頼れる仲間・四
そうして待つことしばらく。月蓉が持ってきてくれた食事は、絹の寝具に負けず劣らず、かなり立派なものだった。黄菊の花弁を散らした粥は、見た目のみならず味も上等。ほのかな塩味が、寝起きの体に優しく染みた。その粥だけでも十分だったが、蒸した鶏に青菜を煮たものまでついていた。
月蓉が言うには、この豪華な食事は里正が仕立て上げたものとのこと。
楊鷹が目覚めたので少し食べるものが欲しい旨を里正に伝えたところ、彼は下男に、鶏を一羽しめろ、野菜は柔らかく煮るように、などとあれこれ指示を出し、あっという間にこの食事を整えてしまったらしい。
思った以上に豪華な食事が出てきたため、月蓉は恐縮してしまったのだが、当の里正は「楊鷹殿は命の恩人なのだから、このくらい当然のことだ」と朗らかに笑っていたらしい。
蒸した鶏を箸で割りながら、楊鷹はつぶやくように言った。
「恩人、と言われても、そんな大それたことをした覚えはないな……」
第一、盧西村の里正とは面識がないはずだ。
「でも、楊兄さんは里正さんにとって間違いなく恩人のようなんです。そもそも、こうしてお屋敷にとどめてもらっているのも、楊兄さんおかげなんです」
「そうなのか?」
楊鷹が尋ねれば、月蓉は「そうです」と頷いた。
「楊兄さんが倒れた後、北汀村にいるのは危険だと思ったので、私たちは盧西村に移動しました」
楊鷹は、はたと箸を止めた。
月蓉はさらりと流すような口ぶりだったが、果たしてそう簡単に北汀村から出られたのだろうか。北汀村の人々からしてみれば、己は囚人。そう易々と逃がすわけがない。
思わず、口をはさむ。
「北汀村の人々は、村から出ていくことをすんなり認めてくれたのか?」
案の定と言うべきか、月蓉は眉間をすぼめ、辛そうな表情を浮かべた。
楊鷹の胸の内に、まさか、という嫌な予感がよぎる。
「揉めたのか?」
月蓉は、ゆるゆると首を横に振った。
「いえ、揉めませんでした。李おばさんが毒を盛った以上、村の人たちもさすがに気が咎めたのか、私たちを止めることはありませんでした」
「そうか。それなら良かった」
楊鷹は、ほっと安堵の吐息をもらす。
月蓉も小さく息を吐く。同時に、彼女の眉間のしわも和らいだ。
「話の腰を折って、すまなかった。北汀村を出てから、どうなったんだ?」
楊鷹が促すと、月蓉は改めて口を開く。
「盧西村に向かう道中で、たまたま里正さんに出会ったんです。里正さんはぐったりした楊兄さんに気がつくと血相を変えました。それで、『この方は私の命を救ってくれた恩人です。私の家には薬もそろっております。手当をいたしますから、ぜひ来てください』とおっしゃって、私たちをお屋敷に招いてくださったんです」
「そういう成り行きがあったのか」
黙々と切り分けた鶏を食べながら、楊鷹は考える。
里正が抱く恩義は相当なもののようだが、一体全体、いつの間に彼の恩人になったのだろうか。まったくもってぴんとこないまま、最後の一切れを飲みこむ。
慣れた手つきで、月蓉が茶を入れる。若草を思わせる爽やかな香りが、ふんわりと立ち上った。
「なんでも、開心林が怪物に襲われたときに助けてもらったと、里正さんはそうおっしゃっていましたが、何か覚えていますか?」
茶を差し出しながら、月蓉が問いかける。そこでようやく、楊鷹は思い当たった。
開心林が襲撃されたあの夜。烈熾狼に狙われた男を助けた。戦いの最中に起こった、ほんの少しの間の出来事ゆえ、男の顔も背恰好もよく覚えていない。壮年の男だったような印象があるが、記憶に残っているのはその程度だ。とはいえ、まさかその男が里正という立場の者だったとは。
