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小仙奇譚  作者: 平井みね
第二章
112/131

戦いに向けて・四

(よう)兄さん、本当にごめんなさい」


 突然の謝罪に、楊鷹(ようおう)は眉をひそめた。


「なんで、月蓉(げつよう)が謝るんだ?」

()おばさんが、毒を盛りました。姪として、代わりにお()びします。……詫びただけで許されることではありませんが、それでも本当にごめんなさい」


 もう一度謝ると、彼女は深々と頭を下げた。

 楊鷹は表情を和らげた。だが、戸惑いは消えない。

 確かに、毒を盛られた。だが、月蓉は何も悪くない。彼女が北汀村ほくていそんの一員で、李白蓮(りはくれん)の血縁だとしても、だ。第一、月蓉は王嘉(おうか)たちを呼びに、はるばる菁雲村(せいうんそん)まで行ってくれたではないか。責めるなど、お門違いだ。


「いや、許すも何も、月蓉は悪くないだろう。頭を上げてくれ」


 言われたままに、月蓉はゆるゆると頭を上げた。しかし、顔は伏せたままだ。灯火が、彼女の顔に濃い影を刻む。

 重々しい沈黙の後、月蓉はぽつりとつぶやいた。


「……楊兄さん、もう、逃げったていいんですよ」

「逃げる?」

「だって、(びょう)に閉じ込めて、そのうえ毒を盛ったんですよ。そんなことをした北汀村の人たちのために、命を賭ける必要なんて、無いです」


 言われて、楊鷹は考えた。


(月蓉の言うとおりかもしれないな……)


 北汀村の人々は、約束を破って毒を盛った。その行いは、当然許しがたい。しかし、感じるのは怒りというよりも、失望だった。だから、村人たちにやり返してやろうという思いはない。むしろ、もう彼らとは関わり合いになりたくない、という思いが強い。

 どちらにせよ、裏切り者の彼らに対して、義理を通す必要はない。彼らを見限って遁走(とんそう)しても、責められる(いわ)れはないだろう。


「そうだな。確かに彼らを助ける義理は、もうないな」


 ひとまず楊鷹は答える。

 だが、そう言っても不思議と逃げる気にはなれなかった。

 北汀村の人々とは、関わりたくない。彼らはもうまったく関係ない。そうであるなら、自分の気持ちと向き合うだけ。自分自身が、一体どうしたいのか。大切なのはそれだけだ。

 楊鷹は言った。


「……ただ、前にも言ったと思うが、神仙たちと戦うのは俺自身のためなんだ。彼らがどんな人々であろうと、今この状況で北汀村の人たちを見捨てたら、後悔する」


 その人となりはまったく褒められたものではないが、しかし北汀村の人々がこれまでにさんざん虐げられてきたことは、まごうことなき事実である。

 楊鷹は思い返す。彼らの、すっかり打ちのめされた(くら)い瞳を。それから、御器(ごき)を携えて景辰岡(けいしんこう)を歩いたときのことを。あの磁器のための道は、傷跡だ。景辰岡を追われ北汀村にやって来た人々の、痛みの上に敷かれた道である。謂わば、己はその痛々しい傷を、踏みにじったのだ。

 禁軍の武官であるならば、皇帝のために働くことは正しい。けれども、腐敗した宮中を目の当たりにして、果たしてそれは本当に正しいことなのかと疑問を抱いた。絢爛(けんらん)な暮らしをゆくゆくと味わう者の影で、苦境にあえぐ人々がいる。その気配に気づきながらも、己は何もできなかった。何もできぬまま、あらぬ罪を塗られ、流罪となった。

 あまりにも無力で、情けない。

 今、神仙たちから逃げだしたら、結局昔と何も変わらない。苦しむ人々を見捨ててしまったら、あのときの悔しさを再びなぞるだけ。

 楊鷹は、胸の前で拳を握りしめた。


「村人たちを助けなかったら、結局、景辰岡から彼らを追い立てた官吏(かんり)と同じになってしまう。そうなるのは、嫌なんだ」


「それに」と、楊鷹は先を続けた。


「神仙たちの狙いは、あくまでも俺たちだ。だから、逃げたとしても、北汀村の人々が犠牲になっても、それで終わるわけじゃない。これは俺がまいた種だ。俺が摘み取らなくちゃいけない」

