口を閉ざした。

 親子二人の様子がどこか暗い。女性はそっと目を伏せ、父親はそんな娘を心配そうに見つめている。

 ならず者と言っても差し支えないような男に絡まれた直後である。暗くなって当然か。未だ恐怖が残っているのだろう。

 これで別れようと思っていた楊鷹だが、ふと彼らのことが心配になった。せめて、家まで送り届けた方がいいのではなかろうか。


「あの……」


 楊鷹が声をかけると、父親が振り向いた。そしてすぐさま開口、思いもよらない提案をしてきた。


「よろしければお礼にお茶でも奢らせていただけませんか? なんでしたら、お酒でも構いません」


 きょとんとしてしまった楊鷹は、一拍遅れて言葉を返す。


「いや、そのようなお気遣いは……」


「結構です」と断ろうとしたところで、楊鷹の背中が痛む。どうしてか、またつねられた。楊鷹はつねった相手をちらりと見やる。頬を膨らませている毛翠が見えた。その不満そうな表情は一体なんなのだろう。断るな、と言いたいのだろうか。

 楊鷹の言葉が途切れたその隙に、父親が楊鷹の腕を取る。


「遠慮なさらずに。さあさあ、こちらへ。春蘭(しゅんらん)も構わないだろう?」


 尋ねられた女性ははっとして顔を上げると、柔らかく微笑んだ。


「ええ、もちろん構いません。ぜひお礼をさせてください」

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