「確かに一人、危ういところを助けたな……。そうか、あの時の……。無事に逃げ延びていたのか」
そう言いながら、縁とは不思議なものだとしみじみと思う。あの時の情けが、巡り巡ってこうして帰ってくるとは、世の中とは分からないものである。
それから茶を飲み終え、すっかり食事を終えた頃、見計らったかのように件の里正がやって来た。
楊鷹の無事を見ると、彼は安心したようで、改めて「開心林ではありがとうございました」と礼を述べた。なんでもあの時、里正は喬徳が開いた酒席に嫌々参加していたらしい。ゆえに、烈熾狼と目が合ったその時、心の底から後悔した。「やはり、来なければよかった」と。痛恨極まりない死を迎えようとしたその刹那、彗星のごとく現れ、怪物を切り払った楊鷹。里正はその姿を今でも鮮明に覚えており、まるで天から武神が舞い降りてきたように思ったのだとか。
だからこそ、これほどにも懇ろなもてなし。最後に里正はこう言った。
「仲間の皆さんも含めて、好きなだけ滞在してください」
まったくもって、義理堅い男である。加えて世話好きなのか、その後里正は手足を洗うための湯やら、着替えの着物まで持ってきてくれて、本当に至れり尽くせりであった。
これにはむしろ、楊鷹の方が感謝するばかり。その優しさが殊更胸に染みて、少々涙ぐんでしまうほどだった。
※※※
楊鷹にとって書室とは、いたるところに書物や巻物が積み上がっている部屋、である。ときには、散らかった書物や紙束の合間に、筆が転がっていることもある。そのような奔放な部屋を思い浮かべてしまうのは、楊鷹の学び舎 であった月氏の書室がそうであったからに他ならない。
そのため、眼前に広がる部屋の光景に、心底驚いてしまった。書室であるにも関わらず、整然としていたのだ。
書物も巻物も壁際の棚にすべて収まり、床に転がるものは一つもない。部屋の中央にあるつくえには、硯箱が置いてある。筆や硯は、みなこの箱にきっちりとしまわれているようだ。書棚とは反対側の壁際には椅子が四脚、列を乱すことなく真っ直ぐ並んでいる。
この整いよう、もはや美しくて惚れ惚れとしてしまう。
身支度を整えた後、仲間たちと話がしたいから何処か場所を貸してくれと、楊鷹は里正に頼んだ。王嘉だけでなく銭秀たち蒼香山の面々もいるとなると、寝室では少々狭いように思えたのだ。
楊鷹の頼みを、里正は相変わらず快く飲むと、この書室を使うよう、自ら案内してくれたのだった。
「 ……きれいな書室だな」
「本当に……。父さんの部屋とは大違いです」
楊鷹がぽつりとつぶやけば、かたわらの月蓉も吐息混じりに頷いた。感心している様子だが、彼女も楊鷹と同じことを思っているらしい。
優しくそよ風が吹くように、ふわりと懐かしい気持ちがわきあがる。ふっと、楊鷹の頬が緩む。
「硯箱を開けたら、靴が片方だけ入っていたことがあったな」
「確か、右足の方でしたよね。父さん、集中しすぎると、ときどき変なことをしてしまう人だったから」
確か、硯箱に靴、のときは「本を読んでいたら履物を履いているのが窮屈に思えてきて、脱いで箱に仕舞ったんだった」というのが、月氏の言い分であった。そうだとしても、何故右側の靴だけを硯箱に入れたのか。月氏が故人となってしまった今、その真相は永遠の謎となってしまったのだか、それはさておき。
「懐かしいですね」
月蓉は楊鷹を見つめ、柔らかく笑う。
「そうだな」と返しながら、 楊鷹も月蓉に笑みを向ける。
そうして、微笑み合うこと、ほんの一拍。突然、月蓉は笑顔を引っ込め、真顔になった。
「お、思い出話をしている場合じゃなかったですね。私、王嘉さんや銭秀さんたちを呼んで来ます!」
楊鷹も、はっと我に返る。
「月蓉、超慈も呼んできてくれるか? 彼にも……頼みたいことがある」
「分かりました。すぐに呼んできますから、楊兄さんはこちらで待っていてください」
いそいそと、月蓉が書室から出てゆく。
一人になった楊鷹は、整った室内を改めてを見渡した。
つくえの奥の壁に、書軸が飾られている。書かれているのは、『豁然開朗』の四字。
豁然開朗、すなわち、目の前が明るく広がっているということ。
その言葉の通り、窓からは、はつらつとした朝日が差しこんできていた。しつこい雨雲は、ようやっと過ぎ去ったようである。
そして、生き埋めにでもされていたかのような、暗澹 とした日々も終わった。
光を浴びながら、楊鷹は深呼吸をした。なんとも清々しい気分である。
敵は生半可な相手ではない。そう簡単には勝てないだろう。だが、眼前は開けた。未だ遠くだが、希望の光は確かに見える。ならば、それに向かって邁進するのみ。
楊鷹は、ぐっと顔を上げた。そのとき、書室の扉が開いた。
「楊鷹、無事か! 良かった、本当に良かった!」
早速、甲高い子供の声が弾ける。やって来たのは、王嘉と彼に抱かれる毛翠であった。
父と子の感動の再開、とは相成らず。楊鷹の胸中に吹き出たのは、いたたまれない気持ちであった。赤子の父親という果てしなく不可解な存在を、王嘉に抱かせてしまっているのが痛烈に申し訳ない。
楊鷹は素早く彼らに近づくと、王嘉からぱっと毛翠を取り上げた。
毛翠が楊鷹を見上げて、はたまた声高に言った。
「体はもう大丈夫なんだな? 無理はしていないな?」
「大丈夫だし、無理もしていない。だから、少し静かにしてくれ。しゃべるところを、見られたらどうする」
「部屋の周りに人はいないから、大丈夫だろう。私のことも、気にしなくて良いよ。大方の事情は、聞いたからね」
楊鷹が振り返れば、ほんのりと口の端を上げる王嘉と目が合った。
王嘉の声音に、責めるような色は無かった。しかし、楊鷹の頭の中によぎるのは、菁雲村の王嘉の家を訪ねたときのこと。彼に事情を尋ねられたが、正直に話せなかった。それから、此度の出来事。
彼の穏やかな表情に、胸が詰まる。楊鷹はさっと一礼した。
「その節は何も話せず、隠すような真似をして申し訳ありませんでした」
「気にしないでくれ。そう簡単に話せる内容じゃあない。私が君だったら、きっと同じように本当のところは何も言えなかったさ」
さっぱりとした、気さくな答えが返ってくる。楊鷹は顔を上げた。やはり微笑みながら、王嘉は拱手の礼を返す。
彼はもう、楊鷹の事情をあらかた知っているようだ。その奇々怪々とした身の上を彼は信じてくれたうえ、さらに手を貸そうとしてくれている。否、すでに手を貸してくれたといって良い。王嘉がいなければ、楊鷹は李白蓮の毒牙にかかり、命を落としていた。
また、楊鷹の胸が詰まる。己は、一人ではないのだ。邪険にする者がいる一方で、手を差し伸べてくれる者だっている。
毛翠を抱えている手前、拱手ができないことがもどかしい。その分深々と頭を下げる。
「失礼な真似をしたにも関わらず、こうして駆けつけていただいて、本当にありがとうございます」
「そんなに何度も頭を下げないでくれ。大事なのは、これからなのだろう?」
「そうだ、そうだ。祭りはまだ始まってもねぇんだろ?」
王嘉が優しくたしなめるのに次いで、男が声を弾ませる。
その活きの良い声音には、聞き覚えがあった。楊鷹がぱっと頭を返してみれば、ちょうど銭秀が部屋に入ってくるところだった。




