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小仙奇譚  作者: 平井みね
第二章
102/131

囚われの身・十

※※※


 燭台の(あかり)が照らす室内は、痛ましいほど荒れ果てていた。

 卓に椅子、衝立や長櫃(ながびつ)といった調度品はすっかり焼け焦げ、濃墨を塗りたくったかのように真っ黒だ。壁も煤で汚れている。天井に至っては一部が崩れており、曇天の夜空が覗いていた。

 木や脂が焦げた臭いや何かが腐ったような()えた臭い、それから血の生臭さ。それらが混じり合い、死臭という言葉では足りないほどの不快な臭いが漂っている。

 この部屋は、開心林(かいしんりん)の通りに門を構える妓楼(ぎろう)の一室である。綾錦あやにしきで飾り立てた妓女(ぎじょ)に負けないほど、部屋自体にも精緻な装飾や細工がそこかしこに施されていたことだろう。それこそ、豪華絢爛の極致と言わんばかりに。だが、そのようなきらびやかな様子は、もはや見る影もない。

 冥府の鬼神さえも驚くであろう、この光景。このようなところにいたならば、一刻も経たぬうちに気を病むに違いない。

 しかし、今、この無惨な焼け跡には、素っ頓狂な男の歌声が朗々と響いていた。


「一口飲んだら夢の世界へご案内〜、二口飲んだらあの世行き〜」


 男――慧牙(けいが)は、黒焦げの琴をでたらめにかき鳴らす。焦げた弦の音はところどころ(かす)れ、阿鼻叫喚の響きを奏でた。


「そんな毒があったなら、(ちん)もびっくり仰天だ!」


 ひと際歌声を弾ませると、慧牙は勢いよく諸手を突き上げた。暗闇の中に、琴弦の残響が吸い込まれ、消える。

 慧牙は手をおろすと、くすくすと笑った。我ながら、ひどい歌だと思う。ひどすぎて、可笑(おか)しい。

 ひとしきり笑った後、慧牙は改めて弦をつま弾いた。もう一度、弦を弾く。さらに、もう一度。そうして九回、弦を鳴らしたところで、慧牙は手を止めた。


「もうすぐですね」


 慧牙は独りごちると、そっと立ち上がり窓に近づいた。

 格子の向こうに見えるのは、闇。外は真っ暗だ。死んだ街に、明かりはない。

 荘炎魏(そうえんぎ)開心林(かいしんりん)を襲撃してから、十日が過ぎようとしている。だが、遊行の街は未だに死んだままであった。役人たちが現場を(あらた)めにやって来たものの、あまりの惨状にどう手をつければ良いのか見当もつかないのか、検分はほとんど進んでいないようだった。死体こそきれいさっぱりなくなったものの、おびただしい数の瓦礫や血痕は放ったらかしにされている。

 慧牙は目を閉じた。じっと耳を澄ませてみれば、悲鳴や怨嗟の声が聞こえてくるようだ。その、声なき声に耳を傾ける。肌に、冷たいものがまとわりついてくる。

 荒ぶる御霊を鎮める言葉などない。


「……恨むのなら、どうぞ恨んでください」


 慧牙の口から、静謐な声がぽつりとこぼれる。その声に、先程の素っ頓狂な歌声の響きはない。やけに落ち着き払った声音だった。


 慧牙は一つ息を吐くと、目を開けた。それから、おもむろに天を仰ぐ。

 崩落した天井から覗く夜空もまた、暗かった。日中降っていた雨はすでにやんだものの、雲は未だにしつこく居座っている。

 しかし、よくよく目を凝らしてみれば、空の低いところに、ほんのりと白っぽく色付いている部分があることに気がつく。あそこの雲は、薄いのだろう。白っぽくなっているのは、月影がかすかに透けているのだ。あの薄雲の向こうには、月が隠れている。闇に侵され、だいぶやつれてしまった月が。

