戦いに向けて・六
慧牙を斬れば、荘炎魏からの報復は必至。今、襲われてしまっては、策だの準備だのとやっている場合ではなくなり、すべてが水の泡になってしまう。ゆえに、なるべく穏便に。だが、いざというときはやるしかない。
楊鷹は、下男に向かって言った。
「王嘉殿たちにも、慧牙が訪ねてきたことを知らせてください。そのうえで、客室のすぐ外で待つように伝えてください」
「ええ、承知しました」
「それと、申し訳ないのですが、お屋敷の皆さんは慧牙を通した部屋には近づかないよう、お願いします」
あれこれと指示を出した後、楊鷹は毛翠を差し出す。
「あと、この子供を預かって……」
「いやっ!」
突然、毛翠が手足をばたつかせた。とっさに、楊鷹は腕をひっこめ毛翠を胸に抱き寄せる。
「こら」
と、叱りながら、楊鷹は腕の中の赤子をにらみつける。下男がいる手前、「こら」程度のことしか言えないのが、もどかしくてたまらない。
(なんで暴れるんだ、大人しくしていろ)
内心ではがみがみ言いつつも、楊鷹はどうにかこうにか取り繕う。
「申し訳ありません。少し人見知りをする子でして……」
「いえ、お気になさらず」
下男はそう言うと、毛翠に対して笑いかけた。
「ほら大丈夫だよ。怖くないから、こっちにおいで」
にこやかな表情に、優しい声音。この下男は、子供好きなのだろうか。なんとも親しみのある様子である。
ところが、毛翠はふいっと体をそむけ、楊鷹にしがみついた。完全に下男を嫌がっているように見える。
真の赤子であれば、赤の他人に抱かれることを嫌がっても不思議ではないが、これは偽物だ。
困惑というよりもどこか悲しそうに眉尻を下げている下男に対して、楊鷹はなんとも申し訳ない気持ちになってしまった。とっさに口を開く。
「わがままな子供で、本当に申し訳ない。今……」
言いかけたそのとき、楊鷹の耳元に赤子の吐息がかかる。かすかな息遣いは、そのままささやき声に変わった。
「わしも連れていけ。戦えぬが、話くらいならできる」
楊鷹は口をつぐんだ。
毛翠は毛翠なりに、どうにかして少しでも力になりたいらしい。楊鷹は毛翠から体を離すと、彼の顔を覗き見た。真摯な緑色の瞳と、目が合う。赤子らしからぬ、凛々しい光を湛えた瞳。楊鷹は気圧され、あっさり負けた。すぐさま視線を逸らすと、こそこそとささやき返す。
「分かった。連れて行く」
「ほらほら、大丈夫だよ。こっちにおいでー」
下男は、一生懸命赤子の機嫌を取ろうとしていた。べろべろばあ、と何度も百面相を繰り返している。
もはや申し訳ないを通りこして、やるせない。楊鷹はひとつ咳払いをすると、おずおずと言った。
「……どうも離れそうにないので、子供も一緒に連れて行きます」
下男の顔と手が、面白いほどぴたりと止まった。
「……そう、そうですよね。お父さんの方が良いですよね」
「いえ、まったくそんなことではないので、お気になさらず」
がっくりと肩を落とした下男に対して、楊鷹は強い口調で言い切った。しかし、あまり慰めにはならなかったようで、彼はしょんぼりとしたまま、
「皆さんに知らせてきます」
と、去っていった。
「……なんだか、悪いことをしたようだな」
「そう感じるなら、もう少しやり方を考えろ」
ぽつりとつぶやく毛翠に対して、楊鷹は物申す。中身が大人の赤子とは、つくづく質が悪い。
楊鷹の口からため息がこぼれる。これから慧牙と対峙しなければならないというのに、気勢を削がれた気分だ。そんな心を鼓舞するように、毛翠がぺちぺちと楊鷹の肩を叩く。
「ま、まぁ、仕方がないだろう。こんな見た目なんだ。それよりもほら、早く行こうではないか。相手は慧牙だ。気を引き締めろ」
「言われなくても分かってる」
楊鷹は噛みつくように答える。
一体、誰のせいで気落ちしたというのか。文句の一つでも言いたいところだったが、その気持ちはぐっと腹の底に押し止めた。
そうして、楊鷹たちが客室に向ってみると、何やら楽しげな鼻歌がもれ聞こえてきた。急いで部屋に入ってみれば、鼻歌の出どころはすぐに分かった。
歌声の主は、慧牙であった。彼はすっかりくつろいだ様子で、長椅子に腰掛けていた。そのかたわらのつくえには、茶器が置いてある。おそらく、屋敷の使用人が用意したのだろう。