「はい。分かってます……」


 そう言う月蓉の声は、弱い。自身に無理やり言い聞かせているかのようだ。


「月蓉は、俺に逃げてほしいのか?」


 穏やかな声で楊鷹は尋ねた。しかし、答えは返ってこない。月蓉は唇をかみしめ、黙りこくっている。その口元の(いまし)めがほどけるのを、楊鷹は静かに待った。

 燭台の炎が揺らめき、ちかちかと閃いた。それが合図になったのだろうか、月蓉がゆっくりと口を開く。


「怖いんです。作戦がまとまってきて、戦いのときが迫ってきたと思ったら、急に嫌なことを考えてしまって……。それですごく怖くなって、逃げたほうがいいんじゃないかと、そう思ってしまったんです」

「嫌なこと、というのは?」


 楊鷹が問いかけると、月蓉は膝の上の手をきつく握りしめた。


「今度こそ、楊兄さんが死んでしまうんじゃないかって……」


 答える声音は、さらに弱々しい。むせぶように、月蓉は続ける。


「そんなことないって、楊兄さんたちは負けないって、何度も自分に言い聞かせているんです。でも信じきれないんです。もう次はないんじゃないかって。楊兄さん、北汀村に来たときだって大けがをしていました。菁雲村から戻って来たときも毒で気を失っていました。それで、また同じようなことが起こったら、そのときはもう、本当に駄目なんじゃないかって、そんな風に思ってしまうんです」


 切々とした月蓉の吐露を、楊鷹は静かに聞いていた。


「それなのに、そんなに心配でたまらないのに、私は力になれなくて……。私は、王嘉さんや銭秀(せんしゅう)さんのように、戦うことはできません。楊兄さんが戻ってくるのを待っていることしかできなくて、それもまたもどかしいんです。楊兄さんが流罪になってしまったときも、そうです。結局、私は何もできませんでした……」


 そこまで言うと、月蓉は大きく息を吐き、うなだれた。

 再び重たい沈黙が満ちる。

 楊鷹(ようおう)はそっとひざまずくと、月蓉(げつよう)を見上げた。目を合わせたいと思ったが、しだれた前髪に(はば)まれる。


「月蓉」


 呼びかけると、月蓉の肩がぴくりと跳ねた。しかし、顔を上げてくれない。

 おもむろに、楊鷹は口を開いた。


「月蓉だって、たくさん助けてくれているだろう。力になれていない、なんていうことはない」


 諭すように言えども、月蓉は黙ったままだ。

 楊鷹の胸が痛む。こんな風に彼女を煩わせてしまっているのが、心苦しい。

 なんと声をかけるべきだろうか。どう言えば、彼女の不安をぬぐえるだろうか。死ぬつもりなどさらさらないが、しかし絶対に死なないという確証はどこにもない。ゆえに、いくら言葉を積み上げても無駄だろう。ただ、正直な気持ちをそのまま伝えるしかない。

 楊鷹は言った。


「必ず作戦が上手くいくとは言い切れない。だが、月蓉を始め、皆が俺に力を貸してくれたんだ。だから、絶対に勝つという気持ちでやりきってみせる。負けるつもりは一切ない」


 月蓉が、ゆっくり顔を上げた。涙に濡れた瞳が、楊鷹を射る。

 胸が一層締めつけられる。楊鷹は、息苦しさを覚えた。


(……あのときも、こんな表情だったな)


 あのときとは、護送役人と共に流刑地の槍山島(そうざんとう)へ発つときのこと。あのとき、月蓉は、円寧府(えんねいふ)の大門まで見送りに来てくれた。彼女以外に親しい人間はおらず、集まった人々のほとんどは見ず知らずの野次馬であった。誰も彼もが、好奇の眼差しで楊鷹を眺める中、たった一人月蓉だけが目に涙をためていたのだ。

 そのときの光景を、楊鷹はまざまざと覚えている。月蓉の辛そうな表情を前にして何もできなかった己のことも、嫌というほど記憶に残っていた。彼女の潤んだ瞳からついに涙がこぼれても、ぬぐってやれなかった。重たいかせで縛められていたために。

 そして、今再び彼女の瞳から涙があふれた。

 楊鷹の手が自然と動く。月蓉の顔に手を伸ばすと、その頬を伝う雫をそっとぬぐった。指先に、柔らかな熱が広がる。

 楊鷹は微笑んだ。


「大丈夫だ。俺は負けないし、死なない。月蓉を置いて、死んだりしない」


 正直な気持ちを、迷いなくきっぱりと言い切ったその刹那。はたまた、月蓉はうつむいてしまった。しかも、異様に速かった。天敵に気づいて藪に飛びこむ兎さながら、ぱっと顔を隠してしまった。

 楊鷹は笑みをひっこめ、真面目腐った顔つきになる。


(何か、変なことをやってしまったか?)


