戦いに向けて・八
しかし、毛翠はその決断に納得できなかったらしい。
「いや、楊鷹、お前、ちょっと待て!」
甲高い声が、びりびりと空気を震わせた。
天井が崩れてくるのではないかというほどの大声であったが、楊鷹は無視した。まだ、話は終わっていない。
「お前の話は信じる。だから、一つ約束しろ」
射抜くような鋭い声で、楊鷹は言った。
「期日まで待つという約束が果たせない、と言うのなら、北汀村の人々を罪に問うようなことは一切やるな。彼らはもう、関係ないはずだ」
期日までに神仙のもとに征くか、もしくは北汀村の人々を犠牲にして逃げるか。その二つを天秤にかけていたわけだが、約束が破られた今となっては、どちらを選ぶも何も無い。約束、という秤そのものが壊れたのだ。北汀村の村人たちは、解放されて当然だ。
(まさか、それはできない、などと言わないだろうな)
面子を気にするのならば、北汀村の人々からすっぱり手を引くべきだ。自ら壊した約束に、未練がましくすがっては、この上なく無様ではないか。
そのような気持ちをこめて、楊鷹は慧牙をきつくにらむ。
「それは、もちろんです」
果たして、楊鷹の気持ちが通じたのかどうか。それはともかく、慧牙はすんなりと素直な答えを返した。
「約束そのものがなくなったのですから、北汀村の方々に手出しはいたしません」
「……よし」
楊鷹は大きく頷くと、剣を鞘に収めた。これで、憂いはなくなった。あとは、荘炎魏をどうにか食い止めるのみ、である。
そうして、楊鷹は決着をつけたわけだが、それは独り善がりなものであった。
背後でつくえを叩く大きな音が鳴る。次いで響くは、再びの甲高い叫声。
「おい楊鷹!」
今度こそ、楊鷹は振り返る。
毛翠が、つくえのうえに身を乗り出していた。彼の表情は、ありありと渋い。未だに、納得できていない様子であった。
「本当に慧牙のことを、信じるのか? これまでのこと、忘れたわけではなかろう?」
「忘れていない」
楊鷹がぶっきらぼうに答えれば、毛翠ははたまた声を荒らげた。
「なら、なんで!」
「なんでも何も、信じるに値すると思ったからだよ」
「だとしても、だ! そいつの話が本当だとしても、斬って動きを封じておいたほうが良くないか?」
「斬らない」
「だから、なんで!」
「慧牙の話を信じると決めたんだ。なら、顔を立ててやるのが筋だろう」
慧牙は慧牙なりに誠意を見せた。ならば、それに応えるべきだ。義には義を以て返す。信じるとはそういうことだ。
「そんな奴の顔、立てんでいいだろう! そいつは敵だぞ?」
「ああ、敵だ。だから、信じるのは今に限った話だ」
迷うことなく、どこまでもきっぱりとした口調で、楊鷹は答え続ける。巌のような態度には、ひびすら入らない。毛翠は、両手で頭を抱えてうずくまる。
「あー、もう! 人が好いというかなんというか、なんとも損をする性質だな……」
赤子の言いぐさに、楊鷹は無性にかちんときた。
「あんたに文句を言われる筋合いはない。育ててないくせに」
刺々しく言い放てば、毛翠は喉をつまらせたかのように呻き、そのまま静かになった。
慧牙が、くすりと笑う。
「お父上には、容赦がないのですね」
「……それで、荘炎魏はいつどこから攻めてくるのか、分かっているのか?」
慧牙の言葉には取り合わず、楊鷹は尋ねた。
すると、慧牙はすぐさま笑みをひっこめる。
「先頃、占ってみたところ、あと一時(約二時間)と経たないうちに、こちらの盧西村の東門のところに現れるようです」
慧牙が答えると、毛翠が鼻で笑った。
「その占い、でたらめ……」
偉ぶった幼い声が、はたと途切れる。
「どうした」
楊鷹は、背後に振り返る。
毛翠はつくえに乗り出したまま、しきりに鼻をひくつかせていた。楊鷹は何も感じないが、鋭敏な小さな鼻は何かをかぎ取ったようだ。
