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小仙奇譚  作者: 平井みね
第二章
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囚われの身・九

 幼い声が聞こえたのは、横合いから。楊鷹(ようおう)はぱっとそちらを見やる。いつの間に外に出てきていたのか、祠廟(しびょう)の角に四つん這いの毛翠(もうすい)の姿があった。彼は険しい顔つきで、李白蓮(りはくれん)をにらんでいる。

 楊鷹の全身から、血の気が引いた。すぐさま、李白蓮へと視線を戻す。

 だが、獨酒(どぶろく)について、彼女を問いただす間はなかった。李白蓮が、問答無用で酒壺を投げつけてきたのだ。狙ったのは、楊鷹の顔である。

 至近から放たれた一発。さける暇はない。とっさに、楊鷹は左手を掲げて盾とした。酒壺はその盾に直撃し、砕け散る。

 顔には当たらずとも、強烈な一撃には変わりない。思わずよろめいた楊鷹は、とっさに踏ん張ろうとする。しかし、足に力が入らない。それどころか、地に足をついている感覚すらなくなった。同時に、手の力も抜け落ちる。手中から碗が滑り落ち、獨酒もろとも弾け飛んだ。

 もはや、為す術もない。楊鷹は一步二歩よろめいた後、がっくりとくずおれた。


 祠廟の(ひさし)からはみ出た体に、雨は淡々と注ぐ。楊鷹はその場に手足をついたまま、そぼ濡れる。足も腕もすっかり萎えたまま、どうしたって力が入らない。やけに頭がぼんやりとする。今にも、地面に()してしまいそうだった。

 一体、いつどうやって仕込んだのか。それは分からないが、毛翠の忠告どおり、濁酒には毒が盛られていたらしい。


「楊鷹!」


 悲痛な声に名を呼ばれて、楊鷹は顔を上げようとするも、思うように動かない。頭が鉛の塊になってしまったのかと錯覚するほど、重たくてたまらない。やっとのことでわずかに頭をもたげれば、視界に入ったのは毛翠の姿。そして、彼に迫る李白蓮。

 楊鷹を潰した今、その毒牙は赤子に向かおうとしていた。

 頭が回らない中で、楊鷹はかろうじて口を開く。


「逃げろ……」


 だが、出てきたのはくぐもった低い声だった。毛翠の耳に届いたか、甚だ怪しい。

 案の定と言うべきか、毛翠は逃げようとしなかった。


「逃さないよ!」


 怒声一発、李白蓮は()え、毛翠めがけて飛びかかった。まるで、子兎に襲いかかる大虎といった有様。しかし、子兎の方もしたたかだ。小さな体を素早く動かし、李白蓮の大きな手をひらりとかわす。

 本物の子兎らしく、そのまま逃げて身を隠せば良いというのに、毛翠は一目散に楊鷹へ駆け寄った。


「おい、しっかりしろ!」


 赤子の振りなどかなぐり捨てて、毛翠は声を張り上げる。

 楊鷹は再度声を振りしぼった。


「いいから、逃げろ……」


 手足から力が抜け落ちる。楊鷹はぬかるみの中に倒れ伏した。


「楊鷹!」


 毛翠が、楊鷹の体をぺちぺちと叩く。

 雨水を蹴る、粘ついた足音が聞こえた。李白蓮が大股で近づいてくる。楊鷹は取りすがる赤子を追い払おうとするも、うまく腕が動かない。手は力なく、黒い頭の上をかすめただけだった。

 足音が止まる。太い腕が伸びてきて、毛翠を軽々と抱え上げた。

 

「まったく、手間をかけさせるんじゃないよ」


 憎々しい声が降ってくる。

 楊鷹は、どうにかこうにか頭をひねる。すると、意地悪く笑う李白蓮と目が合った。


「ざまあないね」


 李白蓮は鼻で笑った。

 彼女の腕の中で、毛翠がじたばたと暴れる。


「離せ! この、離せ!」

「黙れ、化け物! 赤ん坊のくせにしゃべりやがって!」


 李白蓮が声を荒らげば、毛翠も負けじと大声で叫ぶ。


「誰が黙るか! この期に及んでこんな真似をしおって! この下衆げすが!」

「何が下衆だ! あんたらが、私の暮らしをぶち壊したくせに!」


 楊鷹は、どきりとした。

 李白蓮がぎろりと楊鷹をにらみつける。


「わたしゃ、もう訳の分からない奴らに、付き合うのはごめんだよ! 村の奴らからも『お前がよそ者を引き入れたせいだ』とか責められて、なじられて! もうさんざんなんだ! だから、終わりにするんだよ! 今日にもあんたらを喬徳(きょうとく)の屋敷までしょっぴいて、何もかも終わりにするんだ!!」