 これまでの一挙一動を思い返す。特段変なことをしたつもりも言ったつもりもなかったが、彼女を安心させるには足らなかったのだろうか。否、そうではなく、突然肌に触れたのがいけなかったのか。つい涙をぬぐってしまったが、それは確かにぶしつけだった。


「すまない、月蓉。急に触ってしまい……」

「ち、違います! 謝らないでください!」


 月蓉の叫ぶような声が、楊鷹の言葉を遮った。次いで響いたのは、げほげほという乾いた咳音。楊鷹は、はっとして寝台に振り返った。

 咳は、確かに寝台かの方から聞こえた。だが、そこに寝ている毛翠の寝息は、至極穏やか。どうやら咳をしたのは一瞬で、目が覚めたわけではないらしい。

 月蓉が、あくせくとささやいた。


「あの、大声を出してしまって、ごめんなさい……」

「起きたようではないから、気にするな」


 そう言うと、楊鷹は月蓉に向き直った。

 彼女はもう、うつむいていなかった。大きな声を出してしまったことを恥じているのか、ほんのり頬が赤いものの、その瞳はまっすぐ楊鷹に向けられていた。黒々とした瞳には涙の名残がにじみ、星を散らしたようなきらめきを湛えている。満天の星を宿す、美しい瞳。つい、楊鷹は見とれてしまった。

 しばし見つめ合った後、月蓉が口を開いた。


「あの、楊兄さん」

「なんだ?」

「その……本当に、本当に、死なないでください。死んでしまったら、終わりですから。危なくなったときは、無理しないでください」

「分かった。ちゃんと戻って来るから、待っていてくれ」


 楊鷹は月蓉を見つめたまま、しかと頷いた。

 すると、今一度彼女の目尻から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

 楊鷹はぎょっとする。気づかぬところで、また何かしでかしてしまったのだろうか。

 そんな心配も束の間、月蓉は自身の指で涙をぬぐうと、柔らかく微笑んだ。


「すみません。その、これは、嬉し涙みたいなものです。楊兄さんが、とても頼もしい返事を返してくれるから、つい……」


 ようやっと笑ってくれたことに、楊鷹は安堵する。


「そうか。少しは不安が和らいだか?」

「はい。落ち着きました」


 そう答える月蓉の表情は、だいぶ明るい。もう、大丈夫そうだ。楊鷹はゆっくりと立ち上がった。

 月蓉も、後に続いて立ち上がる。それから、楊鷹に向かって一礼した。


「長々と付き合って下さって、ありがとうございました。おやすみなさい」

「ああ。おやすみ」


 楊鷹は、にこやかに返す。まるで家族のような、ねんごろとしたやり取りに、胸の内が温かくなる。

 一方、月蓉はきゅっと眉根を寄せた。なんとも悩ましい、切なげな表情である。しかし、その(おもて)が見えたのは一瞬のこと。彼女はさっと体を翻すと、小走りで部屋を出ていった。

 

 ぱたりと閉まった扉を、楊鷹はまじまじと見つめた。胸に広がったぬくもりが、ほろほろと散ってゆく。


(月蓉、随分と急いでいたようだが、どうしたんだ……?)


 もはや逃げ出すようだった。もしかしたら、怒らせてしまったのだろうか。月蓉が眉をひそめた瞬間、彼女の顔の赤みが増したような気がした。

 泣いたり、笑ったり、怒ったり。なんとも忙しない様子であったが、本当に月蓉の心は落ち着いたのだろうか。彼女自らそう言っていたが、本心ではなかったのかもしれない。


「このぼんくら……」


 ふいに、幼い声の悪口が聞こえた。楊鷹は寝台を見やる。

 毛翠は相変わらず、眠っていた。起きた様子もなければ、寝返りも打っていない。静寂の中、聞こえるのは可愛らしい寝息のみ。しばらく待ってみても、息は息のまま、言葉にはならなかった。先ほどの悪口は、寝言だったらしい。それにしては、やけにはっきりと聞こえたが。


「あんたに言われたくない」


 楊鷹は、小声で言い返す。しかし、やはり返事はない。ただ、赤子の穏やかな寝息が響いている。

 寝言に対してむきになって言い返した自分が、急に恥ずかしくなってきた。

 楊鷹は明かりを落とすと、そそくさと(とこ)に就いた。

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