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小仙奇譚  作者: 平井みね
第一章
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朱柳県の県城にて・二

 内心で深々とため息を付いた楊鷹(ようおう)であったが、気を取り直して朝食を食べようと席に着く。器をのぞき込めば、中身は野菜の(あつもの)であった。しずしずと自身の口に運びつつ、少し取り分けて毛翠(もうすい)にも食べさせる。ところが、どうも反応がよろしくない。「腹が減った」と言いかけていたわりに、噛む速度が遅いうえ表情も不満そうである。

 訝し気に思いながらも朝食を済ませ、身支度を整える。さて、そろそろ()つ時だ。目指すは北西にある藍耀海(らんようかい)。だが、まずはこの場所がどこかを把握しなければならない。

 小屋の中に老爺(ろうや)の姿はなく、しかしどこかへ行くということは何も聞いていない。外にいるのかと戸口に視線を投げた時、ちょうど老爺が戻ってきた。まるで見計らったかのような間の良さである。


「そろそろ、出発いたしますか?」


 尋ねる老爺に対して、楊鷹は頷いた。


「道をおたずねしてもいいでしょうか」

「ええ、もちろん」


 老爺は朗らかに答えると、椅子に腰かけた。

 楊鷹は尋ねた。


「ここは、一体どこなのでしょうか?」

「ここは朱柳県(しゅりゅうけん)の山中になります」


 そう話し始めた老爺の道案内は丁寧であった。彼の話によれば、一番近い街は朱柳県の県城であるらしく、北に進んでゆけば県城へと続く街道に出るとのこと。今出発すれば、昼頃にはたどり着けるようだ。


 道案内の後、老爺はいそいそと小さな荷を用意し始めた。水と薄い焼餅が数枚。それから膏薬(こうやく)を包むと、楊鷹に持たせてくれた。老爺曰く、「この膏薬を貼って刺青(いれずみ)を隠してください」とのこと。彼はそんなところにまで、気を遣ってくれたのだった。

 何から何まで親切にしてもらった楊鷹は、老爺に対して銀子をいくばくか差し出したが、彼は頑として受け取らなかった。「私には必要のないものですから」と言って。

 仕方がないので、楊鷹は丁寧に拱手の礼を捧げる。


「この御恩、一生忘れません。本当にありがとうございました」

「お気をつけて」


 最後までにこやかな老爺に見送られながら、楊鷹と毛翠は小屋を後にした。数歩進んだところで楊鷹は振り返る。老爺の姿は未だにあった。たおやかに手を振っている。腕の中の毛翠が、手を振り返す。老爺の動きが止まったのが見えた。しかし、彼はすぐさま再び手を振りはじめる。楊鷹と言うより、毛翠に向けて。

 老爺は心底子供が好きなのかもしれない。楊鷹の胸中にそんな思いがよぎった瞬間、なんだか申し訳ない気持ちがどっと湧き出てきた。腕の中の赤子は、赤子ではないのだ。楊鷹は軽く頭を下げると、素早く身を翻して足早に歩き始めた。


 階段を降り、朽ちた門をくぐる。

 山道には楊鷹と毛翠の他に人影はなかった。昨夜はあまりにも疲れていたうえに暗かったため気が付かなかったが、すっかり明るくなった今、辺りを見渡してみれば山木は高くこんもりと茂っている。思った以上に山奥まで迷い込んでいたようだ。老爺はさらりと「街道に出る」と言っていたが、話よりも距離があるかもしれない。

 とは言え、あまり心配はいらないだろう。天気は晴天。木々の合間に見え隠れする空は青く、降り注ぐ木漏れ日は濃い金色。今日も暑くなりそうであったが、昨日までとは違って水もあるし食料もある。足の裏の傷はすっかり塞がったうえ、念のため布を当てているのでなんら心配はない。しっかりと歩ける。気合いを入れて急げば、昼になる前に朱柳県の県城に到着できるはずだ。楊鷹の足であれば、それは十二分に可能なことであった。


(とにかく、急ごう)


 今の楊鷹にとって最も大事なことは、できるだけ短期間で毛翠との旅路を終えることである。こんな不本意な面倒事を、いつまでも背負っているつもりはこれっぽっちもない。

 楊鷹は大股で一歩踏み出した。その時。


「はぁ、やっとしゃべれる」


 深いため息と共に吐き出されたつぶやきに、楊鷹のいらつきが募る。しゃべれるからなんだ。これと言って毛翠と話すことなどない。


「のう、楊鷹……」

「聞く気はないから黙ってろ」


 ぴしゃりと突っぱねれば、毛翠はいかにも不満そうに頬をふくらませた。これが、本当の赤子であれば愛らしいのかもしれないが、残念ながらこれは父親なのである。かわいいなどとは微塵(みじん)も思えず、余計に腹立たしくなってくるだけだった。