「期日まで待たなければ、おまえたちは褒美の宝玉が貰えないんじゃないのか!」


 わめき散らす李白蓮に対して、毛翠は大人びた口調で叱責するように言い返す。しかしながら、李白蓮には通じなかった。彼女はますます目を尖らせ、大声で叫ぶ。


「こうなったのは私のせいだから、私にはその褒美の分け前はないんだとよ! だから、もうそんなことは関係ないんだ!!」

 

 楊鷹の知らないところで、村人たちは紛糾(ふんきゅう)していたらしい。そして、李白蓮は責められ、罪を問われた。

 はしごを外された彼女が、律儀に期日まで待つ意味はない。むしろ、待たずに事を終わらせようという、魂胆なのかもしれない。そうすれば、李白蓮のみならず、誰も褒美を得ることができない。人を呪わば穴二つ。村人たちに意趣返しする腹積もりで、李白蓮は今日、事に及んだということか。


「全部、全部、おまえらのせいだ! 私のせいじゃない。おまえらが、めちゃくちゃにしたんだ! 大人しく死ね!」


 李白蓮の狂乱じみた叫びが、雨あられと飛び散る。それらが、楊鷹の心をひしひしと打ちつける。


(そうだ、俺たちのせいだ……。俺たちが、北汀村(ほくていそん)の人々の生活をめちゃくちゃにした)


 李白蓮の怒りはまっとうだ。

 ただでさえ貧しく暗澹(あんたん)とした日々が、神仙という訳の分からない存在のせいで、さらに暗く混沌としたものになった。そして、神仙を呼び寄せたのは楊鷹たち。楊鷹たちが北汀村にやって来なければ、このようなことは起こらなかった。李白蓮が恨むのも、当然である。

 それならば、と楊鷹はぼんやりと思う。


(彼女の言うとおり、今ここですべて終わらせれば……)


 李白蓮も村人たちも、少しは楽になるのだろうか。

 そして、この重苦しい心身も、楽になるだろうか。

 意識が遠のく。もう、考えるのも動くのも億劫でたまらない。すべてを投げ出してしまいたかった。まぶたが落ちてくるままに、楊鷹は目を閉じる。

 闇がまとわりついてくる。遠くで、李白蓮が口汚くわめいている。その罵詈雑言(ばりぞうごん)の数々を、毛翠の高い声が遮った。


「そうだ、李白蓮(りはくれん)! お前のせいじゃあない! こうなったのは、間違いなくわしらのせいだ。だから、わしらが神仙どもを退治するんだ! そのために、協力してくれと頼んでいるんだろうが!」


 やけに明々(めいめい)と響いた赤子の叫びは、暗がりに沈もうとする楊鷹(ようおう)の意識を引き止めた。

 楊鷹は思い出す。神仙と戦うと決めたときのことを。

 事の元凶は、まぎれもなく自分自身。だからこそ、己の手で決着をつけねばならない。そのうえで、誰の犠牲も出さずに、神仙たちに打ち勝つのだと決意した。そうしなければ、心が死ぬと、後悔すると思ったのだ。

 戦うことを決めたのも、自分自身。他人の言葉も意思も関係ない。すべては、己のために己が決めたことだ。(そし)られようとも、なじられようとも、関係ない。


(それに、俺は一人じゃない……)


 まぶたの裏に浮かんでくるのは、旅立っていった月蓉(げつよう)超慈(ちょうじ)の姿。彼らのためにも、易々とあきらめてはならない。終わりにしてはならない。


(第一、こうして虎穴に入るような真似をしたのも、俺の意志だろうが……!)