 月が闇に飲みこまれるまで、もう少し。そして、そのときに、あの父子の命運は決する。

 慧牙は自身の袖から、小さな袋を取り出した。その袋の中から、銭を一枚取り出すと、弄びはじめた。手中で銭を転がしながら、ほのかに明るい空の一点をじっと見つめる。


「風向きが変わるのでしょうか」


 そうつぶやくと、慧牙は手中の銭を指先で弾き飛ばした。銭は高々と跳ね上がり、落ちてくる。落下してくる銭を、慧牙は素早くつかみ取った。


(翠とその息子について。表が出れば吉。裏が出れば凶としましょう)


 占術とは呼べないような、運試し。だが、もしもこれまでの占いとは異なる結果だとしたら、それはおそらく(ほころ)びの(きざ)し。

 慧牙は握りしめた手を開こうと、指先を動かした。そのとき、燭台の灯火が大きく揺れた。慧牙の指が、はたと止まる。


「独りだというのに、うるさい奴だな」


 呼びかけにしては、冷ややかな声が響いた。慧牙は改めて右手を握りこむと、人好きのする笑みを顔に張りつける。それから、ゆったりとした動作で、振り返った。

 開けっ放しの扉――そもそも、壁とのつぎ目が壊れた扉は、閉めようがない――のところに、荘炎魏(そうえんぎ)が立っていた。

 荘炎魏は、その大柄な体躯(たいく)を屈めながら部屋に入ってくる。慧牙は両手を袖に入れ、にこやかに拝礼した。


「こんばんは、荘炎魏。死の街のお散歩はいかがでしたか?」


 質問には答えず、荘炎魏は大股で慧牙(けいが)に近づいた。


「いい加減、貴様のその笑顔が鼻につくようになってきた」


 抑揚のない、地をはうような低い声で荘炎魏は言った。大声ではない。むしろ静かな口ぶりだが、その感情を感じさせない冷ややかな響きが、かえって恐ろしい。

 荘炎魏は、頭一つほど低いところにある慧牙の顔を睥睨(へいげい)する。屈強な神仙は、間違いなく怒っていた。

 しかし、おぞましい声音と視線に晒されても、慧牙は動じない。相変わらず、にこやかに笑っている。


「おや、今更ですか?」


 茶化すように慧牙が言った。

 刹那、荘炎魏が剣を抜き放つ。白く燃える剣身が、薄闇に一筋の光を引く。その白刃が行き着いた先は、優男の細い首筋。剣身は吸いつくように慧牙の首に添い、そこで止まった。その近さ、間に髪の毛一本を入れる隙間もない。しかし、燃え盛る刃が迫ってもなお、慧牙は笑みを絶やさない。

 荘炎魏は、剣を慧牙の首に添えたまま、鋼の笑顔をにらみつけた。


「回りくどい真似をして、貴様は何がやりたい?」


 怯むどころか晴れやかに、慧牙は声を弾ませる。


「ですから、人間たちが惑う様を眺めるのが、私の楽しみなのです」

「これの何が面白い? 奴らが自滅する気配など、微塵もないではないか。これは貴様の望み通りなのか? 奴らは惑っているのか?」

「おや、貴方は面白くありませんか? 昼間、様子を見に行ったところ、惑っていましたけれど」


 今日、まだ日が高い時分。慧牙は旅人に化けて、こっそり北汀村(ほくていそん)まで様子を見に行った。すると、(すい)とその息子は監禁されていた。さらに、村人たちは逃げないように足を折れだの、いっそ殺してしまおうだの、否それはやりすぎだのと、やんややんやと言い争っていた。

 翠たちをいち早く始末したい手荒い人々と、乱暴な真似はやりすぎだと主張する穏便な人々と、村人たちは真っ二つに分かれ、対立している。そのせいで、村の空気はぎすぎすと(いた)み、なんとも不穏な雰囲気が充満していた。

 くすりと、慧牙は小さな笑い声をもらす。


「良い具合に煮えていますから。あと少しで煮詰まって煮詰まって、吹きこぼれます。いや、爆ぜるでしょう。お膳立てだって、してきたんですから」

「お膳立て?」


 荘炎魏が眉をひそめて聞き返す。

 