「楊鷹、窓をもっと開けてみてくれんか」
言われるままに、楊鷹は窓を大きく開け放った。
凉しい風が、一息に吹き込んでくる。途端、毛翠はぽつりとつぶやいた。
「でたらめではないな……」
「何か、においますか?」
問いを発したのは、慧牙である。
毛翠は、これでもかと鼻にしわを寄せた。
「神仙のにおいがする……。このにおいは、おそらく荘炎魏だ」
「間違いなく、荘炎魏なんだな?」
楊鷹が念を押すと、毛翠は今一度鼻をうごめかす。獲物を追う狼よろしく、入念ににおいをかいでから、彼は答えた。
「間違いない」
きっぱりとした口ぶりに、楊鷹は小さく舌打ちをした。確かに一時も経たぬうちではあるが、あまりにも早い。
慧牙が肩をすくめた。
「まったく、気が早い人……いや、神仙ですね」
「なんだその言い方は! 一時にしては早すぎるだろうが! これでは嘘だろう!」
毛翠が食ってかかる。どうしたって、彼は慧牙の言い分に、得心がいってないらしい。楊鷹も、その気持ちは分からなくはない。だが、怪しくとも信じると決めたのだ。いつまでも、ぐちぐちと言われては困る。第一、荘炎魏が、すぐそばまで迫っているのだ。とやかく文句をつけている場合ではない。
楊鷹は、まだまだ物言いたそうな赤子に近づくと、ひょいと抱き上げた。
「待て、お前、本気の本気であいつのこと放っておくのか?」
毛翠は、楊鷹をじろりとねめあげる。
しかし、楊鷹は一瞥したきり、それからは一切赤子の方は見ずに、一直線に扉へ向かう。
「おい、聞いておるのか!」
毛翠が大声を上げる。
楊鷹は、前を見据えたまま答えた。
「慧牙と話はついたんだ。なら、もう相手をする必要はない。今どうにかしなければならないのは、荘炎魏の方だ。ここで、ぐだぐだやってる場合じゃない」
「それはそうだが……」
毛翠はそこまで言うと、ぎゅっと唇を噛んだ。何やら、迷いがある様子だ。慧牙の言動を怪しみながらも、荘炎魏のにおいは無視できないのだろう。
ならば、さっさとふっきれてほしい。
(迷ってる場合じゃあないんだよ)
苛立ちを覚えた楊鷹の口から、自然と言葉がついて出る。
「慧牙のことが信じられないなら、俺を信じろ」
そう、強い口調で言ったものの。何やら腹の底がぞわぞわとむずがゆくなくなってくる。言わなければよかったと、楊鷹は後悔した。
しかし、そのような気持ちとは裏腹に、毛翠には覿面に効いた。迷いの表情から一変、彼は眉を吊り上げ凛々しい顔つきになった。明らかに、何事かを決断した表情だ。その顔を慧牙に見せつけるように、小さな体を傾ける。
「おい、慧牙! 楊鷹に免じて、今だけは信用してやる! 言った言葉の数々、違えるな! 絶対に大人しくしていろよ!」
毛翠が叫べば、慧牙は素早く礼を捧げた。深く頭を下げ、重ねた手を額の高さまで掲げる。
「ええ、もちろんです。ご心配ならば、私に見張りでもおつけください」
動作も言葉も、随分とへりくだっている。まるで、高官に媚を売る下級役人のようだ。薄っすらと、におう。あの、芝居がかったくさい動作に、近しいものがある。
深々と頭を下げているため、慧牙の瞳は見えない。果たして、あの清らかな双眸は濁ってしまったのか。楊鷹は目をすがめ、慧牙を見つめた。と、同時に、先ほど毛翠に放った台詞が、自身に突き刺さる。
(……慧牙ではなく、信じると決めた俺を信じろ)
相手の本意など、もはや関係ない。清も濁も、すべて飲み込め。信じるのは慧牙ではなく、己だ。
楊鷹は、鮮やかに告げた。
「俺は、お前たちに負けない。必ず勝つ」
それは、鋼よりも硬い誓いであった。誰の何がどうあっても、砕けることはない。
楊鷹は颯爽と踵を返すと、振り返ることなく客室を後にした。