相当上質な茶なのだろうか。慧牙の鼻歌は止まらない。なんとも楽しそうな様子で、彼は茶の香りをかいでいる。しばらく香りを堪能した後、慧牙は茶にゆっくりと口をつけた。そして、ほう、と艶めかしい息を吐く。
悔しいくらい、絵になる光景であった。仄白い朝日を浴びながら、優雅に茶を嗜む高貴な文人。彼の白魚のような指に、青磁の茶杯がよく似合う。
「ああ、どうも。おはようございます。今日は親子おそろいなんですね」
待ち人が来たことに気づいた慧牙は、にこりと微笑んだ。これまた優美な笑顔である。この見た目で腹の内は深淵よりも深いのだから、いんちきも甚だしい。本当に、とんだ曲者である。
慧牙をにらみつけながら、楊鷹は尋ねた。
「一体、話というのはなんだ?」
「そんな、立ち話もなんですから、貴方もおかけになってください」
慧牙が片手を差し伸べて、自身の向かい側の椅子を示す。
にこやかに勧められても、楊鷹は動かない。扉のところに立ったまま、ぐるりと部屋を見渡す。白い壁に椅子とつくえ。窓は薄く開いており、そよぐ風を受けて、花瓶のすすきがほのかに揺れる。こざっぱりとした室内に、特別変わったところはない。
「いやだ、そんなに怪しまれるだなんて、私ったら信用されてない」
やけに楽しそうに声を弾ませると、慧牙はもう一口茶を飲んだ。それから、ゆっくりと茶杯をつくえに置く。青磁とつくえが触れ合い、ささやくように音が鳴る。その何気ない響きすら、優雅に聞こえた。
しなやかな白い手が、改めて対面の席を示した。
「ともかく、どうぞ座ってください。人様の家に何か仕込むほど、私は図々しくありませんよ」
「信用できるか」
「嘘くさい」
楊鷹が言えば、毛翠も口をそろえた。
慧牙は、くすくすと笑う。
「親子そろって、私のことが嫌いですか。それならば、時間も惜しいのでそのままで構いません」
慧牙は袖を払うと、楊鷹の方に向き直った。
「一つ」
そう言いながら、慧牙はすっと人差し指を立てる。
「期日に関して一つ、貴方に伝え忘れていたことがありました。話というのは、そのことです」
「俺に伝え忘れていたこと?」
「そうです。それはつまり、新月の日の、いつまで待つかということです」
「ああ……それは確かにそうだな」
楊鷹は相槌を打つ。一体なんの話かと訝しく思っていたが、怪しくもなんともない、それどころか至極真っ当な話であった。確かに、新月の日まで待つとは言われたが、時限については何も聞いていなかった。
「新月の夜になるまで、つまり明日の日暮れまでだと考えていたが、違うのか?」
「まあ、なんと! それでいいのですか?」
楊鷹の問いかけに対して、慧牙はこれでもかと目を丸くした。目だけでなく、声までも大きい。随分と驚いている様子だが、いかんせんわざとくさい。
芝居がしたいのであれば、一人でやっていれば良い。楊鷹は、冷やかに答える。
「別に。こちらはそれで構わない」
「あら、そうですか。でも、そんなに焦る必要はありません。ええ、ええ、こうしましょう。刻限は新月の夜が明けるまで。つまり、明後日の夜明けまで、といたしましょう。あまり早いのは、かわいそうですからね」
慧牙は、自身の胸元に手を当てると、目を閉じた。そして、「ああ」とうっとりとした声を上げる。芝居は、まだ続いているようだ。
「まったく、私ったらなんて優しいんでしょう。もう、本当に寛大! 男前!」
どの口が言っていると、思いながら、楊鷹は慧牙のくさい話しぶりを眺めていた。
「……しかし、私は優しくとも、荘炎魏は違うようで」
柔らかい声が、ふいに凶悪な神仙の名を紡ぐ。
楊鷹の眉が、ぴくりと動く。話の雲行きが、すこぶる怪しくなってきた。
「どういうことだ?」
楊鷹が尋ねれば、慧牙は袖を目元にあてがった。涙をぬぐうような仕草だが、まさか本当に泣いているわけではあるまい。
「……期日まで待つように、私は荘炎魏に頼みました。それはもう、切々と頭を下げましたとも。必死に懇願しましたから、彼も一旦は「待つ」と言ってくれました。ですが、どうも気分が変わってしまったようなのです。それで、今日にも貴方を殺しにいくようです。正確には、人里ごと襲って、村人もろとも貴方もやってしまおう、という魂胆なのでしょう」
慧牙は袖を払い、ゆっくりと目を開けた。案の定、そこに涙の色はない。一切濡れていない、明るい瞳をたおやかに細め、慧牙は一層優美に微笑んだ。
「開心林のときと、同じように」