 ならば、少し噛まれたくらいで怯んでどうする。

 暗闇の中で、ぱちりと小さな光が()ぜた。

 楊鷹は目を開けて、李白蓮を見た。


「そうだ、貴方は関係ない……」


 自身に言い聞かせるように言いながら、楊鷹は右手で地面をさぐる。指先が碗の破片に触れると、そのままつかみ取る。そして、破片を左の手の甲に突き刺した。鋭い痛みが走る。だが、その痛みによって、朦朧(もうろう)としていた意識が()めた。

 楊鷹は破片を引き抜き放り捨てると、地面をつかむように、両手に目いっぱい力をこめた。爪の中に泥が入りこむが、そんなことお構いなしだ。そうして強引に上体を起こすと、今度は足を動かす。震える足の動きは、ぎこちない。つま先を立てれば、泥に滑りそうになる。それでも、楊鷹は立ち上がった。

 李白蓮が目をむいて、後ずさった。


「あんた、なんで起きれるんだ! 一滴でも飲んだら、すぐに気を失うって聞いたのに!」

「その子供を離せ……」


 楊鷹が、李白蓮に一歩詰め寄る。


「それ以上、動くな!」


 わめきながら、李白蓮はさらに大きく後退する。そして、彼女は後ろ手に腰をまさぐると、抜き身の短刀を取り出した。

 鈍い光を湛える刃を、毛翠に突きつけながら李白蓮は叫ぶ。


「それ以上、こっちに来るな! 来たら、この餓鬼がただじゃすまないよ!」


 毒酒のみならず、そのような凶器まで持っていたとは、李白蓮の内に渦巻く意志もまた、相当なもののようであった。彼女の脅しは、見せかけではない。彼女は、赤子を傷つけることも(いと)わない。

 神仙といえども、赤子に変えられてしまった今の毛翠の体は、普通の幼子と同じように柔らかい。短刀であっても、深手を負うだろう。

 楊鷹は歯噛みした。こうなっては、迂闊に動けなかい。しかも、毒が抜けたわけではないのだ。()えた体で一瞬の隙を突くのは、到底無理な話だ。

 言われたままに、楊鷹はその場に立ちつくす。しかし、李白蓮は刃を収めようとしない。楊鷹と李白蓮は、ただただじっとにらみあう。

 しばしの膠着の後、動いたのは毛翠であった。毛翠が、李白蓮の腕に、がぶりと噛みついたのだ。

 李白蓮が、くぐもった声をもらす。ところが、彼女も一筋縄ではいかない。毛翠を離すどころか、むしろその逆。自身の体に腕を引き寄せ、赤子をきつく抱きとめる。毛翠が苦しそうに呻いた。


「この、くそ餓鬼が!」


 罵りながら、李白蓮は短刀を振り上げた。


「やめろ……」


 凶刃を止めようと、楊鷹はとっさに土を蹴る。しかし、体はいうことを聞かない。二歩と行かぬうちに足がもつれ、転んでしまった。

 李白蓮の怒りに燃えた目は、毛翠を捉えたままだ。女の手が、短刀の柄を強く握りこむ。その動作は、一刀を(くだ)す合図のようだった。

 もはや、これまで。逃れられない一撃だと、楊鷹は悟る。

 そのとき、どこかで弓弦を弾く音が鳴った。次の瞬間、細い一筋の光が飛んできて、李白蓮の手もとにぶつかった。

 (かね)を打つかのような音が高らかに響き、短刀がどこかへとすっ飛ぶ。


「ぎゃっ!!」


 汚い悲鳴を上げながら、李白蓮は尻もちをつく。そのはずみで、毛翠の拘束もほどけ、彼は地面に転がり落ちた。

 光の筋が走ったのは、ほんの一瞬。それでも、楊鷹にはその光の正体が見えていた。それは、一本の矢であった。一箭(いっせん)が李白蓮の持つ短刀を弾き飛ばしたのだ。

 こんなことができるのは、今世においてはおそらくただの一人だけ。


「無事か!」


 凛とした男の声が飛ぶ。その声にすがる思いで、楊鷹はおもむろに視線を動かした。

 煙雨の中、軽快な足並みで駆けてくる栗毛の駒。馬上にて手綱を操るのは、戦袍をまとった青年である。

 力強い馬蹄の音に合わせて、青年の一まとめに束ねた黒髪がなびく。

 その颯爽とした姿は、楊鷹にとって馴染み深いものであった。かつて、禁軍の修練の場で、よく目にしていた。


王嘉(おうか)殿だ。助かった……)


 ほっと安堵したとたん、全身の力が抜ける。ひどく眠たくなってきた楊鷹は、抗うことなく意識を手放した。

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