「村人の一人に、とっておきの贈り物をしてきました」


 そう言うと、慧牙は一層目を細めた。


「毒を渡したんですよ」


 村の様子をうかがっていたところ、慧牙は孤立している女性がいることに気がついた。気の毒にも、彼女は村人全員から責め立てられているようであった。

 慧牙は、その女性を見初めた。さらなる嵐の立役者として。そして、慧牙は、彼女に毒を渡したのだ。それだけでなく、ほんの少しにおうのでなるべくにおいや味の強いものに混ぜた方が良いだとか、食事や飲み物自体ではなく器の方に仕込む方が気付かれにくいだとか、いろいろと助言までした。否、助言ではなく、煽動か。

 何はともあれ、彼女が毒を有効に使ってくれたなら、間違いなく嵐が巻き起こる。翠たち親子も人々も、皆さらに荒ぶり、面白いことになるだろう。


「ですから、もう少し私の楽しみにつき合ってください。どちらにせよ、約束の日はもうすぐです。焦らずとも良いじゃあないですか」


 荘炎魏は何も言わない。剣を収めようともしない。だが、慧牙は一切構わずにしゃべり続ける。


「いくら時間を与えようとも、彼らが貴方に敵うわけがない。仮に逃げたとしたら、また追えば良いだけの話。逃げずに立ち向かってきたのなら、返り討ちにすれば良いだけの話。それとも……」


 慧牙は荘炎魏の鋭い眼差しを、真っ直ぐ見返した。


「……貴方は彼らに、半人半仙に負けるとでもいうのですか?」


 白い刃が翻る。稲妻のような白光が真横に閃くと同時に、煌々と照っていた燭台の明かりが消えた。荘炎魏が、ろうそくの芯を()ね飛ばしたのだ。

 ろうそくの先から、まるで血が流れるように、細い白煙がくゆる。

 ゆったりとした動作で、荘炎魏は切っ先を慧牙に突きけた。


「誰が、負けるだと?」


 問いかける荘炎魏の声は、さながら冥府の王が詰問するかのごとく、暗い威厳に満ちていた。白陽剣(はくようけん)の白い炎に照らされた彼の顔には、怒りというより殺意がにじんでいる。血走った瞳が、瞬きせずに慧牙を見つめていた。

 慧牙はさっと目を伏せた。


「これは失礼しました。貴方が負けるわけがない」

「貴様はさっさと桃李虚(とうりきょ)に帰れ。目障りだ」

「そんな、どうかご容赦を。期日が来たら、一切口も手も出さないと約束します。ですから、ひとつ、お願いいたします」


 慧牙が、(うやうや)しく礼を捧げる。

 荘炎魏は、揺るぎない酷薄な声で言った。


「その言葉、(たが)えるなよ」


 そう言い捨てると、荘炎魏は剣を納めて(きびす)を返す。乱暴な足音を響かせながら、彼は部屋から出ていった。

 静けさが戻ってくる。死んだ街に、音はない。人の声はもちろん、夜鳥の鳴き声も鼠が駆け回る足音も聞こえない。

 聞こえるのは、声なき声のみ。冷え冷えとした気配をその身に受け止めながら、慧牙は今一度目を閉じ、つぶやいた。


「……帰れるわけが、ないでしょう」


 慧牙は袖から手を出すと、握りしめていた右手をそっと開いた。次いで、ゆっくり目を開くと、手のひらをまじまじと見つめる。そこには、銭が一枚載っているはずだが、明かりが途絶えた今、ただの闇溜まりにしか見えない。それでも、暗がりを見つめ続けていると、徐々に目が慣れてくる。やがて、慧牙の瞳は銭の形のみならず、表面に刻まれた模様までも捉えた。

 ぼんやりと見えたのは、尾鰭(おびれ)をなびかせて泳ぐ二匹の鯉。それすなわち、裏が出たということ。

 風が吹き、雲が散ったのだろうか。ほのかに月光が(かお)り、わずかに闇を和らげる。

 慧牙は月影を見上げ、婉然(えんぜん)と微笑んだ。

ストックが尽きたため、次回から隔週更新になります。

次回更新は6月16日(金)の午前7時です。

申し訳ありませんが、引き続きお付き合いいただけますと幸いです。

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