 そんな心情が表に出ていたのかどうなのか。毛翠はますます不機嫌そうに顔をしかめた。


「何もお前を困らせようと思っているわけではない。むしろ逆だ。お前のためになることをしようと思ってだな」


 意外、というかにわかには信じられない発言に、楊鷹はじろりと毛翠を見下ろす。


「……なんだ?」

「こうして抱かれているのも悪いから、自分で歩こうかと思っての。誰も見てないし」

「歩けるのか?」


 楊鷹はまじまじと腕の中の赤子を見つめた。この小さな体で、歩けるとは到底思えない。仮に歩けたとしても、とんでもなく遅いうえに、長い距離は進めないだろう。だが、毛翠は得意げな笑みを浮かべて、朗らかに答える。


「もちろん、歩けるぞ」


 毛翠が早速とばかりにもぞもぞと動き出す。相変わらず落ち着きがない。「少し待て」と毛翠を抑えながら、楊鷹はあたりを見回した。山中に人の姿はない。生き物の気配は、頭上でのどかに鳴き声を響かせている鳥たちのみ。しばらくの間、街道の近くに出るまでは、毛翠自身で歩いてもらってもいいかもしれない。たいして重たくはないのでどうということはないが、両手がふさがっている状態は何かと不便だ。それに、何から何まで世話を焼く必要はない。彼は本物の赤子ではないのだから。

 楊鷹はゆっくりとその場にしゃがみこんだ。途端、毛翠は自ら地面に飛び降りて歩き出す。否、四つんばいのまま、はい出した。


「待て」


 楊鷹としては当然の制止であったが、毛翠は「なんだ?」と言いながら振り返る。表情もきょとんとしており、止められた理由に思い当たりがないようだ。


「それは、歩くとは言わない」


 さらに楊鷹が言っても、毛翠は不思議そうな顔つきのままだ。しかも。


「歩いているぞ」


 はっきりとそう言ってのけた。楊鷹はいらつきを感じながらも、努めて冷静に指摘する。


「それは、はっている、だ」


 そこまで言って、毛翠もようやく合点がいったらしい。はっと目を見開いた後、きょろきょろと自身を見下ろして、照れ笑いのように口元を緩める。


「ああそうか。歩くのは立ち上がるのか。すまぬ。今立つからちょっと待て」


 毛翠は手近な木につかまると、よろよろと立ち上がる。足元がおぼつかない。今まさに初めて立ち上がったと言わんばかりだ。足どころか全身が震えている。なんと頼りない、もろい立ち姿であろう。見ていて不安になってくる。あんな状態で歩けるわけがない。


「止せっ……」


 楊鷹の体が自然と動く。毛翠が一歩踏み出す。と同時に盛大にすっころんだ。あと一歩のところで、楊鷹は間に合わなかった。伸ばした手は空をつかむ。


「おい……」


 ぎこちなく呼びかければ、赤子はがばりと上体を起こした。


「大丈夫だ。しかし、この体では歩くのは無理だな。まったく、しゃべれるくせに体の方は赤ん坊でやりにくい」


 ぶつぶつとつぶやきながら、毛翠が体勢を整える。と言っても、その格好はやはり獣のような四つんばいであった。


「まぁ、問題なかろう。こっちで十分進めるし」


 毛翠が両手足を素早く動かしてはいまわる。でこぼことした山道であるにもかかわらず、驚くほど速い。恐らく、楊鷹の歩行と同程度の速さはある。不気味だ。全くもって気味が悪い。


「待て。止まれ。今すぐ止まれ」

「なぜだ?」


 疑問を口にしながらも、毛翠は動きを止めた。その間に楊鷹は素早く近づいて、小さな体をひょいと抱き上げる。


「なんで駄目なんだ」

「見ていて気持ち悪い」

「気持ち悪いとはなんだ! 気持ち悪いとは!」


 語気を強める毛翠であったが、楊鷹は応じることなく腕の中をちらりと見やる。毛翠の着物が所々茶色く汚れている。小さな手も土まみれだ。楊鷹は小さく息を吐いた。


「汚れるし、傷だってできるだろう。大人しくしてろ」


 そう言って歩き始める。下方からやたら視線を感じた。


「……楊鷹、お前優しいの」

「後々面倒くさくなるのが嫌なんだよ」


 ぶっきらぼうに言い捨てて、楊鷹は足を速めた。そして、再び思う。


(とにかく、とにかく、できるだけ急ごう。藍耀海で何をするつもりか知らないが、そんなことはどうでもいい